蔣介卿
蔣 介卿 蔣 介卿 | |
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生年月日 | 1874年1月3日 |
出生地 |
清 浙江省寧波府奉化県渓口鎮 (現:寧波市奉化区渓口鎮) |
没年月日 | 1936年12月27日(62歳没) |
死没地 | 中華民国 浙江省奉化県 |
出身校 | 寧波四明専科学校 |
蔣 介卿 | |
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職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔣 介卿 |
簡体字: | 蒋 介卿 |
ラテン字: | Jiang Jieqing |
和名表記: | しょう かいきょう |
蔣 介卿(しょう かいきょう、1874年1月3日〈同治13年11月26日〉 - 1936年〈民国25年〉12月27日)は、中華民国の政治家。曽任法官、県長、海関監督、浙江省政府委員などを歴任した。蔣介石の異母兄である。介卿は字で、名は錫侯。号は蕭緒または前安。
生涯
[編集]蔣介卿は蔣肇聡の長男として1875年(同治13年)に生まれた。母の徐氏は奉化県白岩村出身である[1]。
蔣肇聡の兄の蔣肇餘が19歳で伝染病により亡くなったため、蔣介卿が養子となって家を継ぐことになった[1]。
末弟の蔣瑞青が2歳で亡くなると、蔣介卿は唆されて蔣瑞青の遺産を分配しようと継母の王采玉を訴えると脅迫したが、失敗した[2]。
寧波四明専科学校学法政科を卒業し、台州地方法院推事、広州地方審判庁推事を務めた[3]。1921年(民国9年)、蔣介卿は広東省公署政務庁長での古応芬の推薦で文昌県長に就任し、後に英徳県長に推挙された。就任後、汚職に関係していたことにより理由に解任された[3]。 1928年(民国17年)5月、浙江海関監督に任命され、後に浙江省政府委員に任命された[3]。後に辞職して帰郷し、銭荘を立ち上げた[4]。
1936年(民国25年)12月27日、蔣介卿は渓口の武山廟で芝居を見ていたが、蔣介石が張学良によって監禁された西安事件の知らせを聞いた後に脳卒中を起こして死去した[3][5]。蔣介石はまだ西安で足止めされていたため、一族は遺体を棺に入れて家に保管しておいた。1937年(民国26年)1月、蔣介石は腰痛の療養のため帰郷したが、まだ蔣介卿の葬儀を保留するよう指示した。同年4月、蔣介石は再び帰郷し、蔣介卿の葬儀を行った[5]。葬儀は4月14日に行われ、林森、居正、閻錫山、馮玉祥、何応欽、兪飛鵬、朱家驊などの中国国民党の要人が弔問に訪れた。渓口の街は車で混雑したため、武嶺学校の生徒が総動員され、秩序を維持するために通りで見張りをした[3]。
家族
[編集]蔣介卿は最初の妻である孫氏との間に一男(蔣国秉)を儲けた。蔣国秉は上海の中山学校と日本の士官学校を卒業した後陸軍第88師団少校参謀、中校団附屬官、江西第4区行政公署参議などを歴任した[3]。蔣介卿は家族の紹介で孫氏と結婚したが、すぐに離婚した。のちに蔣介卿は孫益甫の次女の孫薇美と結婚し、一男(蔣孝倫)四女(蔣静娟、蔣志倫、蔣環倫、蔣明倫)を儲けた[3]。
継室の単氏との間にも一女(蔣華秀)を儲けた。蔣華秀は浙江大学経済系を卒業後、李宗仁の紹介で桂系の白崇禧の甥である韋永成と結婚した[3]。韋永成は日中戦争中に安徽省財政庁長を務め、国共内戦期には中華民国政府に従って台湾へ渡った。華秀一家はしばしば蔣介石一族の集まりに招かれたが、韋永成が桂系に加わって以来、蔣介石は韋永成との接触が少なくなった[3]。
蔣介石による蔣介卿に関する言及
[編集]蔣介石は異母兄の蔣介卿にあまり良い印象を抱いていなかった。『蔣介石日記』には何度か蔣介卿に関する内容が出てくる。蔣介卿の汚職についても「兄は英徳県長任期中、6000元の公金を借りていた。 彼の会計士は、新しい県長に拘束された」という記録が残されている。
1933年(民国22年)11月12日、蔣介石は「私が国の責任者となった以上、良い手本を示すために規則に従って賃金を支払わなければなりません」と電報を打った[3]。
1934年(民国23年)3月31日には「清明節は墓参りには帰省できない」と電報を打った[3]。
1935年(民国24年)12月2日には「家に高麗人参を送りました。お大事に静養なさって下さい。」と電報を打った[3]。
家系図
[編集]蔣肇聡 | 王采玉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔣介卿 | 蔣介石 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
毛福梅 | 姚冶誠 | 陳潔如 | 宋美齢 | 戴季陶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔣方良 | 蔣経国 | 章亜若 | 蔣緯国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔣孝文 | 蔣孝章 | 蔣孝武 | 蔣孝勇 | 方智怡 | 章孝慈 | 蔣孝厳 | 黄美倫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
林姮怡 | 蔣友柏 | 蔣友常 | 蔣友青 | 蔣蕙蘭 | 蔣蕙筠 | 蔣万安 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 凤凰网 (12月14日). “蒋介石哥哥鱼肉乡里:麻将打输了不给钱还骂人” (中国語). 奉化新闻网. 2012年1月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 汪朝光、王奇生、金以林 (2012). 《天下得失:蔣介石的人生》. 香港: 中和出版
- ^ a b c d e f g h i j k l 呂芳上策劃,王奇生、汪朝光、邵銘煌、林桶法、金以林、黃道炫、楊維真、劉維開、羅敏著 (2011-03-18). 《蔣介石的親情、友情與愛情》. 台北: 時報文化
- ^ 崔晓忠. “《青年蒋介石:一代枭雄的成长史》 先祖、父亲和兄弟姐妹(2)”. 搜狐读书,出版社:华文出版社. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月30日閲覧。
- ^ a b 陳-{布}-雷等編著 (1978-06-01). 《蔣介石先生年表》. 台北: 傳記文學出版社