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野村泰治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のむら たいじ
野村 泰治
プロフィール
出身地 日本の旗 東京都
生年月日 (1922-11-20) 1922年11月20日
没年月日 (2002-08-04) 2002年8月4日(79歳没)
最終学歴 中央大学法学部
勤務局 NHK東京東京放送
活動期間 1946年 - 1988年
ジャンル 報道番組
出演番組・活動
出演経歴 それは私です
スタジオ102
連想ゲーム
(以上NHK総合
3時にあいましょう
TBSテレビ
備考
1975年3月にNHK退職後、TBSテレビに局契約社員として移籍

野村 泰治(のむら たいじ、1922年大正11年〉11月20日 - 2002年平成14年〉8月4日)は、日本放送協会(NHK)、及び東京放送TBSテレビ = 局契約アナウンサー

略歴

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中央大学法学部在学中の1943年(昭和18年)12月学徒出陣海軍に入る。第14期予備学生1944年(昭和19年)、第六五三海軍航空隊戦闘一六六飛行隊付。捷一号作戦で空母「瑞鶴」に配乗し、比島沖海戦に参加。3時間半の漂流後に救助。上海中支空で終戦。海軍中尉復員

1946年(昭和21年)に中央大学を卒業、NHKに入局。戦後初のアナウンサーとなり、プロ野球中継を担当。1964年東京オリンピックの総合司会や『それは私です』『スタジオ102』『連想ゲーム』などの司会も務めた。

「現場にこだわりたい」との理由で、定年まで3年10か月を残しNHKを退職[1]。最終ポストはアナウンス室チーフアナウンサー主幹(局長待遇)で、退職当時全国のアナウンサー600人中上から4番目のポストだった[1]。フリーに転向した直後にTBSと局契約(嘱託社員)を結んで[1]、『3時にあいましょう』の司会を1975年(昭和50年)から1988年(昭和63年)まで13年間務めた。

2002年(平成14年)8月4日20時51分、肺炎のために神奈川県横浜市内の病院で死去した。享年79。笑い顔が遺影であった。

出演番組

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著書

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脚注

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  1. ^ a b c 日刊スポーツ・訃報・野村泰治さん”. web.archive.org (2003年2月6日). 2020年3月17日閲覧。

外部リンク

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