長谷川国利
東海大学硬式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都江東区 |
生年月日 | 1962年5月26日(62歳) |
身長 体重 |
182 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト4位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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長谷川 国利(はせがわ くにとし、1962年5月26日 - )は、東京都江東区出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。2024年から東海大学硬式野球部の監督を務める[1]。
来歴
[編集]プロ入り前
[編集]東海大相模高では右翼手、4番打者として活躍。1979年秋季関東大会に進むが1回戦で君津商に惜敗。翌1980年春季関東大会は決勝に進出するが愛甲猛のいた横浜高に敗退。同年夏の甲子園県予選でも有力視されたが、3回戦の三浦高との試合中に不祥事があり、以後の出場を辞退した[2]。高校同期に中堅手の宮下正彦がいる。
高校卒業後は東海大学に進学し、原貢の指導を受ける[1]。首都大学野球リーグでは在学中に4回優勝。1年上のエース高野光を擁し、1983年の明治神宮野球大会では決勝で駒大を破り優勝した。しかし4年生時の1984年は園川一美のいた日体大に圧倒され、春秋季連続優勝を許す。31試合連続安打[1]のリーグ記録を樹立した。3年春・最優秀選手、ベストナイン2回。
横浜大洋時代
[編集]1984年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから4位指名を受け入団[1]。その打撃力と強肩を高く評価され松原誠の背番号25を受け継ぐなど期待された。
しかし、故障が相次ぎ一軍出場のないまま1990年限りで現役を引退。
引退後
[編集]引退後はスコアラーに転身し、その後スカウトに就任。チーフスカウト[1]として木塚敦志を獲得するなど活躍していたが2002年に東海大学の人脈を活かして久保裕也を獲得する予定が、フロントがチーフの長谷川に無断で獲得を断ったり、その他にも球団フロントとの対立などがあり同年夏に退団した。このため横浜球団と東海大学は疎遠になり、前年に指名した小田嶋正邦を最後に東海大学在籍の選手を指名していなかった[要出典][注 1]。
2003年からは読売ジャイアンツの職員となり、スカウト部長や、2020年4月から編成本部付部長を務めた[3][4]。スカウト時代に獲得に尽力した主な選手には菅野智之や長野久義などがいる[1]。
指導者時代
[編集]2022年11月23日、2023年から本格的に始動する読売ジャイアンツ女子チームの助監督就任が発表された[5][3]。背番号は「83」。同年限りで退団。
人物
[編集]指導者として 性格は温厚で野球に対して今でも情熱を絶やさない[1]。スカウティングの経験などもあり、アマチュア野球とも幅広く関わりを持っている[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 25(1985年 - 1990年)
- 指導者時代
- 83(2023年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし、2012年8月と2013年の8月に横浜DeNAベイスターズと東海大学のオープン戦が行われ、2016年には東海大学札幌キャンパスから水野滉也を指名した。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i “【大学野球】東海大監督にOBの元巨人スカウト部長・長谷川国利氏が就任へ 巨人女子チーム助監督から転身”. スポーツ報知 (2023年10月22日). 2023年11月26日閲覧。
- ^ “米子松蔭はセーフ…高校最後の夏が消えた…「夏の甲子園」波紋を呼んだ“出場辞退”三大事件(全文)”. デイリー新潮 (2021年7月23日). 2024年1月20日閲覧。
- ^ a b “【巨人】女子硬式野球チーム監督に宮本和知氏、コーチは松本哲也氏、佐藤弘祐氏、助監督に長谷川国利氏”. スポーツ報知 (2022年11月23日). 2022年11月24日閲覧。
- ^ “巨人が大幅配置転換 水野コーチがスカウト兼務、長谷川国利氏が編成本部付部長に”. デイリースポーツ (2020年4月2日). 2023年11月26日閲覧。
- ^ “読売ジャイアンツ女子チームの新入団選手、監督らを発表”. 読売巨人軍 (2022年11月23日). 2022年11月24日閲覧。
- ^ “東海大が新体制で始動 長谷川国利新監督に原巨人前監督からエール「身がしまる思い。優勝目指す」”. 日刊スポーツ (2024年1月12日). 2024年1月20日閲覧。