稗貫氏
稗貫氏 | |
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二つ引両 | |
本姓 | 称・藤原北家道兼流八田氏流中条氏 |
家祖 | 稗貫為重 |
著名な人物 | 稗貫広忠 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
稗貫氏(ひえぬきし)は、現在の岩手県にあたる陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。稗貫氏の始祖は右大将頼朝に仕え、奥州合戦によって北上川流域の稗貫郡を給されたことに始まるといわれる[1]。
出自
[編集]仙台藩士の稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、仙台藩主伊達氏の始祖である伊達朝宗の四男(三男とも)で駿河伊達氏の祖である伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、小瀬川城に入りその地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まりとされていた(『伊達世臣家譜』)。また、南部藩側の記録としては、「盛岡藩士瀬川氏譜」や「南部史要」など諸説あり、藤原北家流とするのが一般的であるが、後年の資料が多く、稗貫氏の始祖および稗貫郡下向に時期についての定説はない。『遠野南部文書』によると、建武元年(1334年)に「戸賀出羽前司」と「中条出羽司時長」がみえ、稗貫氏が藤原流中条家の分流とされている。
ただし近年では異説が有力となり、武蔵国埼玉郡小野保を本貫地とした御家人の中条氏が祖である[要出典]とされている。治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵で、中条成尋は頼朝に協力し、石橋山の戦いで活躍する。成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。家長は鎌倉幕府の評定衆に登用され、尾張国守護や三河国高橋庄地頭に補せられるなど、幕府で重用された。
沿革
[編集]建武元年(1334年)4月30日の源貞綱状に河村又次郎入道と並んで、戸賀出羽前司が見え、興国2年(1341年)閏4月20日の清顕状に稗貫出羽権守討取のことが見え、鎌倉時代末期には史上に現れている[2]。
南北朝時代では南朝方として活躍した。しかしやがて北畠顕家の死後には北朝方として派遣された奥州探題の斯波氏に与したため、興国元年(1340年)に南朝方の南部政長に攻められて、興国2年(1341年)には壊滅的打撃を受けて衰退した。
南北朝時代が終わっても南部氏との抗争はとどまらず、永享7年(1435年)和賀の大乱で和賀氏支族・須々孫氏方に味方し和賀惣領家の飯豊城を落したところ、惣領家方についた南部守行が子・義政に3万近い大軍で参戦させて稗貫郡で大合戦となった。翌永享8年(1436年)2月、南部軍は稗貫領寺林城、台城を落とし、つづいて当時の稗貫氏本城・十八ヶ城(さかりがじょう、瀬川城の説もあり)を包囲、ついに5月稗貫勢は南部氏配下になることで和議を結んだ。
室町期に奥州探題大崎家の傘下に入り、伊達、葛西、南部、その次位の留守、白河、蘆名、岩城に次ぐ位置で処遇されている。天文24年(1555年)には、時の当主である稗貫輝時(てるとき、輝家(てるいえ)、輝忠(てるただ)とも)は、上洛して将軍の足利義輝と謁見、義輝に黄金10両を献上し、偏諱(「輝」の字)を授与されている。
戦国期に関しての稗貫氏の動向は定かではないが、主家としての地位を確立することが出来ないまま、戦国大名として成長することはできず、稗貫郡を支配するだけの国人領主的存在だったようである。郡主稗貫氏としての歴代は諸書において錯綜を見せている。
16世紀になると、南下政策の三戸南部氏へ対抗して衝突を繰り返した、紫波地方を領する高水寺斯波氏を、和賀氏と結束して支援した。天正14年(1586年)夏、斯波氏の女婿高田康実(南部一族・九戸政実の弟)が三戸南部氏当主・南部信直に降ったことにより斯波詮真が南部領へ攻め入ったが南部勢に逆襲され、斯波方は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失った。稗貫氏立ち会いの下で一旦は斯波氏と南部氏の和睦がなったが、天正16年(1588年)南部信直は再び斯波氏攻略の軍を起こし、斯波詮真は居城・高水寺城を捨てて逃れ、高水寺斯波氏は滅亡した。
このように北奥で稗貫氏ら領主、大名が領土をめぐって戦いを繰り返していたころ、中央では羽柴秀吉が織田信長死後の一連の抗争を制して天下統一へと大きく前進をしていた。この時代の変転に、やがて奥羽の諸大名も否応なしに巻き込まれることとなる。
終焉
[編集]戦国時代の稗貫氏は養子当主が相次いでおり、それが他家の介入を招いて衰退する一因をなしたものと思われる(稗貫晴家は葛西宗清の子と伝わり、輝時は奥州斯波氏の出身と伝わる)。
天文24年(1555年)、輝時は家臣五人と共に自身が上洛して室町幕府将軍足利義輝に黄金10両を献上した。この際に義輝の偏諱を賜って「稗貫輝時」と名乗った。室町幕府の名族である斯波氏出身の当主が自ら都に赴き、将軍に面会と献上を行い、一字拝領する行動は、稗貫氏および養子である自分自身の権威付けの一環であったと推測される。[3]上洛の際に伴った家臣に、十二丁目城主の十二丁目下野守(十二丁目氏)がいる。権威付けの成果なく、数年後の永禄年間には大迫城主の大迫氏が主家の稗貫氏に反乱し、十二丁目裕光らが追討するも裕光は戦死し、裕光の子である十二丁目佐渡守兄弟が大迫氏と戦った。
稗貫氏の領主としては最後の当主である稗貫広忠(家法・重綱)はやはり養子当主で和賀義忠の子もしくは実兄である(和賀氏は中条家長の弟・苅田義季の子・和賀義行より始まる)。広忠は斯波氏と南部氏の間の和睦を成立させるなど[4]、一定の存在感を示すものの、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により、小田原征伐の際に参陣しなかったことを理由に所領を没収され、領主としての稗貫氏は滅亡した。
天正19年(1591年)、広忠は実家の和賀義忠と共に豊臣氏体勢に対して反乱を起こし、和賀義忠の居城だった二子城を奪回し、広忠のかつての居城の鳥谷ヶ崎城を包囲、落城寸前まで奮戦したが、秀吉の命令を受けた奥州鎮定軍に攻められて和賀義忠は戦死し、広忠は逃亡して程なくして死去したと伝わる(和賀・稗貫一揆)。鳥谷ヶ崎城一帯は南部氏のものとされ、南部信直が派遣した北秀愛により、城は花巻城と改名された。
広忠の没後、その娘(元正室の説あり)・於三は出家し月庵尼と称したが、稗貫家を再興すべく三戸城を訪れ、思惑通り南部信直に見初められて還俗し、稗貫御前と呼ばれる側室になったが稗貫家再興の夢は成就しなかった。
江戸時代、稗貫氏の末裔は仙台藩士として仕えたとされるが、稗貫氏は事跡や系図、その末裔に関してなど全てにおいて曖昧な点が多々あり、確たる資料の発見および研究が待たれるところである。
系図
[編集]『伊達世臣家譜』参考。『槻木稗貫系図』という種類の系図もある。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。
- 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年。ISBN 4-04-001030-2。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。