馬超
馬超 | |
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蜀漢 驃騎将軍・涼州牧・斄郷侯 | |
出生 |
熹平5年(176年) 右扶風茂陵県 |
死去 | 章武2年(222年) |
拼音 | Mǎ Chāo |
字 | 孟起 |
諡号 | 威侯 |
主君 | 馬騰 → 独立勢力 → 張魯 → 劉備 |
氏族 | 扶風馬氏 |
馬 超(ば ちょう、熹平5年〈176年〉 - 章武2年〈222年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷右扶風茂陵県の人。
関中・隴右[注釈 1]に割拠する群雄として曹操の西征に反発し[4]、韓遂ら諸軍閥と共に造反したが、敗北した[5]。後に涼州において捲土重来を果たすも[6]、現地の士大夫らに離反され、拠点を失った[7]。流浪の末に身を寄せた劉備の下で厚遇された[8]。
羌族の血を引き、非漢族と深い関係があった[9]。後漢末期において、「羌胡化」を経て台頭した涼州軍閥の一人とも見なされている(→「背景」を参照)。
生涯
[編集]出自
[編集]後漢の名将馬援の後裔[10][11]。扶風馬氏の右扶風茂陵県という本貫は、父の馬騰、祖父の馬平にも共通するものである[12][13]。しかし馬平は桓帝の時代に天水郡蘭干県で県尉を務め、失官後は隴西郡に留まって羌族と雑居し、貧窮の中、現地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた[11][14][15]。当地における豪族的基盤を持たず[16]、鄣山で樵として生計を立てていた馬騰は[17]、中平元年(184年)、先零羌(羌族の一種族)、宋建・王国、湟中義従胡(漢に帰順した異民族)の北宮伯玉・李文侯および漢族の辺章・韓遂による大反乱に際して[18]、州郡の討伐兵募集に応じた[11][19]。ところが中平4年(187年)には、当時の涼州刺史である耿鄙の下で司馬を務めていながら、韓遂による耿鄙殺害に乗じて反乱し、三輔寇掠に加担した[20][21]。このように、馬騰の生育地が隴西だったことから、その子である馬超を実質的に涼州人とする見方がある[22][注釈 2]。
若き日
[編集]初平元年(190年)、献帝を擁立し朝廷で専横を振るっていた董卓は、長安に遷都すると、関東諸将による反董卓連合軍に対抗する戦力として馬騰・韓遂を招いた[17]。両者はそれに従ったが、初平3年(192年)に董卓が暗殺されたため、その部将である李傕に投降し[25]、馬騰は征西将軍となって郿県に駐屯した[26][27]。興平元年(194年)、李傕との関係が悪化した馬騰は長安襲撃を図ったものの[28]、企図が露見し、争いに敗れて涼州に帰還した[29][30][31]。
馬騰は義兄弟として韓遂と友好関係にあったが、建安初期には衝突するようになり[32][注釈 3]、同時に隴右から関中へと進出した[35]。魚豢『魏略』によれば、馬超は当時から勇健で知られていた。韓遂麾下の閻行が馬超を矛で刺そうとした際、矛が折れたが、その折れた矛で首筋を殴られた馬超は、あやうく命を落としかけたという[36][37]。その後、曹操と袁紹の対立が激化する中、関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉の鍾繇が、涼州牧の韋端[注釈 4]と共に仲裁役となって説得したため、馬騰と韓遂は和解したものの[11][41]、確執は残っていた[42]。この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質として入朝し[43][44]、また馬騰は槐里に進駐した[11][45][注釈 5]。
建安5年(200年)の官渡の戦いが終結した後の建安7年(202年)、袁紹の末子である袁尚が派遣した高幹・郭援は、平陽で反乱していた南匈奴の単于である呼廚泉と合流し、数万の軍勢をもって河東に侵攻した[47][48]。当時、曹操は袁紹の残党勢力と交戦しており、傍観する関中の諸勢力を味方に引き入れようとしていた[49]。馬騰は密かに郭援らと手を結んでいたが、説得されて転向すると、馬超を1万余りの兵と共に鍾繇の下へ派遣した[47][48][50]。馬騰の下で実働部隊を率いる立場にあった馬超は[51]、司隷校尉である鍾繇の督軍従事に任命され、平陽において龐徳らと共に郭援らと戦った[11][27]。馬超は戦場で足に矢を受けたが、矢傷を袋に包んでなおも戦い続け[52]、敵軍を大破した[11][47][44][53][注釈 6]。その功績から、詔勅により徐州刺史を、後に諫議大夫を拝命した[11][56][注釈 7]。
建安13年(208年)、丞相となった曹操はまず馬超を辟召したが[57]、馬超は応じなかった[11][58][注釈 8]。辟召という制度には、独特の私的主従関係を構築する働きがあった[60]。福井重雅によれば、曹操は社会的・軍事的資本のない状況の中、ほぼ自力で台頭したことも影響して、己の勢力基盤を拡大強化すべく、拘束性の強い辟召を大いに活用したという[61]。またここでは、馬超を人質とする意図も含まれていた[58]。当時、荊州への南下を遂行するに及び、曹操は北方に割拠する馬騰勢力を抑えることで、後顧の憂いを断つ必要があった[62]。馬騰は反乱鎮圧の援助により曹操に与する姿勢を見せていたが[63]、曹操は馬騰に対する懸念をなおも拭えず、部曲を解散しての入朝を求めた[64]。馬騰は張既の説得を経て承諾したものの、実行せずにいた。変心を恐れた張既の手配によって、馬騰はやむを得ず入朝に踏み切り、同年12月[65][66]、衛尉となった[67][47]。馬超は偏将軍に任じられるとともに都亭侯に封じられ、馬騰に代わり軍勢を統率した[27][68]。森本淳によれば、偏将軍への任命は、馬超が曹操軍の属将としてその傘下に置かれたことを示すという[40][69]。弟の馬休・馬鉄にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党が鄴に移住した。これにより、馬超の宗族は事実上曹操の質任となった[70][注釈 9]。父から継いだ部曲とともに、馬超は領地に留まった[11][73]。関隴地区の中心勢力は二極化し、韓遂・馬超がその主となった[74]。
潼関の戦い
[編集]建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵に命じて漢中の張魯を討伐しようとした[75]。中国学者のレイフ・ド・クレスピニーによれば、馬超ら西方諸将は鍾繇を洛陽まで押し戻し、無秩序な独立体制を再建していたという[76]。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げていたものの、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりだった[77][78]。高柔は「みだりに兵を動かせば、西方の韓遂・馬超は自分たちが目標であると考え、共に扇動して反逆するでしょう。先に三輔を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた[79][80]。曹操が荀彧を介して衛覬に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は山深くにいて交通の便が悪いため、西方の諸将は必ず疑うでしょう。一旦騒動が起きれば、西方の地は険しく兵は強いため、当然困難が生じます」と答え、出兵に反対した[81]。事実、関隴に敷かれた統制は万全とは言えなかった[82]。曹操は衛覬の意見を認めたが、最終的には鍾繇の策に従った[78][83]。曹操はこの時、仮道滅虢の計をとったともされる[84][注釈 10]。馬超・韓遂はいずれも朝廷から官職を授かった身分であり、謀反の嫌疑も存在しないからには、曹操は彼らを征伐する大義名分を立てられないが、馬超らが先んじて反乱すれば、関隴攻撃を正当化できるためである[87]。
関西諸将は曹操の動向に疑念を抱いた[88]。韓遂は建安15年(210年)より、張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが[89][90]、飯田祥子によれば、曹操政権は韓遂を利用する傍ら、馬超にも働きかけることで、両者を互いに反目させようと工作していたものと見られる[91]。『魏略』においては、馬超は遠征から戻った韓遂を都督に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を殺すよう命じました。関東の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語ったとされる[92]。かつて父を入朝させ、韓遂にも勧降していた閻行は[93]、反乱に参加しないよう韓遂を諫めたものの、韓遂は「諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調したという[37]。
馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らに加え、侯選・程銀・張横・梁興・馬玩らあわせて10の軍閥が挙兵すると[11][62]、杜畿が太守を務める河東を除き[94]、弘農[注釈 11]・左馮翊の郡県までもが相次いで呼応した[99][100]。さらに百頃氐王の千万[注釈 12]と興国氐王の阿貴が、馬超に従い反乱を起こした[103][104]。藍田の劉雄鳴は反乱に従わなかったために馬超によって撃破され、曹操の下へ逃亡した[37][105][106][注釈 13]。また馬超は京兆の学者である賈洪を脅し、露布(布告文・檄文[111])を起草させた[112][113]。馬超の乱に応じて、数万家に及ぶ関西の住民が子午谷を経て漢中に逃れた[12][114][注釈 14]。三輔の人口は初平3年(192年)の李傕・郭汜の乱で一度激減し[116]、次第に回復しつつあったが、この大乱により再び大幅に流出した[117]。馬超らは10万の軍勢をもって、黄河南岸、潼関の西側に布陣した[62]。曹操は曹仁を潼関へ派遣して防戦させた[118]。そして諸将に対し「関西の兵は精悍であるから、防御を固めた上で、打って出てはいけない」と注意した[119]。
馬超たちの兵は長矛の使用に習熟しており、諸将から脅威と見なされていた[120][121]。馬超の率いる軽装騎兵・長矛部隊で構成された軍隊は、対異民族戦に携わった後漢の「西北列将」の代表にして、当時最も強勢だった羌族との戦闘で大戦果を挙げた段熲の系譜を引いており[122]、馬超はその機動力を生かした戦法を取っていたという[123]。
8月、曹操は潼関に到着した。馬超らの軍は、黄河南岸に布陣した曹操軍と潼関を挟んで対峙した[124]。夜間、徐晃・朱霊は黄河を北に渡り、蒲阪に陣営を構築した[125][126]。閏8月、続いて渡河を試みた曹操は、先に兵を赴かせ、自身は許褚が指揮を執る虎士(親衛隊)100人余りと共に殿軍となった[127]。馬超は歩騎1万余りを率いてそこを急襲し、猛然と矢をそそいだ[128]。曹操は周囲から孤立し、また乗っていた船の漕ぎ手も射殺され、死の危機に瀕した[129][130]。これはおそらく、呂布との対戦以来、曹操自らが参加した戦闘において最も危険な状況だった[131]。しかし許褚が身を挺して曹操を守り、また丁斐が牛馬を解き放って馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河に成功した[132][133]。曹操が行方知れずになったことで諸将はみな危惧していた。曹操と再会して悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして「今日はあやうく小賊にしてやられるところだった」と語った[134][135]。
