炉端焼き
炉端焼き(ろばたやき)は、日本の田舎屋風の店舗で、店員が魚介類や野菜を(炭火で)焼いた料理を提供する居酒屋の一形態を指し、第二次大戦後の宮城県仙台市で発祥したとされている。
なお、店舗が提供した食材を客が自分で調理する場合は「セルフ炉端焼き」とも呼ぶ。
概説
[編集]魚介類の炭火焼きは、仙台に限らず世界で古くから行われていたと考えられるが、戦後占領期(1945年 - 1952年)にあたる1950年(昭和25年)に、東北地方の民俗学に精通した天江富弥(1899年 - 1984年、仙台市出身)が宮城県仙台市に開いた飲食店「炉ばた」により、この呼称が生まれたとされる。
仙台空襲に遭った同市では、経済的に余裕のある層をおもな顧客とした市内の花街に同店は開業した。なお、一般の庶民が飲食をする場合は横丁の店、あるいは仙台駅周辺の屋台を利用するのが一般的であった。
戦後占領期の仙台にはGIが多数おり、彼らは仙台駅北側のX橋(宮城野橋)周辺や、仙石線・苦竹駅(進駐軍・苦竹キャンプ)に隣接する苦竹小路などのGI向け飲食店を利用しており、当時は米ドルが圧倒的に強かったこともあり、日本人とGIは住み分けていた。
また、1960年代以前の日本の農業では人糞を使っていた[注 1] ため寄生虫の問題があり、生野菜を食べることはなく[1]、冷蔵庫も普及前であったため、野菜は加熱するか塩漬けするなどして食中毒を回避していた。それに加えて、当時はエネルギー革命前で都市ガスが普及しておらず[注 2]、食材の加熱には炭火(直火焼き)が用いられた。肉食は明治以来すでに普及していたが、戦後のハイパーインフレーションの中で畜肉は高級品であり、魚介類が当時の食の中心だった。
このような事情を踏まえ、「炉ばた」では「囲炉裏端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくても良いよう、出来上がったそれらを『掘返べら』という長いしゃもじで離れた客に渡す」というスタイルが定着した。当時、料理のほか、天江のトークを売り物にしていた「炉ばた」には様々な富裕層や知識人が集まり、一種のサロンとなった。このスタイルは、サロンを開けるほどの話術や知識を持たない店主(料理人)でも模倣できたため、「炉ばた」のような特性を持たない(サロンではない)ステレオタイプで日本各地に伝播した。現在ではそれがさらに簡略化され、店舗や料理人の有無に関係なく、客自らが炭火で調理する「和風のバーベキュー」(主に魚介類の網焼き)をも「炉端焼き」、あるいは、「炉端」と呼ぶ例も多い。
現在、仙台の飲食店「炉ばた」は、移転・代替わりして続いている。また、他にも「炉端焼き」を名物とする都市として、釧路港を擁する北海道釧路市があり、同市は「炉端焼きの発祥地」としてシティセールスも行っている[2]。他方、仙台市の南東に隣接する名取市の閖上港で1980年頃から始まった「ゆりあげ港朝市」では、セルフ炉端焼きが名物になっている[3]。
因みに、炉端焼き発祥年とされる1950年(昭和25年)の仙台では、正肉ではない牛タンから佐野啓四郎(山形県出身)が「牛タン定食」という名物メニューを自身の店舗「太助」にて生み出すが、天江の炉端焼きと同様、当時のエネルギー事情、食料事情、食中毒対策等がその成立の背景となっている(天江・佐野の両人は、それらを生み出す前に地元を出て東京圏在住経験がある)。なお、1950年(昭和25年)当時、「炉ばた」および「太助」が、法的に1941年(昭和16年)から1969年(昭和44年)まで存在した外食券が必要な外食券食堂であったか、必要としない雑炊食堂であったかどうかは不明である。
歴史
[編集]宮城県仙台市は第二次世界大戦における仙台空襲(1945年7月10日)で、仙台市都心部が焼野原になった。
戦後占領期の1950年7月2日[4][注 3]、大崎八幡宮の御神酒酒屋・天賞酒造(当時の仙台市八幡町)[注 4][5][6] の三男[7]・天江富弥[注 5][8][9][10][11][12] が、同社の日本酒の販路拡大を企図して、仙台花柳界の中心地・本櫓丁[13][14][注 6](現在の歓楽街「国分町」の一部、北緯38度15分46.9秒 東経140度52分7.1秒[4])に開いた郷土酒亭「炉ばた」[7] が「炉端焼き」の発祥の店とされる[15]。店名の「炉ばた」は林香院[注 7] の住職が命名した[4]。
