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藤原基頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 基頼
時代 平安時代後期
生誕 長久元年(1040年
死没 保安3年5月27日1122年7月2日
官位 正五位下能登守
主君 堀河天皇鳥羽天皇
氏族 藤原北家中御門流持明院家
父母 父:藤原俊家、母:源為弘の娘
兄弟 基頼寛慶宗俊師兼基俊全子宗通、堀川殿、俊範、寛澄、済観
正室:藤原国仲の娘
通基俊保、覚基、女子
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藤原 基頼(ふじわら の もとより)は、平安時代後期の公家藤原北家中御門流右大臣藤原俊家の長男。官位正五位下能登守持明院家の祖。

経歴

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白河院政期前期に15年以上に亘って中務少輔を務める。康和5年(1103年)に陸奥守に任じられ、翌康和6年(1104年)には鎮守府将軍を兼ねた。天永2年(1111年)頃には東北の蝦夷を討っている。そのほか、越前守常陸介能登守など受領を歴任した。

現在の京都市上京区に邸宅を構え、邸内に持仏堂を営んでこれを持明院と名付けたため、基頼の子孫は持明院家を称している。

人物

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右大臣藤原俊家の庶長子に生まれたが、といった武芸を好み、武人としても活躍した[1]

官歴

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系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』に「嗜弓馬好鷹犬、達武略」とある。
  2. ^ a b c 『尊卑分脈』
  3. ^ 『本朝続文粋』巻2
  4. ^ a b c d e 『中右記』
  5. ^ a b 『殿暦』
  6. ^ 11月に高階経敏が任官(『大間成文抄』第10上)
  7. ^ 『中右記』康和5年10月15日条

参考文献

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先代
持明院家
初代
次代
藤原通基