曹操軍が蒲阪から西へ渡河し、さらに黄河を南下しようとした際、馬超は「渭水の北にて敵軍を渡らせずにおくべきです。20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張したが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、わしには葬られる土地も無い」と語った[136][137]。その後も敵の進軍を許した関西諸将は、渭南駐屯時に人質の提供を打診し、黄河より西の土地の割譲および講和を求めたが、拒絶された[138]。
9月、曹操は渭南に到達した[注釈 15]。そして賈詡の進言に従い、馬超らの要求に偽って応じ、会談の場を設けて離間の策を用いた[133][140][141]。易中天によれば、馬超が会見に参加した際、曹操は厳重な警戒態勢を敷き、不信感を露わにした[142]。馬超は己の多力を恃みに曹操を襲撃しようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった[143][注釈 16]。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂を疑った[138][注釈 17]。統帥の乱れた連合軍は、その後の会戦で大敗を喫した[150][注釈 18]。
馬超は涼州へと逃れ[11][152]、諸戎(西方の漢族でない諸民族、西戎)を頼りにした[27][153]。曹操は安定まで追撃したものの[138][注釈 19]、蘇伯・田銀が河間で反乱を起こし、幽州・冀州を扇動していたため[155][156]、引き揚げようとした[27][39]。涼州参軍の楊阜は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上[注釈 20]の諸郡は国家のものでなくなります」と進言したが[27]、曹操は帰途についた[39][159]。潼関の戦いにおいて曹操軍は勝利を収めた一方、その被害は甚大で、死者数は万をもって数えるに及んだ[78][160][注釈 21]。
涼州での再起
[編集]建安17年(212年)[163][注釈 22]1月、馬超が諸戎の渠帥(少数民族の首領[166])たちを率いて隴上で蜂起すると[167]、漢陽(天水)の郡治である冀県[168][169]を除く全ての郡県が馬超に呼応した[155]。上邽県では任養ら[注釈 23]が馬超を迎え入れたため[172]、涼州別駕の閻温は、涼州刺史の韋康が治める冀城に走った[173][174]。冀城は馬超軍の包囲下に置かれ[175]、張魯が援軍として派遣した楊昂もまた攻城に加わった[39][176]。
5月、馬騰は馬超の反乱に連座して誅殺され、三族皆殺しとなった[177][178][注釈 24]。
閻温は包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの[182]、その足取りを追われて身柄を拘束された[183]。『三国志』は、これにまつわる以下のような逸話を載せている。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めながら、かえって囚われの身となった。いかに義を成すというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍いを転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ。馬超は怒って「足下は命のことを考えないのか」と詰り、また懐柔を目論んで「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と問うたが、閻温は何も答えず、それを咎めた馬超に対し「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者[183])の口から不義の言を出そうとしている」と言い、馬超に殺されたという[174][183][注釈 25]。
馬超による閻温殺害を境に、韋康と漢陽太守の意思は降伏に傾いた[185]。8月、ついに韋康が講和を求めて開城すると、馬超は韋康と太守を殺害した[186][165][注釈 26]。そして冀城を占拠して兵衆を併合し、征西将軍・并州牧・督涼州軍事を自称した[27][188]。その後、遅れて救援にやってきた夏侯淵[注釈 27]を迎撃して優位に立ち[5]、汧県の氐族[注釈 28]を呼応させて敗走させた[110][194]。さらに千万も呼応し、興国で反乱を起こしていた[133][195][注釈 29]。馬超の威勢はこの時期に隆盛を極めた[197]。
楊阜は、妻の葬儀を口実にして、外兄(妻の兄弟[157])の姜叙が駐屯していた歴城(漢陽郡西県[198])を訪れると、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを趙盾に比して責め、反乱を仄めかした[199]。韋康が殺されたことを、楊阜は一州の士大夫の恥であると考えていた[200]。その悲憤を見た姜叙の母もまた、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた[39][201][202]。こうして、涼州の士大夫層(有力者層)は結集して内応を図った[200]。韋康の旧臣の一人である趙昂もこの報復に加わったが、皇甫謐『列女伝』によれば、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという[202][203][注釈 30]。
建安18年(213年)9月[注釈 31]、楊阜・姜叙が鹵城[209]において反旗を翻した[189]。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛は、馬超を鎮圧に向かわせた後、冀城の門を閉ざし、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした[210][注釈 32]。馬超は鹵城から撤退する最中に歴城を攻略した[212]。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子(ぎゃくし。不孝者[213])、主君(韋康[212][214])を殺した桀賊(凶暴な賊[215])であり、天地がどうしてお前を久しく容れられよう。だのに早く死なずにいて、人に顔向けできるというのか!」と罵倒されて激怒し、姜叙の母とその子を斬った[216][注釈 33]。退路を断たれた馬超はついに涼州を離れ、漢中にいる張魯の下へ落ち延びた[39][217]。馬超と楊阜との戦いでは、楊阜の兄弟7人が戦死し、楊阜自身も傷を負った[39][218]。
張魯は馬超を重用して都講祭酒[注釈 34]とし、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた[221]。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。元日に董种が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「一門がみな、一旦にして命を落としたのに、今われわれ二人で祝おうというのか」と嘆いた[11][222]。
馬超は張魯に対して何度も派兵を要請し、失地回復を試みた[223]。建安19年(214年)、趙昂らの立て籠もる祁山を馬超が包囲した際、姜叙らより救援依頼を受けた夏侯淵は、現在地から曹操のいる鄴までの距離は往復して4000里(約2000km[224])であるから、曹操からの指令を待っていれば彼らは負けるだろうと判断し、陳倉狭道を経て進軍した[225]。包囲から30日後に援軍が到着し、馬超は羌氐数千人と共に、その先行部隊を率いる張郃を渭水にて迎え撃ったものの、交戦しないまま撤退した[110][226]。人質の趙月はこの時に殺された[202][227]。
劉備への帰服
[編集]馬超は張魯に不足を覚え、また張魯配下の楊白らによる妬みゆえの排斥もあって[228][注釈 35]、内心鬱々としていた[236]。そして建安19年(214年)、武都から氐族の居住地へと出奔した[11][237]。王北固によれば、馬超は血縁と地縁による生得的保護を利用していたという[238]。時に劉備が成都を包囲していると知った馬超は、密書を送って降伏を申し入れた[27][239]。
馬超が漢中にいた頃、劉備は李恢を派遣して馬超と誼みを結ばせていたが[240]、馬超の来降を聞くと「益州を手に入れたぞ」と喜び[241]、人を遣わして馬超を迎えとらせ、密かに兵を補充した[11][242]。劉備の入蜀は、劉璋軍のしぶとい抵抗によって難航しており、雒城攻略時には龐統が戦死していた[243]。また成都城内には精兵3万と1年分の穀帛があり、包囲下にあってなお士気は高く、抗戦の構えを見せていた[244][245]。しかし馬超の軍兵が成都城の北に駐屯するや、恐れをなした劉璋は馬超到来から10日足らずで降伏し、夏頃、蜀は劉備の手に帰した[11][246]。益州獲得に大きく寄与したことから[5]、劉備は馬超を平西将軍とし、臨沮を治めさせ、改めて都亭侯に封じた[27][247]。宋傑によれば、この任地は武都郡沮県近辺の沮水流域を指す[248][注釈 36]。馬超は劉備の爪牙(武の重鎮、主君を補佐する人物[251][252])として、関羽・張飛と共に名が挙げられた[253][254]。
平西将軍という官職は、関羽が当時就いていた蕩寇将軍よりも高位だった[255]。馬超の帰順を知った関羽は、馬超の才能が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で尋ねたが、関羽の勝ち気な性格[256]を知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)と並んで先を争うでしょうが、髯[注釈 37]には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした[257][258]。
馬超が涼州から離れたことで、夏侯淵がこれ以上由々しい抵抗勢力と対峙することはなくなった[9]。そして同年10月、枹罕において独自政権を打ち立てていた宋建が滅ぼされ[259][260][注釈 38]、その翌年の建安20年(215年)5月、夏侯淵に大敗し西平に退いていた韓遂の首級が、現地の諸将から漢中攻略中の曹操の下へ送り届けられた[133][262][263]。これにより隴右は平定された[264]。しかし隴右に対する支配体制は実際のところ整わず、漢族・非漢族による反乱が相次ぐ不安定な情勢が曹魏初期まで続いた[265]。
建安21年(216年)に発された、呉将に帰順を迫る陳琳「檄呉将校部曲文」では、曹操の軍事力を誇示するにあたり、これらの抵抗勢力を撃滅したことが雄弁に述べられている[266][267]。
近頃では関中諸将が、互いに合衆して、頻りに叛乱し、二華(太華山・少華山[268])を阻んで、黄河・渭水に拠り、羌胡を駆率し、矛を揃えて東に向けたが、その気は高く志は遠大、あたかも無敵かのようだった。丞相(曹操)は鉞を携えて武威を逞しくし、順風に烈火を放つがごとく、元戎を前駆して[269]、戦鼓も鳴らぬ間に彼らは破れた。倒れ伏した屍は千万にのぼり、流れた血が大盾も漂わせたことは、天下の誰もが知るところである。その後、大軍が長江に臨みながら渡らずにいたのは、韓約(韓遂)・馬超が逃れ出て、涼州へと逃げ帰り、また鳴吠(動乱、叛乱[268][270])せんとしたからだ。逆賊宋建は河首〔平漢王〕を僭号して、〔韓遂・馬超と〕同悪相救い、並んで唇歯となった。〔中略〕みな我が王の誅伐を先駆けて加えるにあたうものだった。〔中略〕偏将(夏侯淵[268])が隴を攻めれば、宋建・韓約は梟夷(誅滅[271])され、その首は万里に晒された。〔中略〕宋建・韓約の眷属はみな鯨鯢となり〔誅殺され〕[272][273]、馬超の妻子は金城にて首を焼かれ、父母嬰孩の死体は許に倒れた。これは国家が彼方には禍を集め、此方〔張魯・朴胡・杜濩などの帰順者〕には〔封戸・封侯により〕福を下したというのではない。逆順(正否[274])の理においては、そうならざるを得ないのだ[275][276][277]。
