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涼月 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
涼月
基本情報
建造所 三菱重工業長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 秋月型駆逐艦
艦歴
発注 1939年度(④計画
起工 1941年3月15日
進水 1942年3月4日
竣工 1942年12月29日
除籍 1945年11月20日
その後 船体は福岡県若松港の防波堤
要目(計画)
基準排水量 2,701英トン
公試排水量 3,470トン
全長 134.2 m
最大幅 11.6 m
吃水 4.15 m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基
出力 2軸、52,000馬力
速力 33.0ノット
燃料 重油:1,080トン
航続距離 18ノットで8,000海里
乗員 263名(戦時増員時約450名)[1]
兵装 1944年[2]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
九六式25mm機銃 3連装5基
同単装4挺、単装据付座10基
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
九五式爆雷 54個
レーダー 1944年[2]
21号電探1基
13号電探1基
ソナー 九三式探信儀1基
九三式水中聴音機1基)[3]
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涼月[4](すずつき)は、日本海軍駆逐艦[5]秋月型駆逐艦の3番艦である[6]太平洋戦争末期には涼月型という表記も見られた[7]。 艦名は片桐大自の研究によれば「さわやかに澄みきった秋の月」[8]凉月という表記も見られるが[9][10][11]、公文書上「涼月」と命名されており[4]「凉月」への改名や訂正の記録は存在しない。艦名はあきづき型護衛艦すずつき」に継承された。

概要

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一等駆逐艦涼月(すずつき)は、1942年(昭和17年)12月下旬に三菱長崎造船所で竣工した秋月型駆逐艦の3番艦[5][6]1943年(昭和18年)1月15日、第十戦隊麾下の第61駆逐隊に編入[5][12]。姉妹艦初月[13]若月(8月15日附で第61駆逐隊編入)[14][15]等と共に、輸送作戦や護衛任務に従事した[5][16]

1944年(昭和19年)1月16日[5]ウェーク島へ向かう特設巡洋艦赤城丸を護衛中[17][18]、涼月は高知県沖合で米潜水艦の魚雷攻撃を受け大破[19][20]。艦前部と艦尾を喪失した[21][22]。 第61駆逐隊司令や涼月艦長を含め多数の乗組員が戦死[20][23]。初月[24][25]や救援部隊に曳航され[26]、辛うじて呉にもどった[27][28]

呉海軍工廠で半年以上修理を行ったあとの同年10月16日[5][29]、姉妹艦若月と共に輸送作戦従事中、九州沖合で米潜水艦に襲撃され艦首部に被雷、再び修理を行った[22][30]。本艦修理中に生起したレイテ沖海戦多号作戦で、61駆僚艦3隻(秋月、初月、若月)は沈没した[31]。 11月15日附で第61駆逐隊は解隊され、涼月は第41駆逐隊に編入された[32][33]。11月下旬から12月上旬まで第41駆逐隊(涼月、冬月)と駆逐艦は空母隼鷹護衛任務に従事(帰路は戦艦榛名も同行)[16][34]

1945年(昭和20年)4月上旬[35]、戦艦大和第二艦隊旗艦)および軽巡洋艦矢矧第二水雷戦隊旗艦)以下駆逐艦8隻(第17駆逐隊〈磯風、雪風、浜風〉、第21駆逐隊〈朝霜、初霜、霞〉、第41駆逐隊〈冬月、涼月〉)の第一遊撃部隊は沖縄突入作戦に参加(天号作戦[5][16]4月7日[36]、涼月は坊ノ岬沖海戦で被弾して大破、戦死者57名・負傷者34名を出す[37][38]。同戦闘で大和含め6隻が沈没する[35]。翌日、涼月は後進状態で辛うじて佐世保に帰投した[5][16]

涼月は応急修理状態のまま防空砲台となり、7月5日附で第41駆逐隊から除かれ[39]、予備艦となる[40]。その状態で終戦の日を迎えた[5][16]。その後、本艦以下駆逐艦3隻(涼月、冬月)は北九州港福岡県北九州市)の防波堤として使用された(軍艦防波堤[5][41]

特徴

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涼月は、1944年(昭和19年)1月16日の被雷大破時に艦首を亡失[23]。修理時に新造した艦首と艦橋を接合したが、この際に新造部分は原型の丸みを帯びた形状とは異なる直線的な形状となった[42]。特に角ばったその艦橋は、就役した秋月型・冬月型・満月型で他に持つ艦がなく、未成に終わった清月以降の設計図によるものと考察されているが、晩年の涼月の外見上の大きな特徴となっている。

また増備時期が明らかでないが、狭義の秋月型で唯一、艦橋左右に機銃台を設け25mm機銃3連装を装備し、最大で25mm機銃3連装を7基装備したと考えられている。この位置への機銃台は冬月型・満月型で後日増備されたものである。

艦歴

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建造経緯

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1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(④計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦[43][44]1940年(昭和15年)11月1日三菱重工業長崎造船所で大和型戦艦武蔵が進水。日本海軍は、武蔵進水後の船台で秋月型駆逐艦を並べて建造することにした[45][46]。当初は秋月型4隻を同時建造の予定だったが、実際には2隻ずつ並んでの建造となる[46]11月13日、三菱重工業長崎造船所で秋月型駆逐艦の第105号艦(照月)が起工した[47]

1941年(昭和16年)3月15日、第106号艦(涼月)は三菱重工業長崎造船所で起工[43][47]。同年11月21日、照月は進水した[47]12月8日、長崎造船所は第108号艦(新月)の建造を開始する[47]

1942年(昭和17年)1月20日、建造中の秋月型駆逐艦に涼月夕雲型駆逐艦高波の艦名が与えられた[4]。同日附で2隻(涼月、高波)は、それぞれ艦艇類別等級表に類別される[48]。 同年3月4日、涼月(第106号艦)は進水[43][49]。涼月進水式には、佐世保鎮守府司令長官谷本馬太郎中将、同鎮守府参謀長山口儀三朗少将が参加した[50]。長崎造船所はただちに第109号艦(若月)の建造に着手した(3月9日、起工)[47]。 6月29日、長崎造船所で新月(第108号艦)が進水[47]。ただちに第360号艦(霜月)の建造が始まる[47]。 8月31日、照月は竣工して長崎を離れた[47]。太平洋戦争における三菱長崎造船所は、計5隻(照月、涼月、新月、若月、霜月)の秋月型を建造した[47]

9月10日、陽炎型駆逐艦2番艦不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐(海兵49期、同艦は7月5日グロウラーに雷撃され大破)は、涼月艤装員長に任命される[51][52]。9月13日、涼月艤装員事務所は事務を開始する[9]

同年12月29日、本艦は竣工[5][43]。赤澤艤装員長は涼月駆逐艦長(初代)となる[53][54]。主な初代幹部は、砲術長吉沢正元大尉、水雷長古川宏中尉、航海長高橋正治予備中尉、機関長木村昌男大尉[54]。涼月艤装員事務所は撤去された[55]。 同日、2隻(涼月、初月)は佐世保鎮守府籍となる[56]。3隻(秋月型〈涼月、初月〉、夕雲型〈大波〉)は警備駆逐艦に定められた[56]

