田口氏
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概要
[編集]江戸時代、常陸国鹿島郡勝下村(現在の茨城県鉾田市の一部)の旗本須田氏知行地の村役人は、田口家一族が担った[1]。
田口家は、常陸江戸氏の旧臣と伝えられる[1]。田口越後を祖とする[1]。越後ののち田口家は、
このうち茂兵衛家は、越後から数えて5代、当主・茂兵衛昌長の代には、持高28石にのぼる田畑・山林を所有していたほか、船2艘・舟子(乗組員)20人による地引網漁の操業にくわえ、塩田における製塩などを行っていた[1][2]。
享保20年3月に鹿島郡一帯の村々が飢饉に見舞われた際、茂兵衛昌長は近郷へ食糧を無利息で貸し与え難をしのいだ[3]。
のち後継者に恵まれず田口茂兵衛家は一時断絶するが、藤田東湖および同村の小沼藤左衛門の働きかけにより、田口秀実が継承することで再興される[4]。
参考文献
[編集]- 旭村史編さん委員会『旭村の歴史 通史編』(旭村教育委員会、1998年)