李翰林
李翰林 이한림 | |
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生誕 |
1921年2月10日 日本統治下朝鮮咸鏡南道安辺郡 |
死没 |
2012年4月29日(91歳没) 大韓民国京畿道盆唐区 |
所属組織 |
満洲国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
中尉(満州国軍) 中将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第2墓域207号 |
李翰林 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이한림 |
漢字: | 李翰林 |
発音: | イ・ハルリム |
日本語読み: | り かんりん |
ローマ字: | Lee Han-Lim |
李 翰林(イ・ハルリム、이한림)は大韓民国の軍人、外交官、政治家。本貫は平昌李氏[1]。創氏改名による日本名は香住翰林(かずみ かんりん)[2]。朝鮮戦争開戦時の陸軍士官学校副校長。太極武功勲章授与者。
人物
[編集]1921年2月、咸鏡南道安辺に生まれる。新京軍官学校第2期予科卒業、陸軍士官学校に留学して第57期相当、高射砲隊に配属、満州国軍中尉。終戦後、新京保安司令部(長:丁一権)生徒隊教官[3]。
1946年2月21日付で軍事英語学校を卒業して中尉に任官(軍番10056番)[4]。第3連隊の創設に参加。のちに警備士官学校教務処長。1946年11月末、第6連隊に派遣され、大隊副官兼作戦主任[5]。1947年2月第6連隊大隊長[6]。
1947年5月12日、第4連隊長[7]。1948年7月、アメリカ陸軍歩兵学校に留学[8]。1949年3月に帰国して陸軍士官学校副校長。
1950年7月1日、第2師団長[9]。同年7月15日、慶尚北道咸昌で第2軍団が編成されると副軍団長[10]。同年8月、第2軍団参謀長。
1950年12月、国防部国民防衛局長。
1951年1月13日、陸軍本部情報局長[11]。同年4月、陸軍本部作戦局長。同年7月、陸軍歩兵学校校長。
1952年1月9日、国防部第2局(政訓局)長[12][13]。同年5月、休戦会談韓国代表[14]。
1954年、第6軍団長、任中将。在任中の副大統領選挙で、当時与党候補の李起鵬を支持せず中立を保った[16]。このため報復人事措置として、現役の軍団長から国防大学院に入学することになった[16]。
1957年、国防大学院卒業、陸軍士官学校校長。
1961年5月、5・16軍事クーデターにより反革命容疑で監禁・不起訴。同年8月24日、予備役編入[18]。
1962年、カリフォルニア州立大学修了。
1963年6月、水産開発公社社長。
1968年3月、鎮海化学社長。
1969年2月から建設部長官、国際観光公社総裁、駐トルコ大使を歴任。
勲章
[編集]- レジオン・オブ・メリット - 1952年10月3日[19]
- 太極武功勲章 - 1953年10月27日
- シルバースター - 1954年7月9日[19]
- 花郎武功勲章
出典
[編集]- ^ “평창 이씨(平昌 李氏)” (朝鮮語). 강원도민일보 (2003年5月11日). 2022年8月18日閲覧。
- ^ 정운현 (2004年8月19日). “"목표 위해 죽음 불사할만큼 성실" - 우등 성적으로 4년 만에 '황군' 소위” (朝鮮語). 오마이뉴스 2016年1月5日閲覧。
- ^ “중국인들 무자비한 한인보복살인 교민 자유 위해 보안사 설치-김홍일장군 권고따라 천신만고 끝에 귀국” (朝鮮語). 中央日報. (1982年11月29日). オリジナルの2021年5月4日時点におけるアーカイブ。 2017年10月8日閲覧。
- ^ 佐々木 1983, p. 87.
- ^ 佐々木 1983, p. 160.
- ^ 佐々木 1983, p. 161.
- ^ 佐々木 1983, p. 194.
- ^ 佐々木 1983, p. 214.
- ^ 박동찬 2014, p. 107.
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 下巻』、156頁。
- ^ “陸軍(육군) 將星級(장성급) 異動(이동)” (朝鮮語). 부산일보. (1951年1月18日) 2019年10月24日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 95.
- ^ “連続刊行物 自由新聞「군 수뇌부 인사이동」” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2019年11月20日閲覧。
- ^ “編年資料 資料大韓民国史 平和新聞「李翰林준장, 劉載興중장을 대신해 휴전회담 한국대표로 선발」” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2019年11月20日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 109.
- ^ a b “박정희 쿠데타에 맞섰던 이한림 장군 별세” (朝鮮語). 머니투데이 뉴스. (2012年4月30日) 2018年1月19日閲覧。
- ^ “金鍾五中將을 任命” (朝鮮語). 부산일보. (1960年10月8日) 2019年11月20日閲覧。
- ^ “連続刊行物 東亜日報「豫編措置 李翰林中將 崔錫中將」” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2019年11月19日閲覧。
- ^ a b “Han Lim Lee”. Military Times. 2015年11月10日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』(第4刷)原書房、1983年。ISBN 4-562-00798-2。
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
外部リンク
[編集]軍職 | ||
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先代 白仁燁 |
大韓民国陸軍本部情報局長 第6代:1951.1.14 - 1951.4.6 |
次代 李厚洛 (代理) |
先代 姜文奉 |
大韓民国陸軍本部作戦教育局長 第6代:1951.4.6 - 1951.7.22 |
次代 李龍文 |
先代 李鍾賛 |
大韓民国陸軍歩兵学校校長 第6代:1951.7.22 - 1952.1.22 |
次代 崔徳新 |
先代 白南権 |
大韓民国陸軍士官学校校長 第14代:1957.7.31 - 1960.10.10 |
次代 姜英勲 |
先代 金鐘五 |
大韓民国陸軍第1軍司令官 第5代:1960 - 1961 |
次代 朴林恒 |
公職 | ||
先代 李瑄根 |
大韓民国国防部第2局長 第5代:1952.1.9 - 1952.5.27 |
次代 任大淳 |
先代 朱源 |
大韓民国建設部長官 第7代:1969.2.17 - 1971.6.4 |
次代 太完善 |
外交職 | ||
先代 朴瓚鉉 |
在トルコ共和国大韓民国大使 第7代:1974 - 1976 |
次代 文哲淳 |
先代 盧錫瓚 |
在オーストラリア大韓民国大使 第4代:1977 - 1980 |
次代 尹河珽 |