建安22年(217年)冬、馬超は漢中争奪戦において張飛・呉蘭・雷銅と作戦を共にし、武都に侵攻して東部戦線の主力である劉備軍を援護した[248][278]。建安20年(215年)に張魯が曹操に投降したため[注釈 39]、漢中はすでに曹操の勢力下にあった[280]。馬超は張飛と共に沮道[注釈 40]を経て[248]、呉蘭・雷銅は陰平から北上して下弁へと進出した[248][286][注釈 41]。前者においては、氐族の雷定ら7部族1万落余りが呼応した[39][287]。これに応じて、曹操は曹洪・曹休・曹真を派遣した[288][289][注釈 42]。固山[注釈 43]に駐屯して曹洪らの退路を断とうとする張飛の動きに対し[248][286]、それを陽動と判断した曹休は、下弁にいる呉蘭を攻撃して撃破した[293]。建安23年(218年)3月、陰平氐の強端が蜀に引き返す呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中に退却した[133][294][注釈 44]。建安24年(219年)1月、夏侯淵の敗死に伴って劉備が漢中を獲得すると、その北進に従って武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既・楊阜に命じ、武都氐を京兆・扶風・天水へ移住させた[39][47][297]。馬超や劉備などの反曹操勢力と結ぶ可能性を断つ目的から、氐族はかくして離郷を余儀なくされた[298]。
建安24年(219年)7月、劉備が漢中王を称し、馬超は左将軍・仮節となった[27][299][注釈 45]。馬超は賓客のような立場にあった[301]。劉備を漢中王に推戴する上表文において、馬超は群臣たちの筆頭に挙がった[254][302]。劉備は建安3年(198年)に左将軍を拝命して以来、敬称として左将軍と呼ばれることが多かった[303]。漢中王を称するにあたって劉備は左将軍を辞したが[304]、その後任としての馬超の抜擢は、劉備が馬超を礼遇したものだといえる[305]。
建安25年(220年)1月、曹操が死去し[133][306]、黄初元年(同年)10月、子の曹丕が献帝から禅譲を受けて即位した[307][308]。
章武元年(221年)4月、劉備が帝位を称した[254]。馬超は驃騎将軍・涼州牧となり、斄郷侯に封じられた[5][27][注釈 46]。また常璩『華陽国志』によれば、北方において臨沮(武都郡沮県[318])の監督を担った[318][319]。馬超には以下のような策命が与えられた。
朕(劉備)は不徳を以て至尊(天子[320])を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ねており、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛[321])のごとくである。海内(天下[321])は怨み憤り、〔漢の〕正統に帰り本(もと)に反(かえ)らんとして、氐羌は順服し、獯粥も義を慕うに至っている。君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかなるからこそ、〔驃騎将軍の〕任務を委ねて君に授けるのである。虓虎(吼え猛る虎[321][322])のごとき勇を顕して[注釈 47]、万里を統べ、民の苦難を尋ね求めるのだ[注釈 48]。国朝の教化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくて漢の祐福を篤くして、天下に対(こた)えよ[27][331]。
西方の異民族との連携は、諸葛亮の説いた隆中対における要点の一つである[332]。馬超は蜀漢において、北方(涼州)での働きと西方の異民族に対する影響力に嘱されていた[333]。その所期は策命からもうかがうことができる[334]。また非保有の土地を封じる遥領という制度によって、封与者は被封与者の地位を高めるだけでなく、自身の統治が及ぶ範囲を表せたが、蜀漢政権の場合はそれに加えて、自らの正統性を示すことができた[335]。蜀漢における涼州刺史(牧)は、遥領ではあれど依然として重役だったと見なせようが[336]、さらに、益州以外の地域で州牧を務めたのが蜀漢では馬超のみだったことは、彼に対する厚遇の一例とも捉えられる[337]。
章武2年(222年)、馬超は47歳[注釈 49]で没した[27]。死の間際、馬超は劉備に上疏した。
子の馬承が後を嗣いだ[27][339]。馬岱は平北将軍まで昇進し、陳倉侯に封じられた。馬超の娘は、後に劉備の息子である安平王劉理に嫁いだ[27][340][注釈 50]。これらの措置も馬超への優遇を示すという[238]。
景耀3年(260年)9月、威侯の諡号を追贈された[27][342][343][注釈 51]。
逸話
[編集]彭羕の放言
[編集]益州の名士である彭羕は、傲慢で軽率な性格だった[345]。はじめは劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、江陽太守へと左遷されることになった[346]。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさっていて、孔明(諸葛亮)や孝直(法正)にも引けを取らぬと思っていたのですが、地方の小郡に任じられるとなっては、本望から外れるのではないでしょうか」と問うと、彭羕は劉備を「老革(老いぼれ)」と呼んで罵り[345]、「卿が外に〔軍を〕執り、私が内に〔謀を〕執れば、天下は定まろうものです」と馬超に言った[347]。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚愕し、黙して答えなかった[348]。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して報告した結果、彭羕は投獄された[349]。罪状は謀反扇動と政権転覆である[345]。諸葛亮は名士に対し同情的で、手厚くもてなしていたが、その言動が政権に悪影響を及ぼす場合は厳しく対処した[350]。彭羕は獄中から諸葛亮へ弁明の手紙を送り、「老革」は酒席での失言であると弁解して[345]、「内だの外だのと言ったのは、孟起(馬超)に北方で功を立ててもらい、主公のために尽力して、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません[345][注釈 52]。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、心を痛めるばかりです」と述べたが、最後には処刑された[346][352]。
関張の牽制
[編集]『山陽公載記』によれば、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに、常々劉備を字で呼んでいたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た[注釈 53]。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に示しがつかないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と嘆じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという[137][353]。
しかし『三国志』の注釈者である裴松之は、この逸話について論難している。
- 窮していたところで劉備に帰順し爵位も授かった(臣従を受け入れた)馬超が、主君を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うとは考えられない。
- 入蜀時には荊州の守りについていた関羽が益州に行ったことはなく、それゆえ諸葛亮に手紙を送ったというのに、関羽が益州にいて張飛と共に立っていることなどあり得ない。
- 人はある行為をしようとする際、その可否を承知した上で実行するのだから、馬超が仮に劉備を字で呼んでいたならば、そうしてもよいと判断した謂れがある。
- 関羽と張飛が武装して直立しているのを見ただけで、関羽の建言を知らない馬超が事態を悟るのはおかしい。
以上の4つの観点から、裴松之は逸話の信憑性を強く疑問視している[137][354]。この馬超の逸話は、現代においても史料的価値には疑いの余地があるとされる一方[355]、人物描写をはじめとするその文学性を評価されている[356]。
背景
[編集]涼州と呼ばれる地域は本来、古来より続く羌族の居住地であり[357]、紀元前3世紀に匈奴が河西回廊に侵入して以来およそ80年間、匈奴の支配下にあった[358]。中国の版図に入ったのは前漢の武帝の時代、元狩2年(紀元前121年)においてである[359]。この併合は、匈奴を河西および羌族から切り離すのを目的とした対匈奴戦争の副次的事業であり[360]、軍事拠点の建設および統治制度の維持がその支配方針となった[361]。元狩4年(紀元前119年)の徙民によって涼州における漢族の割合は増加し[362]、また元鼎6年(紀元前111年)に漢族が大規模に移住したことで、漢・羌両族間の交流は必然的に生じた[363]。
羌族の風習では、寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かずに強者を立てる[364][365]。さらに、父母が死んでも泣くのを恥とするといわれた[366][367]。匈奴侵入の際、羌族は文化的親和性から漢族よりも匈奴に近づいたというが[368]、匈奴は孝心に乏しいとされていた[369]。また河西回廊に残留した月氏は匈奴や羌族と同化し[370][371]、加えて他の北方遊牧民社会も羌族と似通った風習を持っていたようである[372]。以上に挙げた羌族をはじめとする非漢族の風習は、主要な人間関係とされる五倫や、父母の死に対する三年の喪、哭礼といった服喪儀礼などを是とする中原の儒教倫理にはそぐわない[369]。地域・気質・文化などに見出されたこれらの差異は、華夏が夷狄を下位に置く根拠となっていた[373]。漢族が羌族に対し軍事的優勢を取れるようになるにつれ、この蔑視は強まった[374]。
後漢王朝における涼州では、漢族と諸羌族との衝突が頻発していた[375]。涼州は、農耕に適した黄土高原やオアシス、河谷平地に加え、遊牧に適した草原地帯も有する、農耕文明と游牧文明の混じり合う土地だった[376]。前漢時代、農牧に従事する羌族の所有地を漢族が奪い、山岳地帯など他地域への移動を強いたことに由来する両族間の軋轢は[377]、根本的解決のなされないまま後漢に引き継がれた[378]。余英時は、動乱の誘因を漢の地方官吏による失政と搾取とする主流の学説を認めつつも、さらなる早期要因として、羌族の人口爆発[注釈 54]および漢人の「蛮夷化」(後述)という趨勢を指摘している[380]。後漢において、羌族は漢族にとり異民族の中でも最たる脅威であった[381]。羌族への武力行使が連年実施され(漢羌戦争)[382]、その戦費は莫大なものとなった[383]。羌族の監督を担う護羌校尉を設置するなどといった融和的な政策も講じられたが、管理不行届が生んだ事実誤認や度重なる官員交代による政策方針の不統一、さらには羌族の民族性への無理解により、効果的統治はなされず[384][385]、かえって対立を悪化させた[378]。
後漢中期には羌族の動乱が三輔にまで及ぶ事態となり[386][注釈 55]、涼州・三輔の人口流出が進んだ[389]。2世紀半ばにおける、河西回廊沿いの地域を除いた涼州東部の戸籍登録人口は、前漢末期の460万人超から、その1割にも満たない35万人弱まで減少した[390]。羌族は地域区分に則り、隴西・漢陽・金城(外郡)における西羌、安定・北地・上郡・西河(内郡、中国内部)における東羌という区別がなされていたが[391][392]、後漢中期以降の混乱によって涼州は「外域」に等しい地域と化し、そこへ移された羌族も「外側」に属する存在となった[393]。長期間の戦乱による涼州の過疎化は豪族の没落や人士の排出数減少を招き、朝廷における涼州勢力の政治的影響力は弱まっていた[394]。またいずれも不受理に終わったとはいえ、統制の難航から、華夷の交流を地理的・文化的に断つことで「羌患」を免れようとする涼州放棄論も複数回にわたり唱えられた[395][注釈 56]。