昭和18年

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竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入される[57]1943年(昭和18年)1月6日、涼月機関長は林崎武雄少佐に交代[58]。本艦は佐世保から横須賀に回航され、1月9日に横須賀着[57][59]。機銃増設工事を行う[57]。秋月型2番艦照月沈没時主計長の高戸顕隆主計中尉も、第61駆逐隊附として涼月に着任した[59]。 秋月型2隻(涼月、初月)は1月15日付で第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)に編入され、第十戦隊(司令官木村進少将・40期)所属の第61駆逐隊(前年10月7日編制、駆逐隊司令則満宰次大佐、海兵46期)[60][53]に配属される[12][61]。 第61駆逐隊は秋月型1番艦秋月、同型2番艦照月の2隻で編成されていた[6][62]。 だが照月(照月艦長折田常雄中佐)は前年12月12日に、ガダルカナル島輸送作戦従事中に米軍魚雷艇に雷撃されて沈没[63][64]。涼月・初月の編入にともない第61駆逐隊から除籍されている[61]。第61駆逐隊は秋月型3隻(秋月、涼月、初月)で編制されることになった。

1月15日、横須賀を出発して呉に回航[57]。 航海中の1月16日未明、61駆(涼月、初月)は潮岬沖で浮上していたアメリカ潜水艦ハダック (USS Haddock, SS-231) を発見するも逃げられた[65][66]。 同時期の1月19日ソロモン諸島で行動中の秋月(第十戦隊旗艦)は米潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)[67]の雷撃で大破[68][69]。秋月被雷時に木村司令官は負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された[69][70]。 ひきつづき内地にあった涼月は、2月1日から15日まで呉海軍工廠において機銃増備などの工事を受ける[71]。 この間の2月3日、第61駆逐隊司令は則満大佐から大江覧治大佐(海兵47期、前職第19駆逐隊司令)[72]に交代した[53][73]。 2月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は日本近海に進出[74]ガダルカナル島攻防戦を終えてトラック泊地から佐世保へ回航中の日本艦隊[75](第三戦隊司令官栗田健男中将[76]、金剛型戦艦〈金剛榛名〉、水上機母艦〈日進〉、利根型重巡洋艦〈利根[77]、白露型駆逐艦〈時雨[78])を出迎えた[74]

3月上旬、涼月乗組の高戸主計中尉は横須賀鎮守府附となり、本艦を離れた[79][80]。 3月22日、駆逐艦4隻(第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第15駆逐隊〈陽炎[81]、第27駆逐隊〈夕暮〉)は[82]第二航空戦隊(司令官角田覚治中将・海兵39期)の空母2隻(隼鷹飛鷹[83][84]、第八戦隊(司令官岸福治少将)の重巡洋艦2隻(利根筑摩)を護衛して瀬戸内海を出撃し[85][86]、 3月27-28日にトラック諸島に到着[87][88]。 この頃、日本海軍はソロモン諸島ニューギニア方面への航空攻勢作戦である「い号作戦」の計画を進めていた[89][84]。同作戦実施に際し、パイロットはもちろんのこと、整備員など航空要員をラバウルニューブリテン島)に輸送する必要があった[87]。4月2日、2隻(涼月、初月)はラバウルへの航空要員輸送のためトラックを出撃[57]。4月3日にはカビエンニューアイルランド島)で重巡洋艦青葉が空襲を受け大破するなど、同方面も空襲に晒されていた[84]。4月4日にラバウルに到着後、直ちに出港、4月6日にトラックに帰投した[71][57]。4月中旬から5月中旬にかけては、トラックに出入りする艦船への護衛任務につく。

5月12日、連合軍はアリューシャン列島アッツ島に上陸を敢行、アッツ島の戦いが始まった[90]。連合艦隊は主戦力を東京湾に集結し北方作戦に備えることを決定[91]。 前連合艦隊長官山本五十六大将(元帥、海兵32期)の遺骨(4月18日海軍甲事件で戦死)内地帰還を兼ねて[92]大和型戦艦2番艦武蔵古賀峯一連合艦隊長官座乗)がトラック泊地より内地へ帰ることになる[91][93]。 5月17日、駆逐艦5隻(第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第24駆逐隊〈海風〉、第27駆逐隊〈時雨有明〉)は戦艦3隻(武蔵、金剛榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)を護衛してトラック泊地を出発[94][95]。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)[91][96]。 5月29日、アッツ島の日本軍守備隊は玉砕[97]。 6月上旬、本艦は西日本へ移動し、6月19日から5日間、呉で入渠した[57]

6月21日、第十戦隊司令官は小柳少将から大杉守一少将に交代[98]。 6月30日、内地回航中に船体断裂に見舞われた秋月は長期修理を余儀なくされて第61駆逐隊から除籍(7月5日長崎到着)[68]、同隊は秋月型2隻(涼月、初月)となった[99]

7月8-9日、南海第四守備隊(守備隊長道下義行陸軍大佐)を各艦に便乗させ[100]、空母4隻(瑞鶴翔鶴瑞鳳冲鷹)、水上機母艦日進、重巡洋艦3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈萩風〉、第17駆逐隊〈磯風〉、第61駆逐隊〈涼月初月〉、夕雲型駆逐艦〈玉波〉)は日本本土を出発した[101][102][103]。暗号解読や僚艦からの通報により、2隻の米潜水艦ティノサ(USS Tinosa, SS-283)とポーギー (USS Pogy, SS-266)がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた[104]。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した[104][105]

トラック着後、第61駆逐隊は機動部隊第一部隊の指揮下に入る[106][107]。 7月17日、大本営は南海第四守備隊の南東方面転用(第17軍の戦闘序列編入)を発令する[108]。 7月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊旗艦阿賀野、巡洋艦2隻(最上大淀)、第4駆逐隊(萩風)、第17駆逐隊(磯風)と共にトラックを出撃[109]。 ラバウル到着後、第十戦隊は二手にわかれてブイン輸送とブカ島輸送を実施する[110]7月21日夜、第十戦隊はラバウルを出撃[110]。第61駆逐隊(涼月、初月)は南海第四守備隊を載せ、7月22日ブカ島に到着する[108][111]。輸送任務を成功させ(南海第四守備隊はブーゲンビル島へ進出)[108]、26日にトラック泊地へ戻った[112][57]。 なおブーゲンビル島のブインへ向かった日進隊(日進、萩風〔第十戦隊旗艦〕、嵐、磯風)はアメリカ軍機の空襲を受け[110]、日進は撃沈された[105][113]

