古代山城
古代山城(こだいさんじょう)は、古代日本の山城。九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方にかけて分布する。
従来に「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」・「神籠石(こうごいし)」と呼び分けられてきた2種類の遺跡群の総称として、近年使用される考古学用語である[1]。
概要
[編集]飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう)、天智紀山城)」、見えない山城は「神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ(さんじょう)、神籠石式山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある[1]。
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は17ヶ所(神籠石系山城)があり、合計29ヶ所を数える。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ[1]。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている[2]。
分類
[編集]狭義の朝鮮式山城
[編集]「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく[2]。『日本書紀』では、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答㶱春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城したと見える[2]。近江大津宮遷都や水城築城と同様に、唐・新羅からの侵攻を意識した施設であった[2]。
文献では高安城・茨城・常城・長門城・屋嶋城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城・金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない[2]。所在地が明らかな城では、遺構として石塁・土塁・建物跡などが見られる[2]。
中国式山城
[編集]「中国式山城」または「大陸系山城」の名称は、文献に見えるも朝鮮式山城には属さない怡土城(福岡県糸島市)を指す[2]。築城時期は朝鮮式山城(7世紀後半頃)から下る8世紀中頃で、その背景としては唐の安禄山の乱の影響に備えたとする説や、藤原仲麻呂による新羅征討計画の拠点とする説などがある[3]。ただし、後者の新羅征討計画は実行に移されることはなかった[2]。この怡土城の築城では、吉備真備が入唐時の知識を活かしたと見られている[2]。遺構としては土塁・望楼跡・城門跡などが見られる[2]。
朝鮮式山城が攻撃相手に城内を見せない構造を採るのに対して、怡土城では山の斜面にたすき状に築き城内を見通される構造を採るなどの特徴があり、攻撃的性格の強い城とされる[4][5]。
神籠石系山城
[編集]「神籠石系山城」の名称は、初めて発見された高良山の遺跡の呼称に由来する[2]。その後各地で高良山に似た列石や石塁の遺構が見つかり、これらを巡り霊域説・山城説に分かれて議論(神籠石論争)が展開されたが、現在では山城跡が定説となっている[1][2]。百済の技術を基にした山城と見られる点では、この神籠石系山城も「広義の朝鮮式山城」の範疇に入る[2]。現在見つかっているものは17ヶ所。遺構の特徴としては、切石を並べた列石を土塁の土留め石とする点や、列石区画の内側には特に建物跡が見られないという点が挙げられる[2]。
これらの山城では年代を示す遺物の出土が少ないため、その存続年代が明らかでない[2]。上記の朝鮮式山城と同様の7世紀後半頃と推測する説などがあるが定かではなく、朝鮮式山城・神籠石系山城の年代の前後関係が注目されている[1][2](詳細は「神籠石」を参照)。なお、文献に記載が無いという性格上から山中の踏査によって発見されることが多く、1967年(昭和42年)の杷木城、1977年(昭和52年)の永納山城、1987年(昭和62年)の播磨城山城、1998年(平成10年)の唐原山城、1999年(平成11年)の阿志岐山城、2019年(平成31年)の長者山城と近年も神籠石系山城の発見が相次いでいる。
一覧
[編集]1)名称・所在地は、底本を向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』掲載の一覧表[6]とし、名称の表記は「○○城」で統一した。
2)「記事」欄は、城について記述する史書の記事年次を記載。
3)「史跡指定」欄は、城跡の史跡指定名称・指定種別・指定年を記載。
4)「文化庁」欄は、文化庁の国指定文化財等データベースへのリンクを記載。
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おつぼ山城跡
年表
[編集]年月 | 出来事 | |
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天智天皇2年(663年)8月 | <白村江の戦いで唐・新羅連合軍に倭軍敗北> | |
天智天皇3年(664年) | 対馬・壱岐・筑紫などに防人・烽火を設置 筑紫に水城を築造 | |
天智天皇4年(665年) | 8月 | 長門に城を築造、筑紫に大野城・椽城を築造 |
9月 | 唐使が筑紫に来着 | |
天智天皇5年(666年) | <唐の高句麗遠征> | |
天智天皇6年(667年) | 3月 | <近江大津宮遷都> |
11月 | 大和国に高安城、讃岐国山田郡に屋嶋城、対馬国に金田城を築造 | |
天智天皇7年(668年) | <唐により高句麗滅亡> | |
天智天皇8年(669年)冬 | 高安城を修造、畿内の田租を収容 | |
天智天皇9年(670年)2月 | 高安城を修造、穀・塩を収容 長門に1城、筑紫に2城を築造(天智天皇4年条の重出か[8]) | |
天武天皇元年(672年)6月-7月 | <壬申の乱> | |
天武天皇3年(674年) | <唐の新羅出兵> | |
天武天皇4年(675年)2月 | 高安城行幸 | |
天武天皇5年(676年) | <新羅の半島統一> | |
持統天皇3年(689年)10月 | 高安城行幸 | |
持統天皇8年(694年)12月 | <藤原京遷都> | |
文武天皇2年(698年) | 5月 | 大野城・基肄城・鞠智城を修造 |
8月 | 高安城を修造 | |
文武天皇3年(699年) | 9月 | 高安城を修造 |
12月 | 三野城・稲積城を修造 | |
大宝元年(701年)8月 | 高安城を廃止 | |
和銅3年(710年)3月 | <平城京遷都> | |
和銅5年(712年)1月 | 河内国高安の烽を廃止 高見の烽、大和国春日の烽を設置 | |
養老3年(719年)12月 | 備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を廃止 | |
天平勝宝8歳(756年)6月 | 怡土城の築城開始 | |
神護景雲2年(768年)2月 | 怡土城の完成 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 事典類
- 斎藤忠「神籠石」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 亀田修一「朝鮮式山城」『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 978-4479840657。
- その他文献
- 磯村幸男 著「西日本の古代山城」、森公章 編『古代国家の形成』吉川弘文館〈史跡で読む日本の歴史3〉、2010年。ISBN 978-4642064118。
- 「第45回福岡県地方史研究協議大会 福岡県の古代山城」 (PDF) 福岡県立図書館郷土資料課、2011年(リンクは福岡県立図書館)。
- 阿部義平『日本古代都城制と城柵の研究』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4642046190。
- 向井一雄『よみがえる古代山城 -国際戦争と防衛ライン-』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー440〉、2017年。ISBN 978-4642058407。