近藤荒樹
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近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月6日 - 昭和61年(1986年)6月11日)は日本の実業家、相場師。元近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。
経歴
[編集]広島県賀茂郡西志和村(現在の東広島市)に近藤喜太郎の三男として生まれた。
1906年に上京し陸軍大将の福島安正の書生となり、旧制成城中学校を経て、1913年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社に入社し、鉱山部に勤務。
1922年に三菱合資会社を退社し、退職金6000円を元手に近藤荒樹営業所を開設。金融業、不動産業、株式投資を行うようになる。
関東大震災後に国立の土地を、坪3、4円で35万坪買い、世界恐慌直前に坪40円前後で売り大きな利益を得、その金で鐘紡の個人筆頭株主となる[2]。
相場で大敗したのち、1946年近藤商事を設立し、再び不動産投資及び株投資を行うようになる。1957年には長者番付6位となった[3]。如水会常務理事等も務めた。墓所は多磨霊園(5-1-19)
人物像
[編集]近藤は、いわゆる「庶民金融」の草分けで、池田勇人(元首相)が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[4]。池田の長女直子と荒一郎の結婚は昭和33年(1958年)1月[4]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[4]。
趣味はテニスで、一橋庭球倶楽部初代会長、日本庭球協会顧問、日本テニスクラブ理事長を務めた。一橋庭球倶楽部が戦災で活動が停滞していた中、'56一橋庭球倶楽部初代会長となり、テニス部のクラブハウスをポケットマネーで建立し、テニスコート(クレイコート)4面も寄付している。