平常将
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛弘7年9月15日(1010年10月24日) |
死没 | 承保3年6月3日(1076年7月6日) |
別名 | 恒将、経将、常昌、千葉介 |
氏族 | 房総平氏 |
父母 | 父:平忠常、母:平公雅娘 |
兄弟 | 忠将、常将、常近、胤宗、忠宗、忠高、頼常(千葉万次郎) |
妻 | 中原師直女?[1] |
子 | 常長、常直 |
平 常将(たいら の つねまさ)は、平安時代中期から後期にかけての武士。平忠常の子。恒将、経将、常昌とも。
略歴
[編集]父・忠常は長元元年(1028年)以来、朝廷に反旗を翻していたが(平忠常の乱)、同4年(1031年)に降伏した。常将は弟の常近と共に父・忠常の平安京への連行に従事した。忠常は美濃国で病没し、首は京で晒されたが、常将・常近は罪を許された。
下総国に帰還した常将は千葉介と号したと言う。そのため、千葉氏の系図では常将を初代当主と見做すことが多い(『千葉大系図』)。
『妙見実録千集記』所収の「花見系図」に拠れば、常将は天女を妻とし、常長を儲けたとされる[注釈 1]。この天女が何を意味するのか不明であるが、『千葉大系図』には、常長の母には「大外記中原師直女」とあり、中原氏は朝廷に仕える貴族であることから、天皇に仕える「天人」の娘を娶ったという伝承から生まれた話であるとする説がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『妙見実録千集記』所収「花見系図」原文「千葉介常将、此代に至って天人降りて夫婦に成り給へり、子細は千葉の湯之花の城下に、池田の池とて清浄の池あり、此池に蓮の花千葉に咲けり、貴賤上下群集して見物す、或夜、人静まりし夜半過に天人天下り、傍らの松の枝に羽衣を懸け置き、池の辺へ立ち寄りて千葉の蓮花を詠覧し給ふ、夫より湯之花の城へ影向成りて、大将常将と嫁娶し給ひ、無程懐胎有りて、翌年の夏の頃、無恙男子産生し給ふ、是を常長と号す。
出典
[編集]- ^ 『千葉大系図』
関連項目
[編集]外部リンク
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