王士珍
王士珍 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1861年7月14日 (清咸豊11年6月7日) |
死去: |
1930年7月1日(68歳没) 中華民国 河北省北平市 |
出身地: | 清・直隷省正定府正定県牛家荘 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王士珍 |
簡体字: | 王士珍 |
拼音: | Wáng Shìzhēn |
ラテン字: | Wang Shih-chen |
注音二式: | Wáng Shìjēn |
和名表記: | おう しちん |
発音転記: | ワン シージェン |
王 士珍(おう しちん)は、清末民初の軍人・政治家。段祺瑞・馮国璋とともに「北洋新軍三傑」と称された人物である。北京政府では国務総理も務めた。字は聘卿。号は冠喬、冠儒。
事跡
[編集]新軍創設の功労者
[編集]医師の家系に生まれた。家庭の窮状から弓馬を習うこととし、1878年(光緒4年)に正定鎮標学兵隊に入学した。その後、山海関に赴任している。1885年(光緒11年)、天津武備学堂に入学して、3年後に優秀な成績で卒業する。山海関に戻って督弁随営砲隊学堂に任命された。[1][2]
1894年(光緒20年)、王士珍は直隷提督葉志超に随って朝鮮に赴任する。日清戦争では、王は平壌防衛戦などで最前線に立つ。王は果敢に日本軍に挑むと同時に、様々な献策や救援要請を行ったが、葉からは尽く拒否された。挙げ句に葉は戦意を喪失して逃亡し、平壌は落城してしまう。王は敗軍を可能な限りまとめて退却した。[3][2]
1895年(光緒21年)12月、袁世凱が天津小站で新軍の編制を開始する。王士珍は督操営務処会弁兼講武堂総教習に任命され、さらに工程営管帯、工兵徳文堂監督も兼任した。王は高い訓練指導力を発揮して成果をあげ、袁から信任を受けるようになった。袁世凱が山東巡撫に任命されると、王は参謀全省軍務となる。また、日本へ軍事訓練の視察に赴いたこともあった。1900年(光緒26年)、王は義和団の乱の鎮圧に従事した。その一方で、王は山東省内の黄河が決壊した際に、工兵隊を率いてその被害を最小限に抑えている。さらに開墾を行って被災地復興にも貢献するなど、民政でも活躍した。[4][2]
1902年(光緒28年)春、保定に北洋軍政司が設置されると、王士珍は総参議に任命された。さらに北洋常備軍が編制されると、王は左翼翼長に任命された。その後も、軍学司正使、軍政司正使、北洋軍第2鎮統制官、第6鎮統制官などを歴任した。この間に、王は北洋常備軍の訓練、規律の整備に尽力している。1906年(光緒32年)冬、王は新設の陸軍部で右侍郎に任命された。翌年、江北提督兼塩漕事務に就任した。[5][2]
北京政府の重鎮
[編集]1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発し、辛亥革命が開始された。一時失脚していた袁世凱が内閣総理として国政に復帰すると、王士珍も陸軍大臣として任用された。しかし、王は清朝への忠誠心が強く、清朝が滅亡すると王は職を退いた。1914年(民国3年)、王は陸軍上将銜を授与され、北京政府に加わる。5月には陸海軍大元帥統率弁事処弁事員(坐弁)、模範団籌備処処長などに就任した。1915年(民国4年)8月、段祺瑞の後任として陸軍総長に就任している。1916年(民国5年)4月23日、参謀部総長に任命され、6月6日の袁世凱死後もその地位にあった。[6][2]
府院の争いでは、王士珍は黎元洪を支持し、対ドイツ宣戦問題でも宣戦反対の立場をとった。1917年(民国6年)5月、黎が段祺瑞を国務総理から罷免すると、王は京畿警備総司令に任命された。李経羲内閣が成立すると、陸軍総長兼参謀部総長となっている。7月、張勲が復辟を行うと、王はこれに参与し、内閣議政大臣、参謀部大臣などに任命された。復辟失敗後は、混乱の責任を取ろうと王は故郷に隠居してしまう。しかし、北京における秩序の維持に貢献したことなどを理由に、段祺瑞から参謀部総長への復帰を許された。[7][2]
まもなく、段祺瑞率いる安徽派と馮国璋率いる直隷派との間で、南方政府(護法軍政府)への方策をめぐり「武力統一」(安徽派)か「和平統一」(直隷派)かの争いが起きる。11月15日、段が国務総理を辞任すると、馮の支持により、30日に王士珍が署理内閣総理となった。しかしその後、安徽派は奉天派と結ぶなどして巻き返し、さらに王内閣打倒を図る。1918年(民国7年)2月20日、王は病気を口実に辞任した。[8][2]
晩年
[編集]1920年(民国9年)12月、王士珍は蘇皖贛三省巡閲使に任命されたが、翌年1月に早くも辞任している。1922年(民国12年)1月、徳威将軍の位を授与された。1925年(民国14年)2月、善後会議議員、軍事整理委員会委員長となっている。晩年の王は、軍事・政治の前線からは退いた。王は京師治安維持会会長などの身分で、北方各派の争いの調停や北京の治安確保、さらには慈善事業などに取り組んでいる。王の活動は、北京を戦禍の被害から免れさせる上で貢献した。1930年(民国19年)7月1日、北平(北京)にて死去。享年70(満68歳)。[9][2]
注
[編集]参考文献
[編集]- 公孫訇「王士珍」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
清
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中華民国(北京政府)
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清(張勲復辟)
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