その後、第61駆逐隊(涼月、初月)は7月時下旬から9月上旬にかけてトラックとラバウル、クェゼリン環礁との間で輸送任務に従事しつつ[5]、タンカーや練習巡洋艦鹿島などの護衛も行った[114][57]。 8月15日、第61駆逐隊に秋月型駆逐艦6番艦若月[6]が編入され、同隊は秋月型3隻編制(涼月、初月、若月)となった[15]。 若月は第二水雷戦隊・第十戦隊の僚艦と共に主力艦部隊(大和長門扶桑愛宕高雄)等を護衛して8月23日トラック泊地に到着した[115]。秋月型3隻を揃えた第61駆逐隊は、9月と10月、機動部隊(第二水雷戦隊、第十戦隊を含む)に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃したが、会敵の機会がなかった[116]。 10月31日、修理を終えた秋月が第61駆逐隊に復帰、同隊はようやく秋月型4隻(涼月、初月、若月、秋月)編制となった[117]

11月10日、ラバウルからトラックに向かっていた輸送船団はアメリカの潜水艦スキャンプ (USS Scamp, SS-277) に襲撃される。輸送船東京丸(摂津商船、6,484トン)が被雷[118]。救援のため、61駆(涼月、初月)はトラックを出撃した[119]。現場に到着して東京丸の援護にあたったものの、同船は浸水がひどくなって11月12日に沈没した[118]。 東京丸の沈没に先立つ同じ11月12日の朝、スキャンプはラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の軽巡洋艦阿賀野(第十戦隊旗艦)に魚雷を命中させ、同艦を航行不能に陥らせた(随伴艦浦風[120][121]。東京丸の援護を終えて間もなく涼月は阿賀野・浦風の救援に駆けつけ[122]、軽巡2隻(能代、長良)、駆逐艦部隊(涼月、初月、浦風、藤波、早波)という戦力で阿賀野をトラックまで護衛した[123]。11月15日、各艦に護衛され、阿賀野(長良曳航)はトラック泊地に到着した[121]

12月1日、秋月(61駆)がトラック泊地に到着する。 12月3日、阿賀野損傷時に負傷した大杉司令官は第十戦隊司令官を退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官に任命された[124]12月7日[125]重永主計大佐(重巡筑摩艦長)指揮のもと、61駆(涼月、初月)は大型艦2隻(瑞鶴、筑摩)を護衛してトラックを出港[126][127]。 12月12日、艦隊(筑摩、瑞鶴、涼月、初月)はに到着[128][129]、第61駆逐隊は再び分散した[130]

昭和19年

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1943年(昭和18年)12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐(海兵46期)に交代した[53][131](大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)[132]

修理後の12月23日-24日、第61駆逐隊(涼月、初月)はウェーク島(当時の日本側呼称は大鳥島)に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力(九五式軽戦車装備)を乗せた特設巡洋艦赤城丸日本郵船、7,389トン)[133]を護衛して瀬戸内海を出撃し[134][135]1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島へ到着した[136][137]1月9日、呉に帰投して第一回ウェーク島輸送を終えた[57][138]1月10日附で、涼月駆逐艦長は赤澤次壽雄大佐から瀬尾昇中佐(海兵51期[53]。瀬尾は、太平洋戦争開戦時の駆逐艦時雨艦長)に交代する[139]

1月15日夜、第61駆逐隊(涼月、初月)は砲兵大隊・工兵隊・衛生隊を乗せた赤城丸を護衛し瀬戸内海を出撃[135][18]、第二回ウェーク島輸送を実施する[133][140]豊後水道を通過後の1月16日10時45分ごろ、北緯32度15分 東経132度26分 / 北緯32.250度 東経132.433度 / 32.250; 132.433[141][142]もしくは北緯32度15分 東経132度29分 / 北緯32.250度 東経132.483度 / 32.250; 132.483[143][144]沖の島西方海上に差し掛かったところでアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けた[5]スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)は艦首発射管から魚雷を4本発射し[145]、4つの命中音を確認した[146]。魚雷は涼月の前部と後部に1本ずつ命中[21]。火薬庫を誘爆させて前部は二番砲塔後ろの61番フレームから前を、後部は第四砲塔後部の166番フレームから後ろを失った[22][147]。また前部被雷による大爆発で艦橋が破壊された[22]。 目撃していた田口正一大佐(初月艦長)は「涼月轟沈と思った」と回想している[27]。 泊(第61駆逐隊司令)や瀬尾(涼月艦長)[148][149][150]以下約130名が戦死[136][151](便乗陸兵150名中、89名戦死[18]、重傷9名)[152]。 生存者約100名の中で、最上級者は掌機長の機関特務中尉だった[144][153]。 大損害を受けた涼月は初月に曳航されて退避を開始[23][154]宿毛湾に到着後、電纜敷設艇釣島と特設掃海艇第六玉丸(西大洋漁業、275トン)の協力を得て[155]1月19日呉へ帰投した[57][26]。 調査した造船士官は、艦橋下方後部寄りの第一缶室の隔壁が設計通りの強度を示したため沈没を免れたと述べている[156]。涼月修理を担当した福井静夫(当時、造船設計担当部員)も、同様に「沈まなかったのが不思議であった」と回想している[21]

1月19日から呉海軍工廠において復旧工事が行われた(8月3日まで)[153][157]。この復旧に際し、外見上の特徴となる直線形状の艦首、角ばった艦橋を持った。 涼月大破時に戦死した泊大佐(海軍少将へ進級)[149]の後任として、3月20日附で天野重隆大佐(海兵47期、前職第10駆逐隊〈秋雲風雲朝雲〉司令)が第61駆逐隊司令に任命され[53]、後任の第10駆逐隊司令は赤澤大佐(涼月初代艦長)となった[158]。 6月10日、倉橋友二郎大尉(ミッドウェー海戦時の駆逐艦萩風砲術長)は涼月砲術長に任命される[159][154]。同月下旬、吉岡欽一郎大尉が涼月航海長[160]、澤岡信男大尉が涼月水雷長[161]に、それぞれ補職。 7月7日附で、天野大佐(第61駆逐隊司令)は、61駆司令と涼月艦長の兼務を命じられた[162]。7月10日、涼月駆逐艦長を杉谷永秀中佐(海兵51期[53]。杉谷は、駆逐艦黒潮沈没時の艦長)[163]とする人事が発令される[164]。8月3日、涼月の修理は完成した[22]。戦列復帰後の涼月は、瀬戸内海で訓練を行う。

10月中旬、61駆2隻(涼月、若月)は第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)より、大分から台湾基隆への輸送(艦載機基地用物件および人員)を命じられる[165][166]台湾沖航空戦の最中であり[167]、また悪天候の豊後水道を夜間通過することになるため、涼月幹部達は小沢艦隊司令部に猛抗議したものの却下された[165][168]10月16日22時10分、北緯31度29分 東経131度54分 / 北緯31.483度 東経131.900度 / 31.483; 131.900[169]都井岬沖を航行中の61駆(若月、涼月)は、アメリカの潜水艦ベスゴ (USS Besugo, SS-321) の雷撃に遭った。ベスゴは浮上攻撃にて[170]「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦」[170]に対して艦首発射管から魚雷を6本発射[170]、2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中の水柱が立つのを見た[170]。涼月側は電波探知機(逆探)でベスゴのレーダーを探知していたが、悪天候のため雷跡を発見するのが遅れたのである[171][168]。この攻撃で艦首と一番砲塔下左舷に魚雷が命中し、艦首部は18番フレームから前を切断[22][147]。一番砲塔下に命中した魚雷は不発だったが[29]、船体に亀裂を生じさせた[172]。戦死者2名[173][174]。涼月は九州沿岸沿いに北上して呉に退避する[171]。10月17日から11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けた[57][172]

