コンテンツにスキップ

柳沢徳忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柳沢徳忠
柳沢徳忠
時代 江戸時代末期 - 昭和時代
生誕 嘉永7年閏7月11日1854年9月3日
死没 昭和11年(1936年1月16日
改名 彰太郎(幼名)→徳忠
官位 従五位下信濃守子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
越後三日市藩主→三日市藩知事
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢泰孝、母:松浦皓の娘
浪子堀直休の娘)
徳鄰、貴子、春子、彰
テンプレートを表示

柳沢 徳忠(やなぎさわ のりただ)は、越後三日市藩の第8代(最後)の藩主。7代藩主・柳沢泰孝の長男。母は松浦皓の娘。官位は従五位下、信濃守。幼名は彰太郎。

経歴

[編集]

安政3年(1856年)4月4日、泰孝の死により家督を相続した。3歳であった。慶応4年(1868年)3月18日に江戸を出発し、4月6日に三日市へ到着した。藩財政が破綻を迎える中での、歴代藩主で初の入部であった、明治元年(1868年)7月28日、官軍に降伏した。同年8月21日、新潟で官軍を率いる小松宮彰仁親王に拝謁した。恭順後は新発田藩と軍事行動を共にしている。同年12月3日、従五位下・信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月21日、版籍奉還により三日市藩知事に就任する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。昭和11年(1936年)に死去した。

栄典

[編集]

家族

[編集]

父母

子女

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
  3. ^ a b c d 『人事興信録 第13版下』1946、「柳沢徳鄰」
  4. ^ 『人事興信録 第13版下』1946、「柳沢彰」
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
三日市柳沢家初代
1884年 - 1936年
次代
柳沢徳鄰