松平頼説
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永7年2月27日(1778年3月25日) |
死没 | 天保4年9月13日(1833年10月25日) |
改名 | 兼太郎、弁次郎(幼名)→頼説 |
諡号 | 靖侯 |
戒名 | 巌徳院敬誉俊亮順説 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
官位 | 従四位下兵部大輔、播磨守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 常陸府中藩主 |
氏族 | 太田氏→石岡松平家 |
父母 |
父:太田頼陽、母:鈴木氏 養父:松平頼前 |
兄弟 | 頼前、八重 |
妻 |
正室:細川治年娘・寧子 側室:鈴木氏、曾我氏、石川氏、大庭氏ら |
子 |
頼縄、中山信守、頼功、有馬広衆、 谷衛滋、知久頼匡、信、松平頼善室、 本堂親道正室ら |
松平 頼説(まつだいら よりひさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。常陸国府中藩8代藩主。官位は従四位下・播磨守、侍従。
略歴
[編集]太田頼陽(松平頼済の次男)の長男。母は鈴木氏。幼名は兼太郎、弁次郎。
寛政5年(1793年)11月、先代藩主の松平頼前の養嗣子となる。寛政7年(1795年)9月10日、頼前の隠居で跡を継いだ。藩校の創設や新田開発に尽力し、自身も教養に優れていたことから文学を奨励している。また、蹴鞠を趣味としており、飛鳥井雅威の門下として紫組の冠懸を許された。天保4年(1833年)9月13日、56歳で死去し、跡を長男・頼縄が継いだ。
年表
[編集]※日付=旧暦
- 1793年(寛政5年)11月、藩主松平頼前の養子となる。
- 1794年(寛政6年)12月、従四位下兵部大輔に叙任。
- 1795年(寛政7年)9月10日、家督相続し、常陸府中藩(茨城県石岡市)の藩主を継承する。 月日不詳、播磨守に叙任。
- 1796年(寛政8年)12月17日、侍従兼任。
- 1833年(天保4年)9月13日、卒去。法名は巌徳院敬誉俊亮順説。諡号は靖侯。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。
系譜
[編集]父母
正室
- 寧子、寿姫、咸姫 ー 細川治年の娘
側室
- 鈴木氏
- 曾我氏
- 石川氏
- 大庭氏
子女
- 松平頼縄(長男)生母は曾我氏(側室)
- 中山信守[1](次男)
- 松平頼功(三男)
- 有馬広衆[2](四男)
- 谷衛滋[3](五男)
- 知久頼匡(六男)
- 信 ー 松平頼誠正室
- 松平頼善室後に畠山義宣継々々室
- 本堂親道正室後に鈴木重矩室
脚注
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