隴右に割拠する群雄が台頭した起因には、羌族の内徙を通しての文化的・社会的変容[399]および軍権掌握がある[400]。後漢初期において、司隷・涼州に本貫を置き羌族対策に深く関わった馬援などの外戚勢力は、討伐した羌族を内地に移住させて兵力・奴婢として運用し、自らの勢力を強めていた[401]。反乱鎮圧に伴う強制移住により、関隴地区における羌族の人口は増加の一途をたどった[402]。また関東諸将による対羌戦争での戦績は芳しくなかったが、朝廷は涼州勢力の席巻を恐れ、長らく起用していなかった[403]。しかし元初2年(115年)から羌胡を中心とした涼州兵を導入し、次いで土地勘のある涼州の武将も起用するに至った[404]。辺境である涼州において、地方官吏の内政や羌胡兵による軍隊編成の要請などといった朝廷発の政治現象の成否には、地元の有力者の承認や協力の有無が大きく影響した[405]。さらに言えば、西北地方で頭角を現すには、族的背景以上に個人的能力の有無が特に重要だったと考えられる[406]。朝廷と利害を共にした隴右の地方勢力は勢いを取り戻していった[407]。
後漢後期の隴右勢力は官職の有無に関わらず、人格的な関係に基づいて非漢族と交流し、それに由来する軍事力を得た[408]。馬騰・馬超父子が関隴に割拠する一大勢力となったのは、辺境民族の支持を得たことが関係している[409]。隴右勢力は朝廷と異民族兵とを媒介する役割を担った[410]。しかし異民族統御および軍事力提供の属人化により、異民族に対して影響力を持つ人物の存在は現地の漢族社会を動揺させるだけでなく、王朝からも危険視されかねなかった[411]。後漢初期の外戚勢力と同様、董卓や馬騰は羌族を鎮圧し私兵化することで頭角を現したが[412]、董卓の兵権を弱めようとした霊帝に対し、董卓がそれを回避する口実として羌胡兵の言い分や性格を挙げたことや[413][414]、韓遂たちが曹操と会談した際にその様子を見ようとひしめく「秦胡」と呼ばれる人々[155][121][注釈 57]、張郃を迎撃した際の馬超軍などが示すように[363]、涼州軍閥はその兵力を羌族に依拠するところが非常に大きくなっていた[418]。董卓・韓遂・馬超ら関隴諸将は、羌胡・群盗・軍閥入り乱れての武力衝突が絶え間なく生じる涼州で育ち、やがて関中を席巻したのである[419]。
後漢末期の涼州軍閥は、董卓を筆頭に、行動規範や風俗の「羌胡化(羌化・胡化)」について多く論じられている[420]。涼州の一郡である隴西は戦国時代に秦によって置かれたが[421]、その地域周辺の住民は、当時から漢代に至るまで性格や風俗が異民族に近いと認識されていた[369][422][423][424]。後漢時代になると、社会状況の悪化に伴い、社会階級の底辺層では生活を保持すべく漢・羌の結びつきが強まる傾向が生じた[425]。後漢末期における異族交流の例証としては、先述した羌兵の編入のほか、羌族との通婚現象が挙げられる[426]。馬平が羌族の娘を娶ったのは、困窮した民衆には羌族と結婚する選択肢もあったことを示しており、胡漢交流の一形態として認められる[427]。その子である馬騰は出自・環境において羌族と強い関わりを持ち[428]、孫の馬超もまた非漢族と深く結びついていた[429]。涼州軍閥はその地域的異質性のみならず、異族交流を経て獲得した民族性、すなわち民族構成および文化面における非漢族性という特質をも備えていた[430]。しかし漢人の「羌胡化」は中原の人々にとって歓迎すべき現象ではなく[431]、董卓は「羌胡の種」と罵られ[432][433][434]、李傕は「辺鄙の人間で、夷狄の風習に染まっている」と蔑まれた[435][436][437]。また中平元年(184年)の涼州大乱の際、涼州刺史として赴任した扶風人の宋梟は「涼州は学に乏しい」と述べ[438]、人々に『孝経』を学ばせるべきだと主張したが[439][440]、この発言は、涼州の人間が当時の中国の文化基盤から遠ざかっていたことを示唆している[441][注釈 58]。
涼州軍閥による文化融合は、前漢以来朝廷を悩ませ続けた漢・羌両族間の摩擦を緩和させた一方[444]、破壊・略奪行為などといった羌族の社会的慣習[445]を認可したために、中原進出に伴い狼藉が目立つようになった[430]。王朝からの報酬が見込めない際、統率者は異民族兵に実力行使を許し、彼らの不満を解消していたという分析もある[446]。過度な「胡化」は、本土の中国人の恐怖に基づく反感や拒絶を呼ぶ[447]。涼州軍閥の暴力性は後漢王朝を衰亡へと導いたばかりか[448]、その挙動が各地で士大夫からの反発を招き、さらに董卓死後における軍閥間の内紛も重なった結果、隴右勢力そのものの滅亡にも繋がった[449]。この自滅については、叛服常ならず、団結力に欠け協力と離反を繰り返す性質が影響を及ぼしたとも言われる[450]。隴右勢力は各々が小規模な集団を形成しており、関中進出などといった共通の目標をもとに結束して、比較的有力な者を全体の統率者として擁立するという行動をとるために、集団群は分散的であり、首領の地位も不安定だった[451][注釈 59]。その他、中原の道徳観・文化観を基準とした非文明的という印象なども要因として挙げられている[454]。
馬超もその流れを汲む者として、祖母から引く羌族の血統と、羌族の多く住まう隴右という環境による「羌胡化」の影響を指摘されている[455]。朱子彦によれば、馬超は「羌胡化」を経て、礼や義、孝といった概念を当時の一般的な漢族のようには尊ばなくなり、その結果、核心利益に影響する変動が生じた場合は家族の愛情や利益に配慮することもなく、一族を人質に取ることは抑止力たり得なかったという[456]。しかし、馬超がもし入朝した馬騰らの身を顧みるならば、割拠を放棄して曹操に臣服せざるを得ない一方、親族を見放すならば、忠孝の道を失って曹操に道義的優位を与えることになる[457]。馬超のいかなる選択も曹操に利する仕儀となるため、曹操による人質の徴発は結果的に功を奏したともいえる[457]。さらに楊阜や王商などの反応(→「評価」を参照)のように、忠孝理念の軽視は道義に悖るとして強い反感を買い、馬超は同時代の人士からの支持を得ることができなかった[458]。涼州における反攻では非漢族の武装勢力を利用して頑強な抵抗を見せたものの、勢力の確立には至らなかった[459]。
評価
[編集]馬超に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。群を抜く勇猛さが賞賛される一方、行動や徳性はしばしば非難の的となる[460]。また、非漢族との連携という強みやその軍事的意義に着目する見解も見られる[461]。
同時代の評価
[編集]- 荀彧:袁紹との対決以前、関中の動静を憂う曹操に対し「関中の将帥は10を数えますが、結束することはできず、ただ韓遂・馬超が最も強いのです」と評している[462][463][注釈 60]。
- 周瑜:馬超・韓遂を曹操の後患と見なし[466]、建安15年(210年)、益州攻略について「奮威将軍(孫瑜)と共に蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と孫権に提言している[467][468][469]。
- 王商:「勇あれど不仁、利を見て義を思わない人物であり、唇歯となるべきではありません」と評して馬超との連盟に反対し、「益州は、その国土はうるわしく民は豊かで、貴重な物品も産出する場所であるからして、狡猾な者が襲わんとするところであり、馬超らはそのために益州に接近するのです。もし彼を近づけるならば、虎を養いて自らに患いを遺すこととなりましょう[470][471]」と、劉璋を諫めている[472][473]。
- 楊阜:曹操への諫言で「馬超は韓信・黥布のような武勇を持ち、羌胡の心を甚だ得ています。西州(涼州[474])は彼を恐れております」と述べる[475]。また「父に背を向け主君に叛き[注釈 61]、州将(刺史[200])を虐殺した」、「強いが不義である」と非難している[39][477]。
- 諸葛亮:関羽に宛てた手紙で「孟起は文武の才を兼ね備え、人並み外れて雄烈、当代の傑物であり、黥布・彭越のともがらです」と評している[257][478]。またその書中では馬超を張飛と同列に扱ったが、黄忠を後将軍に据えようとした劉備に対しては「黄忠の名望は関羽・馬超と並ぶものではありません」と、関羽と併せて言及している[479][480]。
- 楊戯:『季漢輔臣賛』において、「驃騎将軍(馬超)は奮起して合従連横した。三秦(関中[481])にて事を始め、黄河・潼水を占有した。思惑は朝廷を宗とするも、時には離反し、時には同盟し、敵がその隙に乗じたことで、一族は滅び軍勢も失われた。道に背き徳に反したが、龍鳳(劉備[482])に身を託し縋った」と評している[483][484]。
後世の評価
[編集]- 中国における評価
- 西晋の陳寿:「馬超が武力に頼り勇を恃んで、一族を破滅させたのは、惜しいことだ。窮地から安泰へと至ることができたのだから、まだ良かったのではないだろうか」と評している[485][486]。
- 潘岳:『西征賦』と題する賦において、朝廷(曹操)に対し叛乱を起こした馬超を、韓遂と共に「大憝(大いなる悪人[487])」と呼んでいる[488][489]。潘岳から見れば、馬超たちは国家や民にとって有害無益な臣下であり、後世への戒めとして機能するだけでなく[490]、自身の高尚潔白な理念と反するために、軽蔑の対象でもある[491]。作中で同様に糾弾される人物として、李斯、趙高、蕭望之などがいる[492]。
- 東晋の孫盛:馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した残酷極まる行為であるとし、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている。その類例として、降伏せねば実父を釜茹でにすると項羽に脅された際に「煮殺すならその羹をわしにも分けてくれ」と答えた劉邦[注釈 62]や、長子を人質に出した後に反逆した隗囂が列記されている[460][495]。
- 南唐の徐鉉:祖先が扶風人だという馬仁裕の神道碑に、扶風馬氏に関連する高名な人物として、伯益・趙奢[注釈 63]・馬融と共に馬超の名を挙げ、「公侯〔の子孫〕は必ず〔元の公侯に〕復(かえ)るというが[498][499]、〔果たして〕関西は孟起の威に靡いた」と記している[500]。
- 南宋の陳亮:「関西諸将は皆恐るるに足らず、恐るべきは馬超ただ一人である」と述べ、馬超が領地に独り留まったことは曹操にとっての養虎の患いだとする。そして「馬超が〔曹操の招きに応じて〕就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない。袁煕・袁尚が平らげられた今、強兵が西に向かうとなると、その風向きを理解した諸将はこちらに合流する、すなわち、韓遂らはあえて刃向かおうとはしない。たとえ叛いたとしても、これを破るのはたやすいことだ」と、関西平定における馬超の重要性を説いている[501][502][注釈 8]。
- 元の郝経:「馬超父子は西州随一の勇者だったが、韓遂と共に跳梁して寇(あだ)しては、三輔を荒廃させ、漢王朝を損なった」と、董卓と併せて漢王朝衰退の一因と見なす[460]。また「一門が皆誅され、凋落すれども悔いず、勇はあれども義は無く、君子はこれを嘆くのである。しかるに、潼関の戦いにおいて曹操はあわや命を失うところと相成り、孤剣にて帰順するや関羽・張飛に列したからには、馬超もまた豪傑ではないか」とも評し、曹操を追いつめたことで改めて「当代の雄」だとしている[503]。
