石川雅望
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石川 雅望(いしかわ まさもち、宝暦3年12月14日〈1754年1月7日〉- 文政13年閏3月24日〈1830年5月16日〉)は、江戸時代後期の狂歌師、国学者、戯作者。本名は糠屋 七兵衛(ぬかや しちべえ)、後に石川 五郎兵衛(いしかわ ごろべえ)に改めた[1]。字は子相、号は六樹園・五老山人・逆旅主人・蛾術斎など[1]。狂名は宿屋 飯盛(やどやの めしもり)。国学方面では石川雅望を名乗った。
生涯
[編集]浮世絵師石川豊信(旅籠屋糟屋七兵衛[2])の五男として、江戸に生まれた[1][3]。少年時代に和学を津村綜庵、漢学を古屋昔陽に学ぶ[1]。狂歌ははじめ岸文笑(頭光)に学び、大田南畝(四方赤良)のもとで学び、文笑らと「伯楽連」を結成する[1]。『俳優風』『徳和歌後万載集』『故混馬鹿集』に入集し、蔦屋重三郎と組んで刊行した『吾妻曲狂歌文庫』(1786年(天明6年)刊、北尾政演画)や『古今狂歌袋』(1787年(天明7年)刊、北尾政演画)、『画本虫撰』(1787年(天明7年)、喜多川歌麿画)などの狂歌絵本の刊行によって、狂歌師の地位を不動のものにする[1]。天明末年には鹿都部真顔・銭屋金埒・頭光とともに狂歌四天王と称されるが、1791年(寛政3年)家業に関する冤罪によって、狂歌界から退く[1]。
1812年(文化9年)に狂歌界へ復帰する間に、古典文学研究や和文章の錬磨に打ち込み、大田南畝主宰「和文の会」に参加したり、狂歌グループ「五側」を結成したりした[1]。復帰後は真顔と狂歌界を二分した[1]。
著作
[編集]狂歌活動のほかに、読本・狂文・和文・国学など多方面に著作を残した。
- 国学
- 『雅言集覧』(雅語用例集)
- 『源註余滴』(『源氏物語』注釈書)など
- 狂歌撰集
- 『万代狂歌集』など
- 和文集
- 『都の手ぶり』 - 江戸の様子を和文で記述した随筆[4]。
- 読本
- 『飛騨匠物語』
- 『近江県物語』など
- 翻刻
- 『しみのすみか物語』珍書会、1915年
- 『都の手ぶり』(『日本随筆大成』第1期第3巻)吉川弘文館、1927年
- 『こがね草』(同第1期第11巻)吉川弘文館、1928年
- 『ねざめのすさび』(同第3期第1巻)吉川弘文館、1929年
- 塚本哲三校『石川雅望集』有朋堂文庫、1934年
- 宿屋飯盛撰・粕谷宏紀校『万代狂歌集』古典文庫、1972年
- 稲田篤信校訂『石川雅望集』(『叢書江戸文庫』)国書刊行会、1993年
- 六樹園作・葛飾北斎画・須永朝彦訳『飛騨匠物語』(『現代語訳江戸の伝奇小説』)国書刊行会、2002年
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 粕谷宏紀「石川雅望」(『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年、67 - 68頁)
関連文献
[編集]- 粕谷宏紀『石川雅望研究』角川書店 1985
- 稲田篤信『江戸小説の世界 秋成と雅望』ぺりかん社 1991