藤原基頼
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長久元年(1040年) |
死没 | 保安3年5月27日(1122年7月2日) |
官位 | 正五位下、能登守 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流持明院家 |
父母 | 父:藤原俊家、母:源為弘の娘 |
兄弟 | 基頼、寛慶、宗俊、師兼、基俊、全子、宗通、堀川殿、俊範、寛澄、済観 |
妻 | 正室:藤原国仲の娘 |
子 | 通基、俊保、覚基、女子 |
藤原 基頼(ふじわら の もとより)は、平安時代後期の公家。藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の長男。官位は正五位下・能登守。持明院家の祖。
経歴
[編集]白河院政期前期に15年以上に亘って中務少輔を務める。康和5年(1103年)に陸奥守に任じられ、翌康和6年(1104年)には鎮守府将軍を兼ねた。天永2年(1111年)頃には東北の蝦夷を討っている。そのほか、越前守・常陸介・能登守など受領を歴任した。
現在の京都市上京区に邸宅を構え、邸内に持仏堂を営んでこれを持明院と名付けたため、基頼の子孫は持明院家を称している。
人物
[編集]右大臣・藤原俊家の庶長子に生まれたが、弓や馬・鷹・犬といった武芸を好み、武人としても活躍した[1]。
官歴
[編集]- 時期不詳:越前守[2]。常陸介[2]
- 応徳3年(1086年) 12月2日:見中務少輔従五位上[3]
- 康和5年(1103年) 10月15日:見中務少輔[4]。11月1日:陸奥守(神社功)[4]
- 康和6年(1104年) 5月2日:兼鎮守府将軍[4]
- 天仁元年(1108年) 12月30日:陸奥守(重任)[4]
- 天仁2年(1109年) 12月6日:正五位下[5]
- 永久元年(1113年) 閏3月24日:見能登守[5]
- 元永2年(1119年) 7月10日:見能登守[4]。日付不詳:辞能登守[6]
- 保安3年(1122年) 5月27日:卒去[2]
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
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