- 清の徐鼒:「聖人の大公無私の心は、先も後もみな同一であるという[504]。趙苞の〔鮮卑に拉致された母親を捨てた〕不孝の義を守り、馬超の父に背いた条理に従うというならば、敝蹝(へいし。破れた草履[505][506])を棄てるように、大舜もまた〔天下を捨てて有罪の父と共に逃げ〕海辺で暮らすことができる。〔項羽の脅しに対する〕羹の分け前においては、漢祖(劉邦)も〔父を〕俎上に置くことを忍んだ。英雄の成し遂げることは〔みな同様だが、それは〕聖賢の精神ではないのだ」と記している[507][注釈 64]。
- 清末民初の盧弼:「馬超は武勇に優れ、羌胡を手懐けていたが、隴右の軍衆を兼有し、さらに張魯の援助も得ているとあっては、向かうところ敵なしといえよう」と述べ、その強勢を認める一方、「〔韋康は絶望的な情況の中で〕無辜の吏民が死んでいくに忍びず、心苦しくも和睦を求めたのであり、その情況は諒解できる。馬超はただ残虐で、約に背いて韋康を殺害し、また楊昂の手を借りて、殺戮をほしいままにしてしまった[注釈 26]。だから韋康の死後、吏民は怨恨を抱き、姜敘の母や趙昂の妻は両者とも忠義の心を奮い、皆が故君のために復讐したのだ」と失策を指摘している[510]。
- 易中天:関羽の書状に対する諸葛亮の対応について、「馬超は投降してきたばかりで、まだ不安な心理状態にあり、高い評価を与えて安心させることが不可欠であった。まして馬超はもともと有能な才能の持ち主であり、どうして低く評価するなどできようか」と述べている[511]。
- 日本における評価
- 井波律子:「強権に屈服しない反発力の強さ」[512]が特徴であるとし、「曹操をキリキリ舞いさせた戦いぶりの壮烈さには、他に類を見ないものがある」[513]と述べる。またその性格については「剛勇無双ではあるが、二代目のためか、やや単純で傲慢なところのある性格」[514]だといい、馬超の長所・短所は表裏一体だったのだろうと語っている[515]。さらに、劉備への帰順後に目ぼしい活躍が見られなかったのは、劉備の古参の配下たちと比較した際の立場や意識の違いが影響したのではないかとも推測している[515]。
- 満田剛:馬超の動向の背後に見られる羌・氐・板循蛮の存在を指摘し、馬超と西北地方の非漢族とのつながりが、曹魏による隴右統治の不安定さも相まって、諸葛亮の軍事政策に貢献しうるものだったと分析している[516]。
- 飯田祥子:曹操が馬超の人質を即座に処刑せずにいたのは、関係修復を視野に入れた懐柔の姿勢を示すものだとする[517]。それは、馬超をはじめとする隴右勢力が「敵対を避けたい有用な軍事協力者であり、厚遇し勢力を温存するだけの価値があった」[517]ためだという。馬超が個人的な威信により異民族兵を擁したことにも触れている[410]。
- 関尾史郎:後漢末期に起きた隴右叛乱の最終段階における氐族の参戦について、馬超の急速な勢力拡大が最大要因であると解している[518]。
墓所
[編集]馬超墓には主要なものが複数存在する。
- 新都県の墓所(北緯30度49分00秒 東経104度10分01秒 / 北緯30.816550度 東経104.166914度)
- 明の時代、四川按察使の楊瞻、成都知府の王九徳、県令の邵年斉が、墓の湮没を恐れ、墓前に碑を建てた。雍正11年(1733年)、邑令の陳銛が墓の四隅に石を設置して区画を設け、墓域より内側での採樵と耕作を禁じた[519]。陳銛はこの経緯について記録した「故征西将軍馬公墓碑記」と題する文書を『新都県志』に載せている[519][520]。道光17年(1837年)には、知県の張奉書が墓域を測量して3.174畝とし、墓の周囲に柏を植え[注釈 65]、塀を作り、墓守を設置して、春秋に墓参りをした[519][525]。さらに「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」という明代の墓碑を改めて建てた[519]。宣統元年(1909年)、四川提督の馬維騏[注釈 66]により立派な社殿が建てられ、「漢驃騎将軍領涼州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌」という墓碑も新たに作成された[528]。文化大革命の際に破壊されたため、馬維騏による墓碑と撰者不明の「征西将軍馬超墓碑」の2つの石碑のみが現存する[519][529]。石碑は1987年に新都の桂湖公園にある碑林に移され、安置されている[519]。墓址には記念碑が立っており、周辺区域の地名は「馬超西路」という。県内重要文物遺址(1987年)[519]。
- 勉県(沔県)の墓所(北緯33度09分09秒 東経106度38分26秒 / 北緯33.152635度 東経106.640650度)
- 万暦35年(1607年)に著された祁光宗『関中陵墓志』および清代の畢沅『関中勝蹟図志』によると、建興5年(227年)[注釈 67]に諸葛亮が沔陽を訪れた際、自ら祭祀を行ったという[530][531][532]。また『古今図書集成』によれば、諸葛亮は馬岱に命じて、喪服を掛けさせたという[530][533]。乾隆41年(1776年)、兵部侍郎・副都御史・陝西巡撫の畢沅により「漢征西将軍馬公超墓」という碑文が制作された[530][534]。嘉慶年間には、知県の馬允剛が詩を献じた[530]。民国17年(1928年)、馮玉祥は馬超を偲ぶ聯詩を詠み、それを刻んだ「馮玉祥為馬超祠題聯」碑が作成された[535][536]。墓域は漢恵渠という水路を挟んで前院と後院の2つの区域に分かれており、その間に風雨橋と呼ばれる橋が掛けられている[530]。民国24年(1935年)、漢恵渠の修復時に馬超墓も開削されたが、甬道から一振りの鉄刀が発見され、墓の内部に暗器があるのではないかと恐れられたため、再び封印された[537][538]。馬超墓の周辺には、最古にして皇帝の詔のもと建てられた唯一の武侯祠である勉県武侯祠や女郎祠(張魯の娘の墓)がある[注釈 68]。省級文物保護単位(1992年)[540]。
後世における受容
[編集]『三国志平話』
[編集]『三国志平話』(以下『平話』)は、元代の至治年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。史実に対する注意の希薄さが特徴である[541]。物語は蜀漢を中心に語られ、「擁劉貶曹」思想を主題とする[542]。そのため、それを際立たせる描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に陥れるのはその一例である[542]。また『全相平話』の他作品とは異なり、人物描写の重点が装身具から相貌へ移行し、登場人物がより生気を帯びているという特徴を持つ[543]。また特異な風貌を持つ人物の所属は蜀漢に集中している[544]。なお、馬超挙兵と馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、元代の雑劇や『平話』の時点ですでに見られる[545]。このように因果関係を逆転させた物語は、民間層において広く伝わっていたと考えられる[546]。以下は『平話』における馬超の事績である。
- 馬騰の長男であり、馬岱はその次男になっている。3人とも万夫不当の勇を持つと評判で、賈翊(賈詡)は劉備に対抗し得る勢力として「馬騰は諸葛亮、馬超は関羽、馬岱は張飛への対策となり得るでしょう」と述べている[547]。容姿については「生きた蟹のように青ざめた顔、明るい星のような目」と描かれる[注釈 69]。武器として長槍を用いるほか、弓の名手でもある[549][注釈 70]。
- 平涼府節度使の馬騰は、曹操に呼び出されると「もし私が死んだら、曹操を殺して仇を取ってくれ」と息子たちに言い残して発つ。そして、献帝に謁見した際に曹操を除くよう暗に進言したことにより、曹操に一族ごと殺される。
- 馬騰および一族誅殺の知らせは、従僕から馬岱に、そこからさらに馬超へと伝わる。嘆き悲しんだ馬超は、辺章と韓遂から1万の兵を借りて挙兵し、喪服を纏って戦場に立つ。馬超軍の攻撃に曹操軍は手も足も出ず、馬超と戦った夏侯惇があやうく射殺されかける。曹操は長い髭を目印に追われ、命からがら逃げのびるものの、動転するあまり食事も喉を通らない。
- 次々に勝利を重ねる馬超軍が渭水の東南に布陣してから数日後、婁子旧(婁子伯)と名乗る道士が馬超のもとを訪れる。「馬岱に1万の兵を率いさせ、まずは長安に赴いて献帝を救い、曹操の家族を殺しなさい。それから曹操を殺しても遅くはない」という彼の献策を、馬超は回りくどいと言って退ける。すると婁子旧は曹操軍の陣営に足を運び、辺章と韓遂に賄賂を送れば敵軍を退却させられると曹操に進言する。それによって馬超は軍勢のほとんどを失い、張魯の下へ逃げ去る。
- 劉備軍と対峙した際には魏延と矛を交える。諸葛亮が伊籍を派遣するや投降し、定遠侯に封じられて五虎将軍の一員となる。荊州にいた関羽は、馬超の封侯とその武勇に対する賞賛を聞いて不満を漏らすが、諸葛亮から受け取った手紙を見て機嫌を直す。
- 陽平関に侵攻する曹操軍の対処に立候補し、諸葛亮から策を授かるものの、飲酒が原因で敗北し、陽平関を張遼に奪われてしまう。諸葛亮と顔を合わせないよう密かに逃走するが、敵軍に出くわすたび、曹操を散々に叩きのめしている。
- 劉備が仇討ちのため呉に出兵した際には、剣関(剣門関)の守備を任されている。そして、呂蒙と対峙する諸葛亮を関平と共に援護したのを最後に、物語から姿を消す。
『三国志演義』
[編集]元末明初に成立した小説『三国志演義』(以下『演義』)において、馬超は「冠の玉のような
馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場し、「人並み外れて雄烈」な面がひときわ強調されている[568][注釈 74]。この単純化により、曹操の「馬の小僧が死ななければ」という言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対する恐れの発露ではなく、馬超軍に大敗した後に馬超の勇壮な姿を観察しての独言となっている[571]。また許褚や張飛との一騎討ちは、単に場面を盛り上げるだけでなく、「虎将を描くとき、〔その相手に〕懦弱な者を用いて造形するよりも、勇ましい者を用いて造形することで武勇を実感するほうがよい」[572]という理論に則り創作されたものである[568]。『演義』創作の一環には、このような馬超などの人物の勇猛さを引き立てる工夫が、伝統的な国民感情である「擁劉反曹」思想を前提に存在している[354]。
『演義』における馬超の事績は『平話』と同様に、様々な改変が全般的に加えられている。作中の馬超は『平話』から継続して、曹操を貶める手段として機能している[573]。また『演義』は『平話』と比較して史実に近いとされるが、馬超の形象に関しては、史実に全く反する「虚構」の存在といえる[574]。改変の代表例である因果関係の逆転には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある[573]。さらに、蜀漢に仕える人物であるために擁護がなされているという面もある[575]。そして馬超を美化する過程には、その父である馬騰の人物造形の変化も含まれている[576]。『演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する[577][注釈 75]。毛宗崗の編纂した『演義』(毛宗崗本)において、馬騰の遺志を継いだ馬超は忠孝の体現者である[578][579]。改変を経て、不孝な叛将から忠孝を尽くす悲劇の英雄へと変貌を遂げた馬超は、父子ともども人々の共感と称賛に浴し、その芳名を語り継がれた[573]。
- 長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂軍が対峙する中、馬超はわずか17歳にして敵将の王方を討ち取り、李蒙を生け捕るという鮮烈な活躍を見せるだけでなく、馬騰らの敗走時にも殿を務め、追撃する張済を退けている。袁紹陣営の残党勢力である郭援らとの戦いは採用されていない。
- 孫権討伐を目論んだ曹操は、後顧の憂いを断つべく、西涼太守の馬騰を許昌に召し寄せての謀殺を図る。馬騰は馬休・馬鉄・馬岱を連れて都に向かうが、黄奎との曹操暗殺計画が発覚し、息子2人もろとも殺されてしまう[注釈 76]。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一逃げ延びた従弟の馬岱と共に、復讐のために兵を起こす。
