税所敦朝
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時代 | 戦国時代(室町時代後期) - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 慶長13年11月17日(1608年12月24日) |
霊名 | レオ |
主君 | 北郷三久 |
福者 レオ税所七右衛門 | |
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殉教者 | |
生誕 |
室町幕府 日向国都城 (現・ 日本 宮崎県都城市) |
死没 |
江戸幕府 薩摩国(現・ 日本 鹿児島県) |
崇敬する教派 | カトリック教会 |
列福日 | 2008年11月24日 |
列福場所 | 長崎県長崎市 |
列福決定者 | ベネディクト16世 |
税所 敦朝 | |
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教会 | カトリック教会(キリシタン) |
洗礼名 | レオ |
受洗日 | 1608年7月22日 |
税所 敦朝(さいしょ あつとも、永禄12年(1569年) - 慶長13年11月17日(1608年12月24日))は、平佐(現在の鹿児島県薩摩川内市平佐町)領主北郷三久の家臣。通称は七右衛門。レオ税所七右衛門。薩摩国初の殉教者。
経歴
[編集]永禄12年(1569年)、日向国都城生まれ。慶長元年(1596年)、主君である北郷三久の転封に従って平佐へ移住。そこで、パウロ吉右衛門からキリスト教のことを聞き、京泊教会へ行き、1608年7月22日に洗礼を受けレオと名乗る。後に、次男の敦吉も受洗しミカエルと名乗る。当時すでに、北郷氏はキリスト教を禁止していたので、三久はレオに死刑を宣告した。親戚や友人は3日間にわたり棄教を勧めたが、レオはこれを拒否し十字架にかけられることを希望した。結局、十字架ではなく、屋敷前の十字路で斬首され、遺体は京泊教会に埋葬された。翌年、薩摩に宣教師退去命令が出され教会も解体された。レオの遺骨は長崎へ移され、さらにマニラに渡ったが、慶安2年(1649年)の地震により失われた。
列福
[編集]2007年、教皇ベネディクト16世がペトロ岐部と187殉教者の列福を承認し、税所敦朝は福者となった。
参考文献
[編集]- 『都城市史』
- 『ペトロ岐部と一八七殉教者』(2007年 カトリック中央協議会)