浅野八郎 (財閥)
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浅野 八郎 | |
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生誕 |
1891年(明治24年)8月 東京北新堀 |
死没 |
1966年(昭和41年)1月8日 東京都港区 (東京都)虎ノ門 |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
浅野 八郎(あさの はちろう、1891年(明治24年)8月[1] - 1966年(昭和41年)1月8日[2])は、日本の実業家。浅野財閥の創始者・浅野総一郎の三男で、同財閥の多数の系列会社重役を同時に務めた。
経歴
[編集]慶應義塾普通部を経て1917年(大正6年)に慶應義塾大学部理財科を卒業し、浅野造船所に勤務した。1923年(大正12年)に造船業・製鉄業視察で欧米を訪れた。1926年 (昭和元年) には電力事業視察で欧米を訪問した[3]。
浅野カーリット(日本カーリット)社長、関東水力電気(佐久発電所)副社長、関東証券代表取締役、浅野セメント(太平洋セメント)常務取締役、浅野物産(丸紅)・鶴見製鉄造船(JFE、ジャパンマリンユナイテッド)・関東運輸(日の出興業)・日之出汽船(NYKバルク・プロジェクト)・鶴見木工・庄川水力電気(小牧ダム)・五日市鉄道(JR五日市線)・小倉築港(小倉興産)・上毛電力の取締役、浅野石材工業・日本ヒューム管(日本ヒューム)・信越木材・日本鋳造・南武鉄道(JR南武線)・小倉製鋼(日本製鉄)の監査役を務めた[1]。
戦後、公職追放となった[4]。1951年 (昭和26年) 追放解除[5]。
経済以外の活動
[編集]"Acting Consul for El Salvador at Tokyo" エルサルバドルの東京代理領事を1941年に務めた[6]。
浅野総合中学校(浅野中学校・高等学校)の理事を務めた[7]。
人物
[編集]愛想がよく腰が低く柔和だが、なかなか気骨がある人で、他人の面倒をよく見る、財閥の御曹司としては立派な人と評された[8]。
家族
[編集]- 妻の富美は若尾璋八(甲州財閥)の長女[8]。
- 長男・浅野総太郎(1925年生)の妻・三四子は彫刻家・安田周三郎(安田財閥安田善三郎の三男)の娘。安田善三郎の四女磯子の娘はオノ・ヨーコなので、三四子とオノ・ヨーコは従姉妹になる。
- 次男の浅野久弥(1933年生)は日本セメント重役を経て関西アサノ鉱業、東京コンクリート各社長を務めた。妻・久子(三井財閥当主・三井八郎右衛門の長女)との子・浅野昌英は不動産業・浅野アソシエイツ[9]社長で、妻は中内㓛の長女・綾。
- 長女の住友桃枝は住友財閥住友勝(1920年生、住友友純の孫)の妻。
- 二女の三井豊子は三井財閥・三井公乗(三井高公三男)の妻。
脚注
[編集]- ^ a b “浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本”. p. 61. 2019年7月31日閲覧。
- ^ 「浅野 八郎氏(元浅野セメント専務)」『朝日新聞』1966年1月10日、13面。
- ^ “財閥研究 第1輯”. p. 336. 2019年7月31日閲覧。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、29頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『朝日新聞』1951年6月19日2面、「第一次追放解除 経済関係確定者」。
- ^ “The Asano Industrial Combine of Japan and its Officers”. p. 33. 2019年7月31日閲覧。
- ^ 斎藤憲『稼ぐに追いつく貧乏なし : 浅野総一郎と浅野財閥』東洋経済新報社、1998年。ISBN 4492061061。 NCID BA38856030。
- ^ a b “中堅財閥の新研究 関東篇”. p. 216. 2019年7月31日閲覧。
- ^ プロフィール浅野アソシエイツ