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明智光忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
明智次右衛門
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正10年6月15日1582年7月4日)?
改名 高山次右衛門→明智次右衛門、長閒斎[1](号)
別名 次右衛門[1][2]、二郎[3][2]、二郎四郎[4]通称
主君 明智光秀
氏族 高山氏明智氏
父母 不明
明智光秀二女[2][5]
光近[2]
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明智 次右衛門(あけち じえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。丹波国八上城主。剃髪して長閒斎(ちょうけんさい)と号した[1]。通称は次右衛門または二郎、二郎四郎。明智五宿老の一人。後世の軍記物では光忠という名前で呼ばれるが、一次史料では一切確認できない。

生涯

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後世の資料では、明智光秀の叔父にあたる明智光久の子[7][1][2]で、光秀の従兄弟[1]とされるが、一次史料では確認できない。光秀の重臣の1人のようであるが、事績が登場するのは主に『明智軍記』で、確かな史料は乏しい[4]。父とされる光久は伯父・光安と共に弘治2年(1556年)の明智城陥落時に死亡したとされる[5]

天正5年(1577年)に丹波過部城篠山城を落とした後、光秀は亀山城に光忠を留守居として入れた[8]。天正7年(1579年)、兵糧攻めにしていた八上城が落ちると、この城に城代として光忠を入城させた[9][10]

天正10年(1582年)6月1日、光秀は明智左馬助・次右衛門・藤田伝五斎藤内蔵助と謀って、光秀の主君の織田信長を襲撃する本能寺の変を起こした[5]。次右衛門光忠は、『 惟任退治記』によれば、本能寺への攻め手の一方を務めた[5]。『野史』によれば、信長の子の信忠らが籠城する二条御新造を攻撃したが、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負う。知恩院で療養していたが、2週間後、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にしたと聞いて、近江国坂本城に向かい、15日、明智光春(秀満)および明智一族と共に自害して果てた[1]。享年43[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 27.
  2. ^ a b c d e f 『系図纂要』の明智系図による[6]
  3. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 275
  4. ^ a b 阿部 1990, p. 22
  5. ^ a b c d 田端泰子 2010, p. 1-23
  6. ^ 東京大学史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 系図纂要」『大日本史料. 第11編之1』東京大学、1927年、521頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/290 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 明智光忠」『デジタル版 日本人名大辞典』https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E5%BF%A0コトバンクより2020年7月10日閲覧 
  8. ^ 参謀本部 1893, p. 41.
  9. ^ 参謀本部 1893, p. 42.
  10. ^ 「八上城」『兵庫県の中世城館・荘園遺構』兵庫県教育委員会、1982年、64頁。 

参考文献

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  • 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年、27頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879491/18 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、275頁。 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、22頁。ISBN 4404017529 
  • 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史. 中国役』元真社、1893年、41-42頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771062/24 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 田端泰子「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』第18巻、京都橘大学女性歴史文化研究所、2010年、1-23頁、NAID 40017106076