金丸三郎
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金丸 三郎 かねまる さぶろう | |
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生年月日 | 1914年2月8日 |
出生地 | 日本鹿児島県 |
没年月日 | 2007年8月15日(93歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
前職 | 自治事務次官 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
勲一等瑞宝章 法学士(東京帝国大学) |
第6代 総務庁長官 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
選挙区 | 鹿児島地方区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1977年7月29日 - 1989年7月28日 |
公選第6-8代 鹿児島県知事 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1967年4月30日 - 1977年2月3日 |
金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8日 - 2007年(平成19年)8月15日)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官、鹿児島県知事、自由民主党参議院議員、総務庁長官、参議院協会会長、財団法人井上育英会顧問を務めた。
位階は従三位。勲等は勲一等瑞宝章。学位は法学士(東京大学)。称号は特定非営利活動法人日本居合道連盟名誉範士。
来歴・人物
[編集]鹿児島県出水市出身[1]。鹿児島県立第一鹿児島中学校(のち鹿児島県立鶴丸高等学校)、第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)を経て、東京帝国大学(のち東京大学)法学部卒業後の1938年(昭和13年)、内務省入省(地方局配属[2])。長官官房長、税務局長、鹿児島県副知事を経て自治事務次官。1967年(昭和42年)4月から鹿児島県知事、1977年(昭和52年)3月に鎌田要人に交代するまで連続3期鹿児島県知事の任にあった。1973年(昭和48年)に始まった鹿児島県での「白黒論争」(鹿児島県の養豚の是非を問う論争で、当初は県庁内部の論争だったのが、瞬く間に県内全体に広がって農家・非農家の区別を超えて3、4年続いた)では、黒豚を残す決断をしている。
その後、国政に場を変え1977年(昭和52年)、鹿児島地方区から参院選に初当選。1989年(平成元年)に引退するまで当選2回。1988年(昭和63年)12月27日から1989年(平成元年)6月3日まで竹下改造内閣の総務庁長官を務めた。
2007年(平成19年)8月15日、老衰のため死去。享年93歳。叙従三位。
著書
[編集]- 『實例判例挿入地方自治法講義』(鈴木俊一との共著(講述)) 1947年 東光出版社
- 『新選挙制度論』 1966年 政経書院
- 『美意延年』 1974年 南日本新聞出版印刷/刊行 春苑堂書店/発売
- ほか多数
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ MBCアーカイブ あの日のふるさと 2020年放送 戦後の鹿児島県知事②金丸三郎知事(紹介ページ)(南日本放送)2024年1月2日閲覧。
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、324頁
- ^ 「秋の叙勲 受章者4492人 隠れた功労積み重ねた人にも光」『読売新聞』1989年11月3日朝刊
議会 | ||
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先代 大河原太一郎 |
参議院地方行政委員長 1984年 - 1985年 |
次代 増岡康治 |
先代 斎藤十朗 |
参議院商工委員長 1980年 - 1981年 |
次代 降矢敬雄 |
公職 | ||
先代 高鳥修 |
総務庁長官 第6代:1988年 - 1989年 |
次代 池田行彦 |
先代 寺園勝志 |
鹿児島県知事 公選第6-8代:1967年 - 1977年 |
次代 鎌田要人 |
先代 奥野誠亮 |
自治事務次官 1963年 - 1966年 |
次代 柴田護 |