救済 (連歌師)
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救済(ぐさい / きゅうせい / きゅうぜい、弘安7年(1284年)- 天授4年/永和4年3月8日(1378年4月5日)[1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての地下(じげ)の連歌師。
略歴
[編集]和歌を冷泉為相に、連歌を善阿に学ぶ。延文元年(1356年)、二条良基と協力して連歌集「菟玖波集」を編纂。応安5年(1372年)、連歌を読むにあたっての法則を定めた「応安新式」を制定した。句風は特定の風体に偏らず、言葉のこまやかな使い方と心情の深さ、付け句の緊迫感に優れていると評価された。門弟に二条良基のほかに、周阿・永運・素阿・利阿らがおり、室町時代初期の連歌界の周流をなした。
「菟玖波集」に入集しているほか、「文和千句」「紫野千句」「侍公周阿百番連歌合」などにも句が残されている。