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熊本地震 (1889年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊本地震
地震で被災した熊本城
熊本地震 (1889年)の位置(熊本県内)
熊本地震 (1889年)
熊本地震 (1889年)の位置(九州内)
熊本地震 (1889年)
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1889年(明治22年)7月28日
発生時刻 23時45分(JST
震央 日本の旗 日本 熊本県熊本市付近
座標 北緯32度48分 東経130度42分 / 北緯32.8度 東経130.7度 / 32.8; 130.7座標: 北緯32度48分 東経130度42分 / 北緯32.8度 東経130.7度 / 32.8; 130.7[1]
震源の深さ ごく浅い
規模    M6.3
最大震度    震度6:熊本県熊本市
津波 なし
地震の種類 直下型地震
余震
回数 不明
被害
死傷者数 死者20名、負傷者52名、家屋全壊228棟、半壊138棟
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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熊本地震(くまもとじしん)は、1889年(明治22年)7月28日23時45分に発生した、熊本県熊本地方を震源とするM6.3の直下型地震

この地震では、熊本市周辺で被害が発生し、20人が死亡、数百棟が全半壊し、熊本城も大きな被害を受けた[2]

本地震は金峰山南東麓附近を震源としたことから、金峰山地震(きんぼうざんじしん)とも言われており、また2016年(平成28年)4月に同一地域で発生した同名の地震と区別するため、明治熊本地震[3]とも呼ばれる。

意義

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国立科学博物館はそのサイト[2]で、

この地震は地震学会1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして調査が行われ、また、(中略)ドイツポツダム重力計地震波が記録され、遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。(中略、同サイト)に掲げた写真は、地震の被害を写したものとしては、おそらくわが国でもっとも古いものと思われます

と書いている。

庶民の記録

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『防災くまもと資料 恐怖におののいた明治22年の大地震』[4]によると、五野保萬(ごのやすま)は、日記で次のように記している。

7月28日。夜大地震の事。さて、夜11時30分に地震起こり、一時は家も倒れる如く揺れ出し、実に稀なる大地震にて恐怖甚だし。8月4日 今度の大地震の原因は飽田郡金峰山より発せんと、もっぱら風評の談、山噴火の籠り居る由。8月7日、今日も震動一度をなす。今に熊本及近傍の人民は、山鹿町諸方に逃げ、家財を運搬して、身の要心をなす。熊本より山鹿町迄運送する車力人力等の賃銭六円も取り、実に滅法の賃金。(中略)急迫の場合は、やむをえないこと右の如し。(中略)熊本城百閒石垣古より大変ありといえども少しも動くことなし。今度の震動に合う長さ五間余崩落、城内の大なる石垣所々崩れ、依って鎮台兵も城内を出て、山崎練兵場或いは、川尻付近に出張あり。城内には哨兵のみ残しあり。皆28日の震動には鎮台兵死人負傷人多くあり。周章狼狽硝子石垣より落、身を傷くもあり、丁度大砲の音ぞなしずば、又合戦発せしと驚き誤りて死傷せりとぞ。

五野保萬は明治元年(1868年、数え年15歳)から昭和5年(1930年)に77歳で逝去するまで日記を残した。五野家は熊本県菊水町(現:和水町)にある。

官報

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熊本県が発災翌日午前4時40分に発した電報の内容が、官報号外として配布された[5]

脚注

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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