この頃、秋月型駆逐艦8番艦冬月(第41駆逐隊)もアメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412)の雷撃で艦首を喪失しており(10月12日、被雷損傷)[175][176]、秋月型2隻(涼月、冬月)は並んで修理を受けた[177][178]。 修理中の10月24-26日に起きたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗[179]。第61駆逐隊では小沢機動部隊に所属していた2隻(秋月、初月)が沈没し、天野駆逐隊司令も戦死した[68][13]。 11月8日、秋月型2隻(涼月、霜月)は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向伊勢)と共にシンガポール〜リンガ泊地へ進出予定であったが、出撃直前に涼月の新造艦首部分で浸水事故が発生、本艦は出撃機会を逸した[180][181]。その後、霜月(第41駆逐隊)は第三十一戦隊旗艦として行動中、11月25日にボルネオ島方面で米潜水艦に撃沈された[182][183]

11月15日附で第61駆逐隊は解隊され、涼月と若月(多号作戦に参加して11月11日に沈没[14]、書類上在籍)は[167]、秋月型2隻(冬月、霜月)の第41駆逐隊に編入された[31][32]。 第41駆逐隊司令は脇田喜一郎大佐(海兵48期)であった[53][184]。 だが霜月も11月25日に米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) の雷撃で撃沈され(前述)、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将戦死、脇田(41駆司令)と畑野健二少佐(霜月艦長)も戦死した[183][185]。第41駆逐隊は秋月型2隻(涼月、冬月)で行動することになった[186][187]。 なお同日附で第十戦隊も解隊されており、第17駆逐隊や第41駆逐隊等の残存部隊は以降第二水雷戦隊[31](司令官不在[188])に編入された[189][190]。上記のように被雷と損傷修理のため、秋月型2隻(涼月、冬月)はマリアナ沖海戦レイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊に編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった[191]

11月中旬、戦艦3隻(大和、長門、金剛)の内地帰投に際し[192]、第41駆逐隊(涼月、冬月)は大和型戦艦1番艦大和(艦長森下信衛大佐)を豊後水道まで出迎えた(戦艦金剛は台湾沖で沈没。戦艦長門および第17駆逐隊は横須賀回航)[193]。大和便乗中の宇垣纏中将は「GFは特に文月涼月の二驅逐艦を警戒に派遣し呉れたるも、之字運動も十分出來ざる山船頭案山子にもならず。」と評している[194]

同月下旬、駆逐艦3隻(秋月型〈涼月、冬月〉、松型駆逐艦〉)はマニラ方面への緊急輸送作戦に参加する空母隼鷹を護衛することになった[195]。11月23日、隼鷹隊は呉を出撃[196][197]。11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げする[198]。12月1日、出港[199][200]。 12月3日、馬公に到着後、隼鷹隊は日本に戻る戦艦榛名(艦長重永主計大佐)と合流する[200][197]。同艦はシンガポールで座礁し、艦底に損傷を受けた状態であった[200]12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう[57]佐世保に入港直前の12月9日未明[199][201]、艦隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。涼月側は敵潜水艦の待ち伏せが懸念される男女群島東方海面の黎明前航行を避けるよう榛名に意見具申したが、返答はなかったという[202][203]。 直後、隼鷹はレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が2本命中して中破[204][205]。続いて槇がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃により損傷した[205]。隼鷹は佐世保に帰投[199][202]。この輸送作戦従事中、涼月・冬月ともに、荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した[191][206]。呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ、修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った[191]

昭和20年

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坊ノ岬沖海戦における涼月
坊ノ岬沖海戦における涼月の損傷図

1945年(昭和20年)はじめもしくは1944年末ごろ、艦橋左右に機銃台を増設し25mm3連装機銃2基を増備した(合計7基)。また前マスト上の21号電探を撤去し、跡に22号電探1基・13号電探1基を設置(13号電探は合計2基)。

1945年(昭和20年)2月下旬、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(海兵45期)及び指揮下二水戦各艦は北号作戦で日本に帰投[207]。 2月20日附で人事異動がおこなわれ、涼月水雷長は澤岡信男大尉から岩越朴雄大尉に交代[208]。涼月機関長も桑原堅志少佐から原田周三大尉(当時、夕雲型駆逐艦朝霜機関長)に交代する[208][209]

2月21日、41駆(涼月、冬月)は正式に、第二水雷戦隊司令官の指揮下に入った[210]

3月1日、第41駆逐隊司令として夕雲型駆逐艦風雲初代艦長等を歴任した吉田正義大佐(海兵50期)が着任する[53][211]。3月10日附で杉谷大佐(涼月艦長)は第52駆逐隊司令へ転任、涼月新艦長として平山敏夫中佐(海兵55期[53]。平山は、夕雲型駆逐艦早霜沈没時の艦長[31][212])が着任した[213]

呉軍港空襲

3月19日の呉軍港空襲では[207]広島湾にて戦艦大和(艦長有賀幸作大佐)の護衛についた[214]。第二艦隊に大きな被害はなかった[207]

3月29日、海上特攻隊(指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官/海軍中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した[215]。敵水上艦隊との戦闘が行われる場合、第41駆逐隊(冬月、涼月)は第一遊撃部隊(1YB)第一部隊(1NB)となり、大和の直衛艦として行動する予定だった[216][217]

3月26日、倉橋友二郎少佐(涼月砲術長)を第36号海防艦長(丁型海防艦)に、平田茂男大尉(当時、雲龍型航空母艦笠置艤装員)を涼月砲術長とする人事が発令される[218][219]。倉橋によれば、平山(涼月艦長)や第二艦隊司令部の意向により、しばらく様子を見ることになったという[219]。また沖縄への出撃に際し、生還は見込めないことから涼月主計長を退艦させている[220]

坊ノ岬沖海戦

4月6日15時、海上特攻隊(第一遊撃部隊)は[35][221]、第二艦隊長官伊藤整一中将指揮下、第一航空戦隊大和)、第二水雷戦隊(軽巡〈矢矧〉、第17駆逐隊〈磯風雪風浜風〉、第21駆逐隊〈朝霜初霜〉、第41駆逐隊〈冬月涼月〉)という戦力で徳山を出撃[222](対潜警戒の第三十一戦隊は午後4時以降分離、帰投)[223]。少なくとも3隻(磯風、涼月、冬月)は煙突に菊水マークを描いていたという[224]。 19時50分からの第一警戒航行序列では[225]、涼月は大和(旗艦)の右側を占位した[226][227]

4月7日6時に第三警戒航行序列に切り替わってからは[228]、大和左後方に位置した[229][230]。 同日午前中、夕雲型駆逐艦朝霜(第21駆逐隊司令小滝久雄大佐座乗)が機関故障により落伍[231][232]。12時30分前後にアメリカ軍機に襲撃されて沈没した[233][234]。涼月からは朝霜のマストだけが見えていたという[234][235]