富弥は大正期より児童文化活動家として知られ、昭和初期に発生した「第1次こけしブーム」の火付け役[10][12] の郷土史家でもあり、後に宮城県民藝協会の初代副会長も務めた[16]。また、野口雨情や山村暮鳥[17]、竹久夢二[9]、三大閨秀歌人といわれた柳原白蓮・九条武子・原阿佐緒[4]、さらには宮沢賢治[18]、永六輔[19] など幅広い交友関係を持っていた[8][20]。「炉ばた」のマッチラベルは、売れる前の棟方志功が描いた。すなわち、客が仙台の文化人・趣味人でもある富弥と、囲炉裏を囲んで会話を楽しむサロン的な店が「炉ばた」であったようである。1960年頃にはジェイムズ・カーカップも来店した[4]。一方で富弥は、1924年にこけし等の民芸品を扱う「小芥子洞」を開店しており、「炉ばた」にも様々な骨董品が飾られたようだが、ある時、店主の知人が店に飾るための開店祝いとして、大きな木べらをプレゼントした。しかし、これは飾られることなく、客に酒や料理を差し出す柄付きの盆のように使用された。これが後に全国に広まる炉端焼きの特徴の1つになった。市内に本店と支店が同時に存在した時期もあり繁盛した[4]。その後店は何度か移転し、主人も代替わりしたが、現在も同市の歓楽街「国分町」(稲荷小路沿い)に「元祖 炉ばた」(北緯38度15分51.6秒 東経140度52分11.4秒 / 北緯38.264333度 東経140.869833度)の店名で存続している[15]。
「炉ばた」の一番弟子が大阪府で、二番弟子が北海道釧路市栄町で、ほか3人の弟子が青森県や福島県などで炉端焼きの店を出した(大阪府の店は既に閉店)。
1953年、釧路の弟子は仙台と同様に「炉ばた」(北緯42度59分1.4秒 東経144度23分15.6秒 / 北緯42.983722度 東経144.387667度)との店名で店を出した[21][注 8]。同店では、釧路港で揚がる魚介類も焼いて出すようになった。この釧路の「炉ばた」のメニューを踏襲した形で、日本各地に炉端焼きの店が広がったとされる。
「炉端焼き」の店は、昭和40年代には全国に1万店以上あったと言われる[22]。
現在、「セルフ炉ばた」「セルフ炉端焼き」などと呼ばれる、囲炉裏とそれを囲む座席を提供するだけの店舗も存在する。このような店舗では、食材等は持ち込みであったり、店から買ったりするが、焼くのは客(セルフ形式)である。店舗は常設のものと仮設のものとがあり、バーベキューやセルフのカキ小屋のような形式となっている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 化学肥料が戦前と同等の生産量にまで回復したのは1950年頃。
- ^ 当時の仙台では、調理用のエネルギーとして亜炭・木炭・薪等を使用していた。戦後の都市ガスは石炭不足のため供給が不安定になり、仙台市ガス部(現・仙台市ガス局)が24時間供給可能にまで回復したのは1950年(昭和25年)12月30日。
- ^ 当時の仙台では、公道の一部に陣取り営業する屋台が全盛だった。「仙台市都心部#横丁・屋台」参照。
- ^ 1804年に仙台城下の八幡町(現・青葉区八幡)に創業した日本酒醸造会社で、仙台裸参り(どんと祭)では伝統の裸参りを実施していた。敷地内に「山上清水」(仙台三清水の1つ)と呼ばれた涌き水があった。主要銘柄は仙台を訪問した皇太子(のちの大正天皇)が同社の酒を飲んだことで生まれた「天賞」、そして仙台藩初代藩主・伊達政宗に由来する「獨眼龍政宗」など。2004年、経営不振から創業地を売却し(敷地の多くは複合商業施設「レキシントンプラザ八幡」として再開発され、庭園「天賞苑」は仙台市が買い取って「中島丁公園」として再整備)、翌年に仙台市に隣接する柴田郡川崎町に本社・工場を移転。社名も「まるや天賞」に改称。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で被災したことで会社は存続させるものの、醸造業務は断念し、「天賞」「獨眼龍政宗」の商標権を中勇酒造店(加美町、主要銘柄:「天上夢幻」)に売却、同年6月に酒造免許の取り消し申請をした。川崎町の土地と建物などは、被災した新沢醸造店(大崎市、主要銘柄:「伯楽星」)の部分移転先となった。
- ^ 本名は天江富蔵(生年:1899年、没年:1984年)。仙台市出身。1920年明治大学専門部商業科卒。1921年におてんとさん社を結成した。同社より童謡誌「おてんとさん」を創刊するなど、児童文化活動の指導者として活躍。竹久夢二とも交流があり、「おてんとさん」にも夢二の作品が載っている。また、1924年には仙台市の文化横丁に郷玩店「小芥子洞」を開業し、1928年にこけしを体系的に扱った日本初の文献「こけし這子の話」を上梓して、ブリキのおもちゃに圧されて衰微していた東北限定の玩具・こけしを、全国的に著名な民芸品に押し上げ、大人の収集家を全国に多数生んだ。
