汾陽光二
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生誕 |
1876年5月27日 日本・鹿児島県 |
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死没 | 1938年10月31日(62歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1896年 - 1929年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
除隊後 | 三重県桑名郡桑名町長、三重県町村長会長 |
墓所 | 多磨霊園 |
汾陽 光二(かわみなみ みつじ、1876年〈明治9年〉5月27日 - 1938年〈昭和13年〉10月31日[1])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功五級[2]。
経歴・人物
[編集]鹿児島県士族・汾陽光輝の次男として生まれ、先代の光清の養子となり、1877年(明治10年)に家督を相続する[3]。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)に陸軍士官学校第8期卒業[2][4][5]。
1897年(明治30年)6月に陸軍歩兵少尉・歩兵第39連隊大隊長、1900年(明治33年)に歩兵第11旅団副官を経て、1904年(明治37年)に歩兵第13連隊中隊長として日露戦争に従軍[2]。
日露戦争の後は、1912年(大正元年)9月に本職を免じられ名古屋陸軍地方幼年学校長、1916年(大正5年)1月に陸軍歩兵中佐・歩兵第33連隊附、1917年(大正6年)8月に本職を免じられ桑名連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第36連隊長(第9師団、歩兵第6旅団)に任官[1][4][5]。連隊長としてシベリアに出征し、ザバイカル方面での作戦に参加した[4]。
その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将・第11師団司令部附、1924年(大正13年)12月に歩兵第27旅団長、1928年(昭和3年)8月に陸軍中将・由良要塞司令官を経て、1929年(昭和4年)8月1日に待命、同月31日に予備役に編入した[1][4][5]。
退役後は、三重県桑名郡桑名町長や三重県町村長会長などを歴任した[2]。
栄典
[編集]- 1897年(明治30年)10月15日 - 正八位[6]
- 1899年(明治32年)12月26日 - 従七位[7]
- 1923年(大正12年)11月20日 - 正五位
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 従四位[8]
- 1929年(昭和4年)9月30日 - 正四位[9]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』240頁。
- ^ a b c d 『人物月旦』5頁。
- ^ 『人事興信録』第8版、カ206頁。
- ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』241頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』135頁。
- ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
- ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
- ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
- ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
- ^ 『人事興信録』第9版、カ189頁。
- ^ 『人事興信録 第11版 改訂版 上』(人事興信所、1938年)カ272頁
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 伊勢新聞社桑名支局 編纂『人物月旦』伊勢新聞社桑名支局、1933年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録』第9版、人事興信所、1931年。