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青塚恒治

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青塚恒治

青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年明治18年)12月21日[1] - 1958年昭和33年)7月15日[1])は、大正から昭和時代前期の政治家山形県酒田市長

経歴

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地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる[1]。生家は代々金物屋を営んだ[1]荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句漢詩を嗜んだ[1]1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した[1]1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが[1]、間もなく公職追放となった[2][注 1]

のち初代監査委員に就任した[1]。墓所は酒田安祥寺の脇寺雲照寺[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛壮年団酒田支部団長」、「大政翼賛会山形県協力会議長」。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 庄内人名辞典刊行会 1986, 98頁.
  2. ^ 総理庁官房監査課 1949, 一般該当者名簿 21頁.

参考文献

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