- ^ 本櫓丁(Google マップ)は、西端が本材木町(現・木町通)と十字路を形成して元柳町に続き、東端が国分町(現・国分町通)と十字路を形成して虎屋横丁に続く東西道。元柳町より西に行くと仲の瀬橋を渡って大日本帝国陸軍第2師団(江戸時代 : 仙台城二の丸ほか、占領期 : キャンプ・センダイ、現・東北大学川内キャンパス)に繋がり、虎屋横丁より東に行くと仙台駅北側(占領期 : 進駐軍のRTOあり)でX橋(宮城野橋)を越え、仙台駅の東側にある大日本帝国陸軍歩兵第4連隊(占領期 : キャンプ・ファウラー、現・榴岡公園)や東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(占領期 : キャンプ・シンメルフェニヒ、現・仙台駐屯地)に繋がる。本櫓丁は江戸時代には武家屋敷が並んでいたが、明治維新後に料亭や芸者置屋が建ち並ぶようになって、仙台の花柳界の中心地となった(高度経済成長の終焉後に衰退)。1947年には細横丁(現・晩翠通)との角に、東北一の70ミリ映画館・東北劇場(洋画専門の二番館)も開館した(1979年に火災で閉館)。
- ^ 若林区新寺にある曹洞宗寺院。奥州仙臺七福神の1つ。
- ^ 同店の数軒隣に、ザンギの発祥の店と言われている唐揚げ屋「鳥松」が存在する。
出典
[編集]- ^ 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」(NPO法人くらしとバイオプラザ21)
- ^ 歴史とあゆみ (PDF) (釧路市)
- ^ 炉端焼きのご案内!(ゆりあげ港朝市協同組合)
- ^ a b c d e f 心の一齣(島内義行 著、「随筆集 ~ むんつん閑語」、黒潮社)
- ^ “まるや天賞醸造断念 震災で設備損傷 中勇に商標権譲渡”. 河北新報. (2011年7月16日). オリジナルの2011年7月19日時点におけるアーカイブ。 2015年9月14日閲覧。
- ^ 天賞酒造株式会社(地酒を楽しむ会宮城)
- ^ a b vol.2 「河童祭り」を戦後に伝えた天江富弥(仙台市建設局百年の杜推進部 河川課 広瀬川創生室『河水千年の夢 広瀬川ホームページ「広瀬川の記憶」』 2004年9月6日)
- ^ a b 196 天江富弥(あまえとみや)の童謡詩碑(太白区区民部まちづくり推進課内・太白区まちづくり推進協議会「ディスカバーたいはく5号」)
- ^ a b 竹久夢二・詩と絵の世界―愛と、ロマンと、漂泊と(仙台市文学館)
- ^ a b 高橋五郎 著 『癒やしの微笑み 東北こけしの話』 (PDF) (河北新報出版センター 2014年9月発行。ISBN 978-4-87341-327-3) p.2
- ^ 62. こけしの語源と素材 (PDF) (仙台市民図書館「要説 宮城の郷土誌」 p.137)
- ^ a b こけし蒐集家という人達(木人子室)
- ^ 「忘れかけの街・仙台 ~昭和40年頃、そして今~」(河北新報出版センター、2005年4月25日発行。ISBN 4-87341-189-0) pp.36-37
- ^ 「写真帖 追憶の仙台」(無明舎出版、2014年6月10日発行。ISBN 978-4-89544-579-5) pp.44-45
- ^ a b VOL.5 ゆったりと流れる時間に乾杯!(仙台放送「とうほく食文化応援団」 2015年6月24日放送)
- ^ 小正月にちなみ 餅花の思い出(民芸みやぎ 宮城県民藝協会からの折々の便り 2012年1月14日)
- ^ 天才童謡詩人 スズキヘキ 仙台で日本初の童謡専門誌を創った男(東日本放送「ほっとネットとうほく」 2006年1月28日ANN系列東北6社ブロックネット放送)
- ^ 今日の馬込文学 二人の対面 大正14年12月24日(推定)、石川善助、宮沢賢治と会う(DesignroomRUNE「馬込文学マラソン」)
- ^ 「奇人変人御老人」(永六輔 著、文芸春秋 1974年発行)
- ^ 『児童文学事典』電子版(千葉大学アカデミック・リンク・センター)
- ^ 北海道の旅[リンク切れ](ABCテレビ「朝だ!生です旅サラダ」 2014年2月15日放送)
- ^ “元祖 炉ばた”. 『国分町情報館』. 有限会社 国分堂. 2013年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月15日閲覧。
関連項目
[編集]- 国分町 (仙台市)
- 仙台牛タン - 炉端焼きと同時期に同じ仙台で発祥
- 仙台亜炭 - 仙台で都市ガスが発達する前に一般的だった燃料
- 日本の郷土料理
- こけし
- ミス仙台 - 仙台花柳界が歌詞の一部に出てくる
- どんどん焼き
外部リンク
[編集]- 炉端焼きは仙台発祥とする記事 - 『dot.』(朝日新聞出版) 2015-9-13
- 炉端焼きは釧路発祥とする記事 - 『北海道ファンマガジン』(PNG OFFICE) 2008-3-12
- 炉ばた発祥の店「くしろ 炉ばた」 … 釧路発祥を主張する店