- 馬超は、韓遂およびその8人の部将[注釈 77]と共に20万の大軍をもって長安に攻め寄せ、陥落させる。潼関の戦いでは、于禁・張郃を次々に退け、李通を刺殺し、曹操を猛追して討ち取る寸前にまで及ぶ[注釈 78]。戦役半ばでは許褚がしかけた一騎討ちに応じ、死闘を繰り広げる。しかし離間の計によって馬超以外の9人全員が曹操軍に寝返り、それに激怒した馬超は、楊秋にそそのかされて降伏を選んだ韓遂の左手を切断し、梁興・馬玩を斬殺する。その後曹操軍に包囲されながら孤軍奮闘するも、馬を射られて落馬したところを龐徳と馬岱に助けられ、隴西まで逃走する。
- 涼州で再起した馬超は、降伏した韋康とその一族40人余りを殺害する。楊阜らはその報復に、冀城から締め出された馬超の目前で、彼の妻子たちを一人ずつ殺してはその死体を城壁から投げ落とす。その衝撃で馬超は失神した後、歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙の母を手にかける[注釈 79]。同時に、尹奉の家族および本人と王氏(王異)を除いた趙昂の家族を皆殺しにする。その後、救援に駆けつけた夏侯淵により馬超の軍勢は壊滅する。
- 漢中の張魯を頼って以降、馬超が涼州に出兵することはない。馬超と張魯の娘との縁談を阻んだ楊柏は、己に対する馬超の殺意を知ると、兄の楊松に相談して馬超暗殺を企てる。その後、劉璋への救援に名乗りをあげた馬超は葭萌関で劉備軍の張飛と一騎討ちをし、夜戦にまでもつれこむ[注釈 80]。馬超の勇姿に感嘆する劉備の意向を汲み、諸葛亮は策を講じる。賄賂を送られた楊松の讒言によって進退両難に陥った馬超は、李恢の説得を通じて劉備軍に降り、援軍だったはずの馬超に脅され愕然とした劉璋は降伏を決意する[注釈 81]。関羽は馬超の帰順を知ると、馬超との試合を望む旨を記した書状を諸葛亮に送っている[注釈 82]。
- 定軍山の戦いでは、陽平関を失った曹操軍の加勢に来た曹彰を孟達軍と共に挟み撃ちにし、曹操をして「鶏肋」と言わしめる状況へと追い込んでいる。そして劉備が漢中王となるに従い、五虎大将軍に任じられる[注釈 83]。関羽は黄忠と同格に扱われたことに怒るが、馬超については「代々続く名家だから」という理由で認可する。
- 関羽が龐徳に降伏を迫る際、漢中在住の従兄である龐柔の名を出すが、作中ではさらに馬超にも言及している。関羽の敗死後、逮捕の情報を孟達に知らせるべく彭羕が遣わした使者を、馬超の巡視隊が捕える。事情を知った馬超は彭羕に鎌をかけ、反乱の意思を聞き届けた後にそれを告発している。
- 劉禅の即位に応じて、曹丕が司馬懿の進言で5方面から蜀を攻めようとした時、諸葛亮はその対策の一つとして、羌族からの人望が厚く「神威天将軍」[593][注釈 84]と称される馬超を西平関(架空の関)の守護に当たらせ、脅威を未然に防ぐ[注釈 85]。馬超は南征には従軍せず、陽平関の守備を務めるが、南蛮平定後に死亡したことが語られる[注釈 86]。諸葛亮は腕を折られたような思いでその死を惜しみ、北伐の際には馬超の墓を訪れている。
『後漢演義』
[編集]『後漢演義』は、清代から中華民国時代にかけての小説家および歴史学者である蔡東藩により著された、11部からなる『歴朝通俗演義』のうちの一つである。王莽による簒奪から始まり、禅譲を受けた司馬炎による西晋の建国で終わる構成になっている。蔡東藩の小説は史実に忠実であり[597]、史書を読んでいない読者の思い違いを防ぐために、作中には史実への言及に留まらず、『演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる羅貫中への批判が随所に差し挟まれている[598]。この作風ゆえに馬超に関連する描写はおおむね史書に準じており、馬騰誅殺は潼関の戦い以後に行われ[599]、曹操に対する執拗な追跡や数々の一騎討ちといった場面も存在しない。
しかし蔡東藩は創作面を完全に排除してはいない。渡河の際に馬超があと100歩余りの距離まで曹操に迫る場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順し劉璋を降伏させるまでの経緯など、『演義』の影響を受けている記述も散見される。さらに稗史の記述を元にしたという主張のもと、貂蝉が実在の人物として登場する[600][601]。これは『後漢演義』が、あくまで史書の記述を正としつつも、芸術性が史実の合理性と付合する場合には前者の要素を取り入れることを厭わないためである[602]。
『後漢演義』の各回の末尾に載せられる人物評には、人物の行動に対する是非や歴史から得べき教訓などが含まれている[603]。『三国志』や『演義』のように特定の陣営をとりわけて称える(あるいは貶める)ことはないが、封建思想の影響から、歴史上の人物や事件に対する評価には理想主義的な歴史観が見出される[603]。
馬超は作中において「馬超は猛将、韓遂は愚物であり、両者とも曹操の敵ではない。〔中略〕馬超が強くとも韓遂は愚かだったため、まんまと曹操の計略に掛かった。これぞ用兵が謀略を重んずる所以である」と評されている[604]。また語り手は「馬超は勇烈ではあれど知謀に欠ける」とも評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎め、「劉備に投降せねば己の身すら保てずにいたのに[注釈 87]、どうして曹操の敵たり得ようか」と述べている[606][注釈 88]。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事力に対する評価は一貫して高い[609]。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった[610]。また『後漢演義』は馬超の反乱以後に行われた族滅についても、馬超が親を顧みず私憤で戦ったのを認めた上で、馬騰らを誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている[611][注釈 89]。
京劇
[編集]京劇において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『演義』を題材としており、『反西涼』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている[616][注釈 90]。衣装には黒い紋様があしらわれた重孝(喪服)を用いるが[619][620]、張飛との戦いにおいては青を基調とした衣装を纏い[618]、夜戦時には盔頭(かぶりもの)をつけず、白い箭衣を着た「短打武生」となる[618][621][622]。端麗な若者として登場するため[354]、隈取りはせず、ひげもつけない[623][注釈 73]。
『耳談』
[編集]万暦年間に刊行された筆記小説集である王同軌『耳談』[注釈 91]およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。あらすじとしては、新都の参議である楊廷儀[注釈 92]が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると[注釈 93]、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘する。楊廷儀は吉兆の験ありと見なして、その地を選ぶと、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に出て、墓を荒らさないよう注意する。楊廷儀が意に介さないでいると、今度は武装した馬超が夢に現れ、楊廷儀の両目を射潰す。盲目になった楊廷儀はそれでも諦めず、とうとう怒った馬超が「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と宣告する。後日、楊廷儀の家族が強盗殺人を犯し、彼らは凌遅刑を科される。楊廷儀はそれに連座して、棄市[注釈 94]の刑に処せられてしまう、という話である[635]。
王同軌はこの話を、劉采の縁戚であり、王同軌自身の姻族でもある保昌県令の劉子敦から取材している[636][637]。物語の後に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。次いで馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに言い及び、『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察している。そして、子孫のためにありもしないことを画策するのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている[638]。
また『耳談類増』所載の「漢将軍墓」という話では、酒盛りをしていた蜀の人々が、無名の将軍の墓があった場所をそうとは知らずに荒らしてしまい、ポルターガイストに遭遇する。ここでも「〔某将軍の墓は〕耕作者によりだんだんと侵削され、すでになくなっている。しかし城郭の中では、依然として霊異がこのように現れるのだから、馬孟起が弓矢をもて人を盲にせしめるのに、なんの不思議があろうか」と、「漢左将軍馬超墓」に登場した馬超への言及がある[639]。
家族
[編集]羌女 | 馬平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⚫︎ | 馬騰 | ⚫︎ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⚫︎ | 馬岱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楊氏 | 馬超 | 董氏 | 馬休 | 馬鉄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⚫︎ | 馬秋 | 劉備 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馬承 | 女 | 劉理 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 祖父は馬平[640][注釈 95]。父は馬騰[17]。弟は馬休[641]・馬鉄[17]。従弟は馬岱[642]。妻は楊氏[202][643]・董氏(妾)[644]。子は馬秋[645]・馬承[646]のほか、冀城で殺害された子が少なくとも1人存在する。娘は劉理の妻[647]。
- 家系図は『三国志』巻25楊阜伝・楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』・巻34劉理伝・巻36馬超伝・馬超伝注引『典略』より作成。
関連作品
[編集]馬超が主要人物となる作品
[編集]- 小説
- 周大荒『反三国志演義』(河北人民出版社、1987年。ISBN 7202000024;渡辺精一訳、講談社、1991年。ISBN 9784062053020)
- 北方謙三『三国志』(角川春樹事務所、1996年 - 1998年)
- - 馬超は時代を傍観する「個」として、作者により特殊な立場に置かれている[650]。
- 渓由葵夫『馬超風雲録』(小学館〈スーパークエスト文庫〉、1997年 - 1998年) - 歴史ファンタジー。
- 風野真知雄『馬超 曹操を二度追い詰めた豪将』(PHP研究所〈PHP文庫〉、2005年。ISBN 9784569663340)
- ゲーム
馬超が登場する主な大衆文化作品
[編集]- 漫画
- 横山光輝『三国志』(潮出版社、1971年 - 1987年)
- 王欣太『蒼天航路』(李學仁原案、講談社、1994年 - 2005年)
- 陳某『火鳳燎原』(東立出版社、2001年 - ;メディアファクトリー、2005年 - 2009年)
- 『不是人貳』(2021年) - 馬超に焦点を当てた外伝短編。「人でなし」として、『不是人』(1998年)の主役の一人である呂布と重ねられる[651]。
- ゲーム
