徳大寺実則
徳大寺 実則 とくだいじ さねつね | |
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生年月日 |
1840年1月10日 (天保10年12月6日) |
出生地 |
日本 山城国京都 (現・京都府京都市) |
没年月日 | 1919年6月4日(79歳没) |
死没地 |
日本 東京府 (現・東京都) |
前職 | 内廷職知事 |
称号 |
従一位 大勲位菊花章頸飾 公爵 |
配偶者 | 徳大寺年子(山内豊資の六女) |
子女 |
徳大寺公弘(長男) 高千穂宣麿(次男) |
親族 |
鷹司政煕(高祖父) 鷹司政通(曾祖父) 鷹司輔煕(祖父) 徳大寺公純(父) 西園寺公望(弟) 住友友純(弟) 末弘威麿(弟) 鷹司熙通(娘婿) 佐竹義生(娘婿) 松平頼孝(娘婿) 島津忠重(娘婿) 徳大寺実厚(孫) 鷹司信輔(孫) 鷹司信熙(孫) |
第2代 内大臣 | |
在任期間 | 1891年2月21日 - 1912年8月12日 |
在任期間 |
1871年9月18日 - 1877年8月29日 1884年3月21日 - 1912年8月13日 |
第2代 宮内卿 | |
在任期間 | 1871年11月29日 - 1884年3月21日 |
選挙区 |
(侯爵議員→) 公爵議員 |
在任期間 |
1890年2月 - 1911年4月20日 1911年4月21日 - 1919年6月4日 |
德大寺 實則(とくだいじ さねつね、天保10年12月6日〈1840年1月10日〉 - 1919年〈大正8年〉6月4日)は、日本の公卿、政治家。宮内卿、内大臣、明治天皇の侍従長等を務めた。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。新字体で徳大寺 実則と表記されることもある。
概要
[編集]尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)、国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。王政復古の後、1868年(慶応4年)1月に明治政府の参与・議定として内国事務総督を兼ね、2月には内国事務局督、1869年(明治2年)、内廷職知事、ついで大納言に至った。
1871年(明治3年)、宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。1891年(明治24年)、内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。また、自らの政治的関与も強く戒めて侍従長在任中は政界に転じた実弟の西園寺公望とは公の場所以外では会話しなかったと言われている。
1919年(大正8年)6月4日、流行性感冒(スペインかぜ)のため薨去[1]。享年80。
人物
[編集]- 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した小川金男は、侍従長退職後の実則について以下のように回想している[2]。
重厚な滅多に口のきかない人物である。この人はいつも顔を伏せている。伏せたまま眼だけが気を配るようにあちこちと動く。歩く時はきわめて静かで猫のように足音さえもさせない。
(中略)この人が顔をあげて歩くのは邸内の庭を歩く時だけであった。一旦人中に出れば、自然に頭が下がって、眼だけをわずかに動かすのである。
恐らくこういう公爵の様子は、明治陛下の侍従長として長い間お勤めしている間に、陛下の行幸に御陪乗して、いつも陛下の御前に座り、黙って頭を伏せて、しかも四方に気を配っていなければならなかった生活からきたものであろう。それがすでにこの人の性格にまで根を下ろしていたのではあるまいか。
墓所
[編集]墓所は当初谷中霊園(どの区画にあったかは不明)にあったが、多磨霊園に改葬されている。
なお東京都から官報の無縁墳墓等改葬公告が出ており、2021年度現在はまだ現存しているが、無縁撤去となる可能性が高い。
子孫の徳大寺実啓は健在。実則次代公弘の子である実厚から京都の黒谷墓地を墓所としている。
官途
[編集]※1872年までの日付は旧暦
- 嘉永元年(1848年)7月12日、従五位下に叙位。
- 嘉永2年(1848年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 嘉永3年(1850年)2月3日、正五位下に昇叙。
- 嘉永4年(1851年)3月22日、侍従に任官。7月28日、従四位下に昇叙、侍従は元の如し。12月4日、元服して禁色と昇殿を聴される。
- 嘉永5年(1852年)1月27日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。
- 嘉永6年(1853年)5月8日、正四位下に昇叙、侍従は元の如し。
- 嘉永7年(1854年)3月7日、右近衛権少将に転任。
- 安政4年(1857年)2月8日、左近衛権中将に転任。12月19日、従三位に昇叙、左近衛権中将は元の如し。
- 安政5年(1858年)3月24日、正三位に昇叙、左近衛権中将は元の如し。
- 文久2年(1862年)4月25日、権中納言に転任。12月9日、朝廷の国事御用掛を兼帯。12月24日、従二位に昇叙、権中納言と国事御用掛は元の如し。
- 文久3年(1863年)4月17日、議奏を兼帯。8月24日、議奏を辞す。
- 慶応3年(1867年)2月28日、正二位に昇叙、権中納言と国事御用掛は元の如し。12月9日、国事御用掛廃止。
- 慶応4年(1868年)1月3日、明治政府の参与を兼帯。1月9日、議定に異動。2月2日、権大納言に転任、議定は元の如し。1月20日、政府内国事務局督を兼帯。閏4月21日、官制改革により議政官の上局の議定(立法府の上院の議員)を兼帯、内国事務局督は元の如し。
- 明治2年(1869年)7月8日、官制改革により大納言を拝命。4月、内廷職知事を兼帯。
- 明治3年(1870年)2月、山口宣撫使を兼帯。
- 明治4年(1871年)7月14日、大納言を辞し、麝香間祗候となる。8月4日、侍従長を拝命。9月15日、宮内卿を兼任。
