梵我一如
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インド哲学 - インド発祥の宗教 |
ヒンドゥー教 |
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梵我一如(ぼんがいちにょ、梵: तत्त्वमसि, tat tvam asi、汝は其(そ)れなり)とは、インド哲学(ウパニシャッド哲学)において、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること[1]、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の悟りとされる。
宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものである[1]。すなわち個人の肉体が死を迎えても、アートマンは永遠に存続するということであり[1]、またアートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもある[1]。
概略
[編集]仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していた。我(アートマン)とは、身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)として考えられ、「真我」と漢訳される。
すべての行為、すべての愛欲、すべての香、すべての味、このすべてを包括しているものは、言い表せることなく気づかない。これが心の中の我がアートマンであり、これがブラフマンである。この世を去って後、われはこれと合一すべしと思う者には、実に疑いあることなし。 — チャーンドーギヤ・ウパニシャッド,3,14,4 [1]
ヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Books Esoterica『ヒンドゥー教の本』学習研究社、1995年。ISBN 4-05-600871-X。
- 辛島昇、前田專學、江島惠教、他、監修『南アジアを知る事典 新訂増補』平凡社、2002年。ISBN 4-582-12634-0。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- インド哲学入門 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)(リンク切れ)
- お前はそれである(梵我一如の思想)-「インド思想史略説」 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)(リンク切れ)