- 三國志シリーズ(光栄/コーエー/コーエーテクモゲームス、1985年 - )
- 真・三國無双シリーズ(コーエー/コーエーテクモゲームス、2000年 - )
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 隴山以西の地域[1]。金城・隴西・漢陽などの郡が置かれた涼州東部も含め[2]、漢代においては実質的に涼州に対する呼称となっている[1]。隴西とも称される[3]。関中と合わせた一帯を関隴という。
- ^ ド・クレスピニーは馬超の子および弟の本貫を全て隴西に置き[23]、また妻たちの本貫も隴西と想定している[24]。
- ^ 両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李傕と不仲になった馬騰に韓遂が味方した興平元年(194年)から鍾繇が司隷校尉に任じられた年までの間とする[33]。後者の年代は建安2年(197年)頃と見られる[34]。
- ^ 韋端もまた説得を受けて曹操側に加担することを決めた人物である[38][39]。韋端が太僕となると子の韋康が後を継いだが、州牧から州刺史に格下げとなり、軍権を奪われる形で、曹操陣営内に組み込まれている[40]。
- ^ ド・クレスピニーによれば、本拠地はあくまで漢陽地区だった[46]。
- ^ この怪我の逸話は、清代に編纂された『日下旧聞考』において、銚期と共に強勇の例として引かれている[54]。銚期が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『後漢書』および『東観漢記』に見える[55]。
- ^ 白亮は、実権のない官職と見なしている[33]。
- ^ a b 陳亮は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか」[59]
- ^ 己の宗族や子弟を人質として鄴に遣ることで服属を示す例は、李典や臧覇にも見られる[71][72]。
- ^ 『資治通鑑』の注釈者である胡三省曰く、「曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというのは、伐虢取虞(=仮道伐虢)の計だ。思うに、馬超・韓遂を討つ名分がないから、まず張魯を攻めるふりをして背くよう促し、それから侵攻しただけのことである」[85][86]。
- ^ 厳幹が太守を務めていた[95][96]。弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、賈逵を弘農太守に任じた[97][98]。
- ^ 一族に楊姓を冠する者がいるため、千万は「楊千万」とも称される[101][102]。
- ^ 劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため、曹操に背いた[107]。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後[108]、張魯が敗れると再び曹操に降った[109]。「劉雄」という表記も見られる[110]。
- ^ この時の難民の中には、三輔から逃れてきた扈累や寒貧といった隠士もいた[115]。
- ^ 『曹瞒伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで婁圭の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという[139]。裴松之はこの逸話を否定している[135]。
- ^ 許褚の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許褚ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯は、どちらにあるか」と尋ねたともいう[130]。司馬光は、許褚が馬超の奇襲を防いだことについて、「〔単馬会語の〕時に馬超は韓遂と共にいなかったために韓遂を疑ったのだから、この話はでたらめだ」と述べる[144]。盧弼は「韓遂・馬超はそれぞれ別に単馬会語に臨み、〔曹操は〕馬超と話す際にはその武勇を考慮して、許褚を随えていたのかもしれない」と推測している[145]。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗[146])の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた(曹操を捕える練習をしていた)。それを知った曹操は長いこと嘆息して、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという[147]。
- ^ 韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言ったのか」と馬超が問うと、韓遂は「何ということはない」と答えた[138]。これについて盧弼は「曹操が韓遂と話した時、馬超はやや距離をとっていて、会話が聞こえなかったのかもしれない」と推測している[148]。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと周囲に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた[133][149]。
- ^ 『太平御覧』に引く傅玄『乗輿馬賦』には、馬超が蘇氏の塢(城堡)を破ったという記載がある。この事績の年代は不明だが、後半の引用文には「その後〔中略〕馬超は渭南で戦い」とある[151]。
- ^ 馬超は安定に至ったという[11]。同じく楊秋も安定に逃れたが[152]、10月にはその地で包囲され、曹操に降伏した[154]。その後復位し、現地住民の慰撫を任された[51][133]。
- ^ 隴西・南安・漢陽・永陽[157][158]。
- ^ 竇武の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している[161][162]。
- ^ この時期を建安18年(213年)とする研究もある[164]。これは史書の記述に混乱があるためである。『三国志』楊阜伝をもとにすれば、再起の年月は建安17年(212年)1月である。同書董卓伝にも「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に再起している。また『後漢書』献帝紀によれば、建安17年5月の族滅の後、同年8月に韋康が殺害されたため、建安17年に再起したことになる[165]。一方、『三国志』武帝紀の記述に従えば、馬超が再起したのは建安18年である。『資治通鑑』は建安18年とする。
- ^ 天水では姜・閻・任・趙の四姓が有力だった[113][170]。天水の豪族の意向は統一されておらず、親曹操(韋康)派・反曹操派とで分裂していた[171]。
- ^ 飯田は、入朝した閻行の父が潼関の戦い以後も殺されずにいたことを根拠に、馬超が帰順する可能性を踏まえて人質の処刑が留保されていたのではないかと推測する[179]。また『後漢書』および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年(212年)5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである[180][181]。
- ^ 『三国志』の撰者である陳寿は、閻温を春秋時代の人物である解揚に準えた。楚が宋を攻めた際、晋は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、解揚がその君命を帯びたが、その道中で捕捉された。楚王は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を死守せんとする己の意気を訴えた。楚王は、臣下たちの反対を押し切って解揚を許した[184]。
- ^ a b 『三国志』楊阜伝によれば、楊昂に韋康と太守を殺させたという[187]。皇甫謐『列女伝』趙昂妻異伝には「馬超が約束に背き韋康を殺害した」とある。
- ^ 曹操が鄴に帰還した後、長安に駐屯していた[110][189]。梁興ら残党は関中諸県で略奪を働いていたが、鄭渾による治安強化により勢力を弱め、鄜(左馮翊)で夏侯淵に斬られた[190]。夏侯淵伝では、梁興が斬られた場所は鄠(右扶風)となっている。また武帝紀によると、馬超の残党である梁興らは藍田に駐屯し、夏侯淵に平定されたとあるが、『資治通鑑』は、藍田に駐屯したのは梁興ではなく馬超とする[191]。ド・クレスピニーは、梁興は藍田におらず、鄜で死亡したとしている[192]。また馬超は涼州にいるため、おそらく藍田にいた勢力が馬超に与していたのであり、夏侯淵による攻撃時には馬超本人は不在だったと推測している[192]。
- ^ 潼関の戦いの際、夏侯淵が朱霊に平定させていた[193]。
- ^ 夏侯淵が興国を包囲した際、阿貴は死亡したが、千万は馬超の下へ逃げた[110][196]。
- ^ 林恵一によれば、いわゆる「列女伝」とは説話を出自に持つ「列女説話」とも呼べるもので、客観的・批評的観点から発生したのではなく、願望・期待を交差させながら発展していったものだという[204]。兪樟華・婁欣星によれば、古代の雑史に記された『列女伝』のような女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、男性中心社会において婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして逸話の典拠は主に文芸作品、野史、世間の噂などであるため、官吏に関する一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる[205]。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法に似ると分析する。そして、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている[206]。
- ^ この反乱の時期について、司馬光は楊阜伝の記述(建安17年9月)を誤りとし、また武帝紀の記述(建安19年1月)も退けているため、『資治通鑑』では建安18年の出来事となっている[207]。盧弼は司馬光の解釈に則り、楊阜らが反乱した時期は建安18年9月だとしている[208]。
- ^ 馬超の妻子殺害の詳細については、武帝紀・夏侯淵伝に記載がある。楊阜伝には「馬超の妻子を討った」とだけ記され、『列女伝』には殺害そのものに関する記述がない。また、夏侯淵伝には趙衢らが馬超を騙して出撃させたとあるが[211]、楊阜伝および『列女伝』ではそのような描写はない。
- ^ 後日、姜叙の母のことを聞いた曹操は、彼女を楊敞の妻に比して称賛したという[39][212]。『三国志』楊阜伝において、馬超が殺害したと書かれるのは姜叙の母のみだが、『列女伝』姜叙母伝は、馬超は姜叙の母だけでなく彼女の子も殺害し、さらに城へ放火したとする。
- ^ 師君(張魯)に次ぐ位である[219][220]。
- ^ この箇所に該当する原文は「又魯將楊白等欲害其能」だが、『資治通鑑』は「楊白」を「楊昂」に、また「欲」を「数」に作る[229]。また『続後漢書』も同様に「楊昂」に作るが、さらに注釈に「〔『三国志』〕霍峻伝では「楊帛」に作る」とある[230]。現代でも楊白・楊昂・楊帛を同一人物とする見解が存在する[231]。『康熙字典』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある[232]。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫〔中略〕は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」[233]。張寅瀟は、原文の「欲害其能」は意味が通じず、かといって『資治通鑑』の改案「数害其能」もまた不自然であるため、「心害其能」として解すべきだとする[234]。ド・クレスピニーは『資治通鑑』の英訳において、「害其能」を「馬超に嫉妬した」と訳している[235]。