- 明治10年(1877年)8月29日、官制改革により侍従長を辞し、一等侍補を兼帯。11月22日、勲一等旭日大綬章。
- 明治11年(1878年)6月7日、一等侍補を辞す、宮内卿は元の如し(専任)。
- 明治17年(1884年)3月21日、官制改革により旧制の侍従長が復活したことにともない侍従長に再任、宮内卿は辞す。7月7日、華族令により侯爵に叙爵。
- 明治18年(1885年)7月、華族局長官を兼帯。
- 明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員[3]
- 明治24年(1891年)2月21日、内大臣を拝命、侍従長は元の如し。
- 明治32年(1899年)12月、従一位に昇叙。
- 明治39年(1906年)4月1日、大勲位菊花大綬章[4]
- 明治44年(1911年)4月21日、多年の勲功により公爵に陞爵。貴族院公爵議員[3]。
- 大正元年(1912年)8月13日、内大臣兼侍従長を退任。
- 大正8年(1919年)6月4日、菊花章頸飾、同日薨去(満79歳没)
栄典
[編集]- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[5]
- 1888年(明治21年)4月9日 - 銀製黄綬褒章[6]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
- 1895年(明治28年)10月7日 - 旭日桐花大綬章[8]
- 1899年(明治32年)12月6日 - 従一位[9]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章[10]・明治三十七八年従軍記章[11]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[12]
- 1911年(明治44年)4月21日 - 公爵[13]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[14]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[15]
- 外国勲章佩用允許
- 1885年(明治18年)
- 1886年(明治19年)6月7日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライヘン第一等勲章[18]
- 1891年(明治24年)6月1日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章[19]
- 1908年(明治41年)
家族・親族
[編集]系譜
[編集]東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
脚註
[編集]- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)19頁
- ^ 小川金男『皇室の茶坊主 下級役人がみた明治・大正の「宮廷」』河西秀哉監修、創元社、2023年(原著1951年)、276-277頁。ISBN 978-4-422-20169-6。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』11頁。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1430号「彙報」1888年4月10日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1895年10月8日。
- ^ 『官報』第4931号「叙任及辞令」1899年12月7日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第7779号「叙任及辞令」1909年6月2日。
- ^ 『官報』第8347号「授爵・叙任及辞令」1911年4月22日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。
- ^ 『官報』第569号「賞勲」1885年5月27日。
- ^ 『官報』第879号「叙任及辞令」1886年6月8日。
- ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
- ^ 『官報』第7497号「叙任及辞令」1908年6月24日。
- ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」1908年10月24日。
- ^ 霞会館 1996, p. 174.
- ^ a b 平成新修旧華族家系大成下p174-175
- ^ a b c d e f 平成新修旧華族家系大成下p176
- ^ しらゆき. 島津出版会刊
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連文献
[編集]- 梶田明宏「徳大寺実則の履歴について--明治17年侍従長就任以前を中心に」、沼田哲編『明治天皇と政治家群像--近代国家形成の推進者たち』吉川弘文館、2002年、所収。ISBN 4-642-03744-6
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 三条実美 |
内大臣 第2代:1891年 - 1912年 |
次代 桂太郎 |
先代 浅野長勲 華族局長官 |
爵位局長官 1888年 華族局長官 1885年 - 1888年 |
次代 岩倉具定 |
先代 (新設) |
内廷知事 1869年 |
次代 中御門経之 |
先代 (新設) |
内国事務局督 1868年 |
次代 (廃止→)蜂須賀茂韶 民部官知事 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
公爵 徳大寺家初代 1911年 - 1919年 |
次代 徳大寺公弘 |
先代 叙爵 |
侯爵 徳大寺家初代 1884年 - 1911年 |
次代 陞爵 |