12時32分、アメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)[236]からの艦載機の第一波がやってくる[237][238]。 度重なる転舵で輪形陣が崩れる中、涼月は大和左舷後方に位置して掩護を続けた[239][240]。第一波攻撃により、矢矧(第二水雷戦隊旗艦)は被雷して航行不能、浜風(第17駆逐隊)は沈没した[238]

第一波の空襲が終わりに近づいてきた13時8分(涼月艦橋の電気時計の停止時間。実際の被弾時間は不明[241][238]、空母エセックス (USS Essex, CV-9) のSB2C「ヘルダイバー」4機[242]から投じられた150キロ爆弾のうち一発が艦橋前に命中して船首楼甲板、上甲板、右舷側外板に大破口が生じ[37]、他の二発が後方への至近弾となった[242]。命中弾により火災が発生し、海図も方面違いの5枚を残して全て焼失、通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した[243]。一番砲塔、二番砲塔も大破し、弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した[244]。艦内電源が断たれたため消火活動を開始するまでに時間がかかり、二番砲塔の誘爆を招いてしまったという[245]。冬月は13時15分に『涼月火災中ナルヲ認ム』と記録している[246]。 この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった[247][248]。操舵装置の破壊と速力指示機の故障により涼月は右旋回を続けていたが、このとき、大和が左舷に回頭したため、2隻は50m程まで接近した[249][250]。涼月側は後進をかけ、衝突は直前で回避されている[251][247]。涼月からは大和に舵故障の旗流信号(D旗)が上がっているのが見られた[249][252]

13時30分頃よりアメリカ軍機動部隊艦載機の第二波攻撃がはじまった[253]。アメリカ軍攻撃隊の報告によれば、当時の第二艦隊は健在の大和直衛群(大和、冬月、初霜、雪風、霞)、航行不能の矢矧(第二水雷戦隊旗艦)および同艦救援の磯風(第17駆逐隊)に分離し、その間に軽巡洋艦1隻が航行していた[254]。涼月を軽巡洋艦と誤認したものとみられる。この攻撃で大和[255]と矢矧[256]が沈没[257]。霞が航行不能となり、損傷を受けた磯風は自力で北方へむかった[253]

作戦中止後

涼月戦闘続行不能と判断した涼月艦長の平山は、大和沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始[258][247]。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。涼月は被弾により艦首が沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十cmという状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だった[259]。そこで機関長は「後進強速黒二〇[247](後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた[260][261]。9ノットの速力を安定して発揮[262]

この時、空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) のTBF「アヴェンジャー」が魚雷を放ってきたものの、命中しなかった[263]。海図焼失、ジャイロコンパス破損の状況ながらも涼月は日本本土を目指した[264]。その際、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦』に手旗信号で方向を教えてもらい、北東へ針路をとった……としているが[261][265]、酒匂(初霜艦長)の回想では初霜(第21駆逐隊)が涼月の後方について針路を指示した」となっている[266]。 14時55分、涼月は「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの[267]、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという[247]。夜になって実際に雷撃されたが[264]、艦尾前方を通過していったという回想も残されている[268][269]。 15時15分、初霜に対して突入作戦が続行中かどうか信号で交信したが、「不明」との返事をもらう[270][271]。次いで15時25分には冬月に対して二軸運転で航行可能な旨を報じた[272][271]。17時30分、涼月は洋上に停止して応急修理を行う磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と遭遇した[273]

同時刻、矢矧(艦長原為一大佐)沈没後、初霜に救助されていた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、遊撃部隊の指揮を吉田正義大佐(第41駆逐隊司令、冬月座乗)から継承した[274][275]。初霜(二水戦司令部)は磯風の曳航準備を進める陽炎型駆逐艦雪風(第17駆逐隊)に対し、磯風処分を下令した[276][277]。第17駆逐隊および雪風の磯風曳航の意見具申を二水戦司令部(初霜)は却下し、磯風は雪風に処分された[277][278]

また二水戦司令部(初霜)は冬月に対しても『涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』と命ずるが、同時に『状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ』とも通達している[279][280]

日没後、涼月を護衛もしくは処分するため冬月が捜索を開始したが[281]、見つけることは出来ず[278]、すでに先行していると推定された[282][283]

4月8日朝、冬月は各隊に単独帰投中の涼月の掩護を要請した[284][280]。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される[285]

昼前には1隻の漁船(漁船改造の特設掃海艇とも、駆潜艇とも)から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおくられ[286][287]、涼月乗組員一同を苦笑させた[288][289]

14時30分[278]、ついに佐世保に帰投する[290][280]。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが[291]、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した[286][292]

しかし佐世保入港時に後進から前進に切り換えたことで浸水が進行[289][293]。係留中にも浸水が止まらなかったので大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが[294][295]、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった[244][296]

大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる[37]。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された[291][247]。また涼月砲術長によれば、3名のうち江藤虎蔵(二等主計兵曹)は短刀で自決していたという[296][297]。 本海戦において涼月は戦死者57名[298]、負傷者34名[244](35名とも)を出した[299]

予備艦

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涼月の修理に必要な期間は約3ヶ月と算出された[300][301]5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ[302]、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった[302]。破口はそのままに角材で補強され[303]、一番砲塔と二番砲塔、機銃を撤去[244][304]。5月5日、出渠[305]。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留された[306]。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上より給電を行った[307][308]。この頃、坊ノ岬沖海戦被弾時に焼失した涼月神社(艦内神社)を再建するため、若手士官を伊勢神宮に派遣して御神体を拝領した[307][308]

7月5日附で、涼月は第41駆逐隊から除かれた[39]。同日附で第四予備艦となった[40][309]。 当時の涼月乗組員は約100名ほどで、農耕隊と漁労隊を編制すると、開墾や(カボチャイモの栽培)、貰い受けた漁船を活用して食糧調達を行う[310][311]。その間の7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51ムスタング1機を高射砲で撃墜した[310][311]。11月20日、除籍[57]

戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、佐世保に回航されて冬月とともに係留された[312]1948年(昭和23年)4月1日から5月31日にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物の撤去工事を実施する[305][313]。船体は駆逐艦冬月、柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された[10][314]。現地では軍艦防波堤と呼ばれ親しまれたが、その後完全に埋められた。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳(初代)の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、冬月と涼月の船体は暫くの間内部に入ったりすることが可能であったが、現在は完全に埋めたてられ確認することはできない[315]

「涼月」は戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し(昭和19年1月16日、同年10月16日、昭和20年4月7日)[316]、「不沈艦」伝説も生まれた[28]。秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。

歴代艦長

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※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』354-355頁による。

艤装員長

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  1. 赤澤次壽雄 中佐:1942年9月10日[52] - 12月29日[54]

