直世王
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直世王 | |
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続柄 | 清原王の子 |
身位 | 諸王、従三位 |
出生 |
宝亀8年(777年) |
死去 |
承和元年1月4日(834年2月15日) |
配偶者 | 不詳 |
子女 |
助雄王 文室笠科 |
父親 | 清原王 |
母親 | 不詳 |
役職 | 中納言 |
直世王(なおよおう、宝亀8年(777年)[1] - 承和元年1月4日(834年2月15日))は、平安時代前期の皇族。名は真世王、猶世王とも記される[2]。一品・長皇子の後裔。従五位上・清原王の子。官位は従三位・中納言。
経歴
[編集]延暦23年(804年)縫殿大允に任ぜられ、平城朝では大舎人允・内蔵助を歴任する。
弘仁元年(810年)従五位下・内蔵頭に叙任される。弘仁2年(811年)従五位上・中務大輔、弘仁7年(816年)正五位下・蔵人頭、弘仁9年(818年)従四位下・左京大夫と、嵯峨朝では順調に昇進し、弘仁12年(821年)参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。弘仁13年(822年)従四位上。
淳和朝でも引き続き参議に左大弁を兼帯する一方、天長4年(827年)正四位下に叙せられている。天長7年(830年)従三位・中納言兼中務卿に叙任。同年、薬師寺にて毎年法事を開催して、高徳の僧侶を集めて『最勝王経』の講説を行うこと、この法会における論議を諸国の講師・読師に任用するための試験とすることを上奏し、許されている(『薬師寺最勝会』)[3]。また、淳和天皇の勅により『日本後紀』の編纂にも参画した[4]。
天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い兼官が弾正尹に移るが、まもなく中務卿に還任している。承和元年(834年)1月4日薨去。享年58。最終官位は従三位中納言兼中務卿。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 延暦23年(804年) 5月:縫殿大允[5]
- 大同3年(808年) 2月:右大舎人允[5]。8月:大舎人大允[5]
- 大同4年(809年) 5月:内蔵助[5]
- 時期不詳:正六位上
- 大同5年(810年) 正月7日:従五位下。正月24日:内匠頭[5]。9月16日:兼相模守
- 弘仁2年(811年) 6月1日:従五位上、中務大輔
- 弘仁7年(816年) 正月7日:正五位下。3月:蔵人頭[5]。8月:右京大夫
- 弘仁9年(818年) 正月4日:従四位下、兼但馬守[5]。10月15日:左京大夫[5]
- 弘仁12年(821年) 正月9日:参議[5]。正月10日:兼左大弁(左京大夫兼務)[5]
- 弘仁13年(822年) 3月20日:兼近江守[5]。10月1日:従四位上
- 天長3年(826年) 正月21日:越前守[5]
- 天長4年(827年) 正月21日:正四位下
- 天長7年(827年) 6月1日:従三位、中納言[5]。8月4日:兼中務卿[5]
- 天長10年(833年) 3月11日:兼弾正尹。3月24日:兼中務卿
- 承和元年(834年) 正月4日:薨去(中納言従三位兼中務卿)