新屋晃
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県垂水市 |
生年月日 | 1955年2月1日(69歳) |
身長 体重 |
170 cm 69 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1972年 ドラフト6位 |
初出場 | 1974年9月26日 |
最終出場 | 1978年4月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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新屋 晃(しんや あきら、1955年2月1日 - )は、鹿児島県[1]出身のプロ野球選手(内野手)、プロ野球審判員。
来歴・人物
[編集]鹿児島県の照国高校(現在の鹿児島城西高校)では、1972年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、鹿児島商工に敗退。同年のドラフト会議で日拓ホームフライヤーズに6位指名され入団[1]。1977年には一軍に定着し、二塁手として12試合に先発出場。7月には一番打者としても起用される。しかし1978年には出場機会が減少し、同年限りで引退[1]。
1979年にパシフィック・リーグ審判部に入局した[1]。審判員同期に、セントラル・リーグ元審判員の鷲谷亘がいる。審判員袖番号は29(1979年採用~2004年退職まで。※29は1977年初採用から1978年引退まで吉田正男がつけていた番号だったが現在は空番。)。小柄ながら長く中堅審判員として活躍していたが、後年は一軍試合出場が減り、最後の年は球審をすることはなかった。通算1703試合に出場し、オールスターゲーム2回(1987年、1994年)出場、日本シリーズの出場はない。10.19第2試合で二塁塁審、1987年5月23日に新潟県柏崎市佐藤池野球場で行われた南海 - ロッテ・オリオンズ戦(最後のサスペンデッドゲーム)で球審を務めていた。
引退後は、埼玉県上尾市で硬式ボールなどを扱う事業を行っている傍ら、エバーグリーンアンパイヤクラブに所属し技術指導を行なっている。
2006年には、日本学生野球協会の特別審査で承認を得て、関甲新学生リーグの審判員になることが認められた。審判技術指導を行う元プロ野球審判員は多いが、大学野球で現役審判を務めるのは彼が第一号となる。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1974 | 日本ハム | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1977 | 34 | 43 | 38 | 6 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | 1 | .211 | .268 | .237 | .505 | |
1978 | 7 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:3年 | 44 | 43 | 38 | 7 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | 4 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | 1 | .211 | .268 | .237 | .505 |
背番号
[編集]- 57 (1973年)
- 43 (1974年 - 1978年)
審判出場記録
[編集](記録は2004年シーズン終了時)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 新屋晃 - NPB.jp 日本野球機構