駆逐艦長

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  1. 赤澤次壽雄 中佐:1942年12月29日[54] - 1944年1月10日[139]
  2. 瀬尾昇 中佐:1944年1月10日[139] - 1944年1月16日戦死(海軍大佐へ進級)[149]、以後1944年7月7日まで艦長を置かず。
  3. (兼)天野重隆 大佐:1944年7月7日[162] - 7月10日[164] (本職:第六十一駆逐隊司令)[158]
  4. 杉谷長秀 中佐:1944年7月10日[164] - 1945年3月10日[213]
  5. 平山敏夫 中佐:1945年3月10日[213] - 1945年5月18日[317]、以後艦長を置かず。

脚注

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  1. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録154頁
  2. ^ a b 機銃、電探数は『日本駆逐艦物語』p281の「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。1944年6月30日の調査。
  3. ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたらしい。装備時期は不明。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p39、『写真 日本の軍艦 第11巻』p158による。
  4. ^ a b c #達昭和17年1月pp.24-25『達第十八號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦四隻、掃海艇一隻、敷設艇二隻及掃海特務艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十七年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一等驅逐艦 涼月(スズツキ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 高波(タカナミ)|(以下略)』。命名に係る本令達で用いられている漢字はであってではない。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 秋月型(2015潮書房)76-78頁『涼月(すずつき)』
  6. ^ a b c d 巻3/第13類 艦船(1) 昭和17年12月31日現在10版 内令提要追録第12号原稿(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072013300 p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|秋月型|秋月、照月、涼月、初月、新月、若月|』
  7. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103300, pp.49『六.防禦 (イ)凉月型ニ於テハ中部ニ吐水口少シ増設ノ要アリ』
  8. ^ 片桐, 348ページ
  9. ^ a b 昭和17年9月23日(水)海軍公報(部内限)第4202号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C12070422800 『○事務所設置 驅逐艦凉月艤装員事務所ヲ九月十三日長崎海軍監督官事務所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ|伊號第百七十八潜水艦艤装員事務所ヲ九月十九日三菱神戸造船所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ』
  10. ^ a b #終戦と帝国艦艇53頁『(36)駆逐艦"凉月"』
  11. ^ 涼月の戦友会が「凉月会」という名称を使用しているほか、軍艦防波堤の案内板(File:Gunkannbouhatei explanation.jpg)も涼月の表記を使用している。戦闘詳報でも涼月と凉月の混同が見られる。
  12. ^ a b 陽炎型(2014潮書房)326-327頁『初月(はつづき)』
  13. ^ a b 秋月型(2015潮)78-79頁『初月(はつづき)』
  14. ^ a b 秋月型(2015潮書房)79-80頁『若月(わかつき)』
  15. ^ a b #内令昭和18年8月(2)p.29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』
  16. ^ a b c d e 陽炎型(2014潮書房)325-326頁『涼月(すずつき)』
  17. ^ #S19.01船舶(損傷)p.2『19-1|16|豊後水道沖40′|凉月|61dg/10S| |赤城丸護衛中|雷撃 前線附近切断|内地』
  18. ^ a b c 戦史叢書6巻、245-246頁「独立混成第五聯隊第二次輸送部隊のポナペ進出」
  19. ^ #S18.12呉防戦日誌(2)p.4『一六|一〇四五|一三二-二六|凉月雷撃ヲ受ケ被害アリ』
  20. ^ a b 日本軽巡戦史461-462頁(赤城丸輸送)
  21. ^ a b c 日本駆逐艦物語233-235頁『地獄から蘇生した歴戦艦』
  22. ^ a b c d e f 歴群23、秋月型 1999, pp. 159a-160「涼月被害情況」
  23. ^ a b c #S19.01.16-01.27経過概要p.4『19-1|16| |d凉月ハ赤城丸ヲ護衛航行中豊後水道沖約40′ニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|内地 3F|船体艦橋前線附近ヨリ切断 前部ハ流出 後部ハd初月之ヲ宿毛ニ曳航 船体機関共 大破 行方不明司令以下121 戰死14』
  24. ^ #S1812十戦隊日誌(2)p.27『一八 二一〇五初月|(宛略)|初月機密第一八二一〇五番電 本艦凉月ヲ曳航宿毛着二一〇〇|無電』
  25. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 159b同著では「冬月が曳航」とするが、この時点で「冬月」は未就役。「初月」の誤記。
  26. ^ a b #S18.12呉防戦日誌(2)p.12『一九|涼月|三拓、六玉、多摩、釣島|入泊航路上|被雷撃 曳航入泊ス』
  27. ^ a b 秋月型(2015潮書房)87-89頁『僚艦「涼月」の曳航成功』
  28. ^ a b 土井、兵士記録277-278頁
  29. ^ a b 土井、兵士記録278-279頁
  30. ^ S19.10経過概要(護衛対潜)p.5『16|2200頃|凉月都井崎沖合ニ於テ(潜水艦)(魚雷)×1ヲ受ケ引返ヘセリ』
  31. ^ a b c d 歴群23、秋月型 1999, p. 179b.
  32. ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ |第五十二駆逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| 第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  33. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 179a-181平山「凉月」艦長と山名「冬月」艦長
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  41. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 35a-38part4 文・写真提供 上農達生『防波堤となった「涼月」と「冬月』
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  75. ^ 戦史叢書96巻8-9頁『兵力整理と聯合艦隊各部隊兵力部署』
  76. ^ #S1709三戦隊日誌(2)p.37『一五(天候略)一一〇〇「トラツク」発/一四一五2sf15dg解列「トラツク」ニ引返ス/一二五五ヨリ一七二〇迄之字運動|3S 8S 2sf鳥海冲鷹日進及駆五ヲ率ヰ内地ニ回航』
  77. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(ハ)作戰指導(中略)(二)「トラツク」ニテ警泊地待機中ノ處、十五日發内地ニ回航二十一日舞鶴着、整備ニ從事』
  78. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.9『(司令)時雨ハ十五日(将旗)/3Sノ指揮下ニ入リ内地囘航部隊ノ警戒ニ任ジ「トラツク」發二十日佐世保着尓後同地ニ在リテ船体ノ整備ニ任ズ』
  79. ^ 昭和18年3月6日(発令3月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1064号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072116100 
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  82. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.7『夕暮(略)二十一日同地発佐伯着二十二日同地発陽炎初月涼月ト共ニ2sf及8Sノ護衛ニ任ジツツ(GF電令第一三三號KdB電令作第五七號)二十七日「トラツク」着』
  83. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.37『二二(天候略)一.夕暮一一三〇トラツクニ向ケ佐伯発|一.夕暮陽炎初月凉月ト共ニ2sf 8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラツクニ回航ス(GF信電令第一三三號KdB電令作第五七號)/二.五月雨〇五四五第二長安丸救難警戒ニ任ズ』
  84. ^ a b c 戦史叢書96巻108-110頁『作戦準備』
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  87. ^ a b 日本空母戦史451-453頁『瑞鶴飛行隊・瑞鳳飛行隊・隼鷹飛行隊・飛鷹飛行隊』
  88. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.29-30『(ハ)作戦指導 前月ニ引続キ三月二十一日迄内地ニ在リ整備補給竝ニ諸訓練ニ従事/三月二十二日2sf司令官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ内海出撃「トラツク」ニ回航二十七日着尓後同地ニ警泊待機諸訓練ニ従事』
  89. ^ 戦史叢書6巻102-104頁『聯合艦隊の「い」号作戦と山本司令長官の戦死』
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  92. ^ 戦史叢書96巻129頁(山本遺骨)
  93. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.49『(二)十七日GF長官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ「トラック」發横須賀ニ回航二十二日着…』
  94. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』
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  99. ^ #内令昭和18年6月(6)pp.7-8『内令第千二百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』
  100. ^ 戦史叢書6巻113-114頁『南海第三守備隊の編成と南海第四守備隊の出発』
  101. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『7月10日0530日進(宛略)日進玉波0500「トラック」ニ向ケ發|無電』-『7月14日0500瑞鶴→艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』
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  106. ^ #S1701第八戦隊日誌(6)p.17『(三)軍隊区分 機動部隊本隊[自十五日至二十六日 機動部隊第一部隊(十五日61dgヲ指揮下ニ入ル 十八日阿賀野(10S司令官)4dg磯風日進大淀最上ヲ指揮下ニ入ル)]』
  107. ^ #S1701第八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』
  108. ^ a b c 戦史叢書6巻121-123頁『南海第四守備隊の南東転用と歩兵第百二十二聯隊のマーシャル諸島派遣』
  109. ^ #S1701第八戦隊日誌(6)pp.18-19『十九日第一部隊[8S、10S(阿賀野4dg(萩風嵐)61dg(涼月初月)磯風)大淀最上日進]ヲ率ヰ「トラック」出撃「ラバウル」及「ソロモン」方面軍隊輸送ヲ実施シ二十六日「トラック」ニ帰着セリ』
  110. ^ a b c 戦史叢書96巻249-250頁『経過概要と南東方面部隊等の作戦指導』
  111. ^ #S1701第八戦隊日誌(6)p.37『乙部隊中「ブカ」行61dgハ二十二日1945「ラバウル」出撃後2300頃ヨリ「セントジョージ」岬南方ニ於テ一時敵哨戒機ノ触接ヲ受ケシモ其ノ後敵ヲ見ズ予定通行動「ブカ」ニ揚搭(守備隊長道下大佐以下455名及器材)ヲ了シ二十三日0800「ラバウル」ニ帰投本隊ニ合同セリ』
  112. ^ 戦史叢書62巻573頁
  113. ^ #S1701第八戦隊日誌(6)p.43『殊ニ4dg(萩風嵐)磯風日進ハ第十戦隊司令官直率ノ下ニ敵襲下航空機ノ熾烈ナル攻撃ヲ突破シ挺身「ブイン」輸送ヲ決行シ偶日日進ヲ喪失スルノ不運ニ際會セルモ…』
  114. ^ 戦史叢書62巻386頁
  115. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)10dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
  116. ^ 『第八戦隊戦時日誌』C08030048800, pp.14,15,31,32,33、木俣『日本空母戦史』504、508ページ
  117. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  118. ^ a b #S18-19徴用船舶甲第4回(24)p.4『東京丸|〃(一八)〃(一一)一〇|〇九一九トラツクニ向ケ航海中北緯四度六分東経一五〇度一七分ニ於テ敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ損傷』-『〃(一八)〃(一一)一二|一四五五 北五度四二分東一五一度九分ニ於テ沈没』
  119. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1
  120. ^ S18.11経過概要(護衛対潜)p.5『12| |阿賀野ハトラツクノSW40′ニテ再ビ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク| |航行不能』
  121. ^ a b 戦史叢書96巻414-415頁『邀撃空戦と艦艇の被害』
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  124. ^ 昭和18年12月6日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1274号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  125. ^ 戦史叢書62巻514-515頁『第八戦隊「瑞鶴」等の内地回航整備』
  126. ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.26『(四)六日8S(筑摩)ハ聯合艦隊信令第六四五號ニ依リ兵器其ノ他ノ物件ヲ處理シ(弾薬等一部7Sニ還納以来)陸揚中ノ物件ヲ揚収回航準備ヲ完成、七日〇八〇〇8S(筑摩)瑞鶴61dg(涼月初月)ヲ率ヰ「トラック」發二三〇〇途中迄直衛トナレル谷風ヲ「トラツク」ニ皈投セシメ十一日一六〇〇豊後水道沖島通過十二日〇一〇〇呉ニ入港セリ』
  127. ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.4『(二)我軍ノ情況(ロ)61dg(凉月、初月)七日「トラツク」発 呉行ノ8S(筑摩)瑞鶴ノ護衛ニ任ズ』
  128. ^ #S18.12呉防戦日誌(1)p.12『一二|瑞鶴 筑摩|第一特別掃蕩隊 艦艇名不明|入泊航路上|対潜特別掃蕩』、pp.72-73『一二(天候略)一、春風修理完了佐伯着|一、筑摩瑞鶴61dg東水道北上(以下略)』
  129. ^ #S18.11佐防日誌(6)p.39『八日一一四八 呉防戰司令官(宛略)電令作第四〇八號 筑摩、瑞鶴、第六十一駆逐隊ハ十一日一四三〇N31°55′E132°50′ニ達シ尓後東水道ニ進入ノ予定速力二十四節(以下略)』
  130. ^ #S1812十戦隊日誌(1)pp.10-11『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和18年12月)
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  140. ^ #S1812十戦隊日誌(2)p.23『一五 二三三〇(司令)61dg|(宛略)|61dg機密第一五二三三〇番電 第六寿一駆逐隊(凉月、初月)赤城丸(獨立混成第五聯隊乗組)大鳥島ニ向ケ宇品発|無電』
  141. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.43
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  148. ^ #S1812十戦隊日誌(2)p.25『一七 〇九〇五初月|(宛略)|初月機密第一七〇九〇五番電 十六日一〇五〇涼月北緯三二度一五分東経一三二度二九分ニテ雷撃ヲ受ケ大破 司令泊(六二六)駆逐艦長瀬尾(一六三七)戰死セリ|無電』
  149. ^ a b c 昭和19年2月10日(発令昭和18年12月4日)海軍辞令公報(部内限)第1318号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095700 
  150. ^ 高松宮日記7巻229頁『○「涼月」前後部切断、航行不能、浸水稍増加シツツアルモ、今ノ処沈没ノ虞ナシ(一六-一四一〇)、司令泊大佐、艦長戦死、生存者約100名。』
  151. ^ S19.01経過概要(護衛対潜)p.5『16| |d凉月ハ赤城丸ヲ護衛航行中豊後水道沖約40′ニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|61dg/10S|舩体艦橋前線附近ヨリ切断前部ハ流出 後部ハd初月之ヲ宿毛ニ曳航 舩体機関共大破 行方不明司令以下121 戰死14』
  152. ^ 高松宮日記7巻240頁『○発独立混成第五聯隊長 宛東部軍司令官(呉通信隊、二三-一三三七)』
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  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年。ISBN 47698-2009-7 
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  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 「戦術の極意」<駆逐艦艦長・石塚栄少佐の証言>(砲術長、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7 
    • (63-90頁)戦史研究家大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり 太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情
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    • (62-75頁)戦史研究家山内隆『駆逐艦の発達五十年 生い立ちから防空直衛艦や戦時急造艦をうむにいたるまでの進歩変遷の歩み
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    • (302-312頁)戦史研究家佐伯玲治『北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光 初春、子日、初霜、若葉。第一水雷戦隊の初春型駆逐艦四隻の転戦譜
    • (313-328頁)当時「矢矧」艦長・海軍大佐原為一『最後の駆逐隊八隻の沖縄水上特攻 十七駆(磯風、浜風、雪風) 二十一駆(初霜、朝霜、霞) 四十一駆(冬月、涼月)の奮戦
    • (329-336頁)当時「雪風」水測士兼艦長付・海軍少尉小早川真行『十七駆逐隊「雪風」は死なず死闘あるのみ 十六駆逐隊の僚艦大破沈没、十七駆逐隊に転じた雪風の最後の大海戦
  • 土井全二郎「第八章 沖縄特攻艦隊出撃す」『歴史から消された兵士の記録 無名兵士が語る最前線の実相』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2453-X 
  • 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  • 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』出版共同社、1961年5月。 
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』 第5巻、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社、1993年、ISBN 4-76981-395-3 (ISBNコードは2008年新装版のもの)
  • 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)、文藝春秋
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』 第6巻、朝雲新聞社、1967年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書13 中部太平洋方面陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』朝雲新聞社、1968年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 堀元美『造船士官の回想(下)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN 4-257-17285-1 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0461-X
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集18 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』光人社、1997年11月。ISBN 4-7698-0819-4 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • (20-31頁)当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡
    • (32-58頁)当時「秋月」罐部四分隊士・海軍中尉山本平弥『防空駆「秋月」の死命を制した最後の一弾 秋月の沈没原因は敵潜の魚雷か直撃弾か。それとも発射管の誘爆か
    • (59-65頁)当時「涼月」機関長・海軍大尉原田周三『「涼月」機関長奇跡の後進航法に生きる 直撃弾により満身創痍となりながらも後進で帰投した不眠不休の戦い
    • (66-73頁)当時「秋月級」設計主務者・海軍技術大佐松本喜太郎『私はこうして愛児「秋月級」を誕生させた 防空専用艦誕生にいたる背景や苦労を主任設計者が回想する建艦秘話
    • (73-83頁)戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
    • (84-93頁)当時「初月」艦長・海軍大佐田口正一『遙かなり防空直衛駆逐艦「初月」の航跡 初陣の潜水艦戦からマリアナ沖海戦まで勇猛艦長の東奔西走の日々
    • (113-162頁)当時「涼月」砲術長・海軍少佐倉橋友二郎『防空駆逐艦「涼月」砲術長の沖縄水上特攻 四十一駆逐隊の若月、霜月すでになく冬月と共に戦った対空戦闘記
    • (249-263頁)「丸」編集部『駆逐艦ものしり雑学メモ』
  • 吉田満、原勝洋『ドキュメント戦艦大和』文藝春秋、1886年4月(原著1980年)。ISBN 4-16-734902-7 
  • 歴史群像編集部編『秋月型駆逐艦 対空戦に威力を発揮した空母直衛艦の勇姿』 第23巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1999年10月。ISBN 4-05-602063-9 
    • 34-38ページ、上農達生「防波堤となった「涼月」と「冬月」」
    • (158-168頁)文・作図=岡田幸和 特別企画1 損傷と応急対策『日本駆逐艦の戦闘被害調査 太平洋戦争で被害を受けた駆逐艦129隻の中から29隻を抽出し、魚雷・爆撃・砲撃・機雷の被害別に損傷を検証し応急対策等に言及する。
    • (173-181頁)雨倉孝之『人物抄伝 太平洋戦争の群像「秋月型駆逐艦」の戦士たち』
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年1月~12月 達/達昭和17年1月』。Ref.C12070114100。 
    • 『昭和17年1月~3月 内令1巻/昭和17年1月(3)』。Ref.C12070160600。 
    • 『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。Ref.C12070165700。 
    • 『昭和17年10月~12月 内令4巻止/昭和17年12月(5)』。Ref.C12070167100。 
    • 『昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年1月(2)』。Ref.C12070175100。 
    • 『昭和18年5~6月内令2巻/昭和18年6月(6)』。Ref.C12070178400。 
    • 『昭和18年7~8月 内令3巻/昭和18年8月(2)』。Ref.C12070179600。 
    • 『昭和18年9~10月内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。Ref.C12070181500。 
    • 『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/秘海軍公報昭和20年7月(3)』。Ref.C12070505700。 
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。 
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030334600。 
    • 『昭和17年9月11日~昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030041800。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030100500。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030100600。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030100700。 
    • 『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(2)』。Ref.C08030586800。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101000。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101100。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030101200。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030101300。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。 
    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(5)』。Ref.C08030048600。 
    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(6)』。Ref.C08030048700。 
    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(7)』。Ref.C08030048800。 
    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(8)』。Ref.C08030048900。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(1)』。Ref.C08030050000。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(2)』。Ref.C08030050100。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(3)』。Ref.C08030050200。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(4)』。Ref.C08030050300。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(5)』。Ref.C08030050400。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時(6)』。Ref.C08030050500。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030410600。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030410700。 
    • 『昭和19年11月1日~昭和20年7月9日 佐伯防備隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030413300。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030369300。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030369400。 
    • 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。Ref.C08030147800。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年11月』。Ref.C16120658700。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年12月』。Ref.C16120658800。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年1月』。Ref.C16120659200。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年10月』。Ref.C16120660100。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年11月』。Ref.C16120660200。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年12月』。Ref.C16120660300。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/19年1月16日~19年1月27日』。Ref.C16120638500。 
    • 『昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7/第三段作戦(船舶被害「損傷之部」)19年1月4日~19年1月31日』。Ref.C16120638900。 
    • 『昭和18年~19年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第4回/昭和18年~19年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第4回(24)』。Ref.C08050031700。 
    • 大阪警備府司令部『自昭和十八年一月一日至昭和十八年一月三十一日 大阪警備府戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年1月31日 大阪警備府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030498600
    • 呉防備戦隊司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』(昭和17年12月1日〜昭和18年5月31日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030367600
    • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101800
    • 第十戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050000
    • 呉鎮守府司令部『自昭和十九年一月一日至昭和十九年一月三十一日 呉鎮守府戦時日誌』(昭和19年1月1日〜昭和19年3月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030328800
    • 第十戦隊司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050900
    • 呉防備戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030369800
    • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
    • 第十戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月十五日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030051000
    • 第二水雷戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年三月一日至昭和二十年四月二十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103000
    • 第二水雷戦隊司令部『天一号作戦海上特攻隊1YB主力(大和2sd)戦闘詳報 自昭和二十年四月六日至昭和二十年四月八日沖縄島突入作戦』(昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103100、C08030103200
    • 軍艦大和『昭和二十年四月二十日 軍艦大和戦闘詳報 自昭和二十年四月六日至四月七日』(昭和20年4月6日〜昭和20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030566400

関連項目

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