- ^ 県名の由来である沮水は、沮県から陳倉までを結ぶ軍事的に重要な水路だった[249]。この「臨沮」を荊州の臨沮と見なす研究もある[250]。
- ^ 関羽は鬚髯(あごひげとほおひげ)が立派だったため、諸葛亮はこう呼んだ[257]。
- ^ 涼州統治に携わった韋端・韋康父子は宋建政権を黙認していたと見られる[261]。
- ^ 馬超の入蜀時、妾の董氏と子の馬秋は漢中に留まり、張魯を頼っていた。曹操は、董氏を張魯の功曹である閻圃に下げ渡し、馬秋を張魯に引き渡した。張魯はそれを自らの手で殺した[11][279]。
- ^ 武都には羌族・氐族が多く住み、下弁はその郡治である[281]。沮道は下弁と沮県を結ぶ幹線であり[282]、下弁から東南に伸びる[283]。県内でも異民族の居住する場所は「道」と呼ばれる[284][285]。
- ^ 宋傑は任乃強の説を踏まえ、沮道経由・陰平経由の2方向からの進軍行路を提示している[248]。
- ^ 曹休・曹真は精鋭部隊の虎豹騎を率いている[248]。宋傑はこの派兵を、下弁周辺の動向を曹操が重くみた結果だとする[290]。
- ^ 固山の位置については、下弁の北部(甘粛省成県北部)[291]あるいは東南部(成県東南部)[292]の2説がある。宋傑は前者をとる[248]。
- ^ 宋傑は、馬超らは曹洪軍の東進を引き続き妨害したとしており[295]、また曹洪らの援軍が夏侯淵のいる前線に到達するのを防ぎ、劉備ら主力軍の漢中進出を援護したという点において、張飛・馬超の作戦目的は達成されたと見なしている[296]。
- ^ 『華陽国志』には「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞」とあり、関羽だけでなく張飛・馬超にも節鉞が仮されている[257][300]。いずれにせよ、馬超は関羽・張飛と同列に扱われた[247]。
- ^ 斄県は右扶風に属し、後に武功県に改称[309][310]。『説文解字』、『後漢書』李賢注、『通典』、『集韻』、『康熙字典』によれば、「斄」は「邰」と同字で、音は「台(たい)」である[311][312][313]。日本では「たい」[314][315]と「り」[316][317]の2種類の読みが見られる。
- ^ 「虓虎」の出典は『詩経』大雅「常武」[321][323]。「虓虎」が例えるものについては、「馬超の武勇」とする解釈と[322][324]、「勇猛な兵」とする解釈がある[321]。なお「虓虎」は呂布の武勇を称える際にも用いられている[324][325]。
- ^ 原文は「兼董萬里,求民之瘼」。『詩経』大雅「皇矣」には「監觀四方,求民之莫」とある[326]。馬超伝のほか、『漢書』、王符『潜夫論』、『文選』李善注が「莫(定まる)」を「瘼(病む)」に作る[327][328][329][330]。
- ^ これは数え年で計算した年齢であるため、満年齢で計算した場合、誕生日を迎えていれば46歳。
- ^ 劉理が安平王となったのは建興8年(230年)[341]。
- ^ 諡における「威」は「勇猛で剛強、強烈である。剛毅で信ずるにふさわしい」ことを意味する[344]。
- ^ 策命と同様、彭羕の発言には涼州における馬超の働きを見込む向きがある[351]。
- ^ 目上の人間は官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは無礼である。
- ^ 武帝以降、匈奴の衰退に伴い羌族は発展を遂げ、羌族の通婚慣習も相まって、人口増加へと繋がった[379]。人口圧力は往々にして外部への拡張を促す原動力となった[379]。
- ^ 馬援が羌族を三輔に移動させたのを皮切りに、羌族は居住地から切り離されては三輔などの中国内地に徙民され、当地での使役を経て不満を募らせていった[387]。また羌族および他の非漢族の関中への大規模な徙民は、民族間の文化融合には益したとも言えるが、さらに多くの漢族の士人を遠ざけることにも繋がった[388]。
- ^ 計3回にわたった涼州放棄論の立案者のうち、龐参・崔烈は涼州以外の地域出身者である(一人は名前・身元ともに不明[396])。辺境の涼州勢力と政治的中心部の関東勢力は、長期間にわたって対立していた[397]。ただし、東と西、市民と儒者(知識階級)、軍事と内政といった単純な対立構造のみを通してこの問題を解釈することを奨励しない声もある[398]。
- ^ 「秦胡」の定義について、少なくとも非漢族との関連については研究者の間でも見解の一致を見せているが、具体的に何を指すのかは様々に意見が分かれている[415][416][417]。
- ^ 永初元年(107年)および5年(111年)には、 涼州および上郡の住民が関中に移され、永建4年(129年)に戻されたが、この移民集団を構成したのは文化的素養の低い者たちだった[442]。ここでいう文化とは主に学術文化を指す[443]。
- ^ 羌族は多数の小規模集団に分裂しては相互に対立する一方、共通する敵が存在する時には敵対関係を解消して連合する性質があった[452]。漢はこの性質を利用し、分離策を行っていた[453]。
- ^ 『資治通鑑』は「馬超」を「馬騰」に作る[464][465]。
- ^ ド・クレスピニーによれば、楊阜の言う「主君」は曹操を指す[476]。
- ^ 劉邦について、曹植は「その名声は徳行にそぐわず、行動も純粋な道義と合致しない」と述べ、「太公(劉邦の父)を顧みないのは孝の道に悖るものだ」と批判している[493]。朱子彦によると、劉邦の不孝な振る舞いは秦漢時代には特に非難されておらず、曹植が見せたような蔑視は、儒教理念に染まった後漢時代における代表的な反応であるという。父親を顧みないという点において、馬超は劉邦と同類である[494]。
- ^ 趙奢は扶風馬氏の祖といわれる。伯益はそのさらなる祖とされる[496][497]。
- ^ 直前の文で、父の鄭芝龍が降伏した対象である清に抵抗し続ける鄭成功について、徐鼒は伍子胥・田横を引き合いに出し、みな国士の風であると褒めている[508]。また趙苞・劉邦の事例は、『太平御覧』では「戦不顧親」の項目にまとめられている[509]。
- ^ この「柏」は常緑針葉樹で、落葉広葉樹のカシワとは異なり、ヒノキ・サワラ・コノテガシワなどを指す。中国ではマツと並べられることが多い[521]。不滅を象徴し、墓の付近に植えられた[522]。『白虎通義』によれば、天子に松、諸侯に柏をあてがうのが理想とされていたが[523]、漢代以降にはそういった区分はなくなり、一般市民も含め、松柏を合わせて墓に植える風習ができた[524]。
- ^ 雲南省阿迷県の人。『清史稿』に伝がある[526]。光緒31年(1905年)、清朝皇族のとある親王の婿である駐蔵辦事大臣の鳳全が、巴塘のラマにより殺害されるという巴塘事変が起きると、錫良・趙爾豊と共に反乱を鎮圧した[527]。
- ^ 原文は「建安五年」。
- ^ 民間伝承では、張魯の娘は張琪瑛という名であり、馬超に情を寄せたものの、共にいることは叶わなかった。曹宇に嫁いですぐに死去し、漢水付近にある灌子山(または観子山)に葬られたが、晴れた日には、そこから馬超墓を望むことができるのだという[539]。
- ^ 原文は「面如活蟹,目若朗星」[548]。「面如活蟹」は色に関する表現であり、『封神演義』の登場人物である魔礼青および太鸞にも用いられている。
- ^ 元・明代の当時に語られた馬超の物語は、彼の得物を長槍とするもの以外に、飛撾(縄の両端に鉤爪がついた飛び道具)を使うものが流布していたと考えられる[550]。孫勇進は、馬超が弓術に長けるという設定が『演義』に見られないのは、黄忠を弓の名手とするために設定の重複を避けるべく削除されたのではないかと推測している[551]。
- ^ 原文は「面如冠玉,眼若流星,虎體猿臂,彪腹狼腰」。「猿臂」は長い腕で弓の扱いに長けることを示し、「虎體」と「彪腹狼腰」はすなわち「腰細膀寬」、細腰で体格が良いことを表す[553]。
- ^ 原文は「獅盔獸帶,銀甲白袍」。初期の版本には、兜の意匠に関する描写はない[556]。また獅子頭の兜は、明の宮廷演劇でも用いられていた[557]。日本の漫画・ゲームにおける特徴的な兜の造形は、後期の『演義』版本の記述をもとに連環画で描かれた兜の意匠を経て成立したと考えられる[558]。
- ^ a b 呂布・馬超・周瑜の三者は、京劇などの芝居の世界においても二枚目の役柄である[565]。
- ^ 毛宗崗は馬超について、大将の才を持つ他の4人と比較すれば、仁智に欠ける戦将に留まるとしており、五虎将の中では評価が最も低い[569][570]。
- ^ 目上や年長者を尊ぶ中国の伝統に基づき、大衆理念においては「父が英雄ならば息子もまた好漢たるべし」という理屈が生じるが、ここではその順番を入れ替えたものが適用されている[577]。
- ^ 『演義』には様々な版がある。李卓吾本では、馬騰は一族と共に曹操の下に移り、後に暗殺計画を企てたかどで処刑・族滅される[580]。毛綸・毛宗崗父子により編纂された毛宗崗本(現在広く普及する版)では、一族への言及はない。
- ^ 『演義』では、馬超・韓遂以外の8軍閥は韓遂の配下となっている。
- ^ 『平話』にも存在するこの追走劇は雑劇から継承されてきたものと見られるが、雑劇では馬超が降伏した後の逸話となっている[581]。また『演義』では、馬超の武勇は曹操から呂布に匹敵するものとして評価され、楊阜からも韓信・黥布ではなく呂布に準えられている。
- ^ 李卓吾本では、楊阜や姜叙の母が馬超のことを「叛君無父之徒」や「背父叛君,無義之賊」と呼び、「背父無君,逆天之賊」と罵る[582][583]。「無君」および「無父」は、孟子が楊朱・墨子を攻撃する際に用いた語で、それぞれ(極端な個人主義で)主君を無視すること、(無差別な博愛によって)父親を無視することを指し、禽獣に比され指弾の対象となっている[584][585]。このように、李卓吾本では史実における馬超の事績が混在しているが、毛宗崗本は先述の罵倒を部分的に削除することで修正している[582]。
- ^ 馬超がこの時に限り用いる銅錘は、祖先の馬援が飛撾を得意としたという民間伝承およびそれを踏襲した雑劇が由来と見られる[586]。雑劇や『演義』の一部の版本では馬超が「銅撾」を使う描写があるが、毛宗崗本で使用されるのは「銅錘」である[587]。また豫劇の演目『対金抓(収馬岱)』には、馬騰の遺品として雌雄一対の金抓が馬超と馬岱それぞれに受け継がれるという筋がある[588]。
- ^ 井玉貴によれば、歴史上の劉備は、劉璋を降伏させるべく馬超の威力を活用し、さらには兵を補充してそれを強めた。しかし『演義』では仁君としての劉備像を守る目的で、劉備による増兵は描写されなかった[589]。
- ^ 毛宗崗の解釈では、関羽の真の意図は腕比べにはなく、益州諸将の中に己を凌駕する者はいないだろうという馬超の驕りを挫くことにあるのだという[590]。また諸葛亮の賞賛を見て「孔明は私の心を理解している」と言ったのは、褒められて喜んだわけではないという[591]。このような解釈には関羽崇拝のきらいがある[569]。
- ^ 五虎将の序列について、『平話』や『演義』の多くの版本が『三国志』における立伝順(関張馬黄趙)に従う中、毛宗崗本のみが趙雲を3番手に引き上げ、相対的に馬超を降格しているが、上野隆三によれば、これは『演義』で大幅に書き足された趙雲の活躍が馬超・黄忠を上回っており、毛宗崗がそれを反映させたことによる[592]。
- ^ 漢籍全文資料庫(版本:羅漢中撰、毛宗崗批評、饒彬校注『三国演義』三民書局〈中国古典名著〉、1989年)では「神威大将軍」。井波律子は『演義』翻訳のテキストに人民文学出版社の1957年1月刊行のものを用いており[594]、該当箇所の訳は「神威天将軍」である[595]。
- ^ ここにおいての馬超は、諸葛亮の遠謀深慮を描写するための駒である[354]。
- ^ 『演義』において、馬岱は南征以降、馬超のような役割を果たす後継者として設定される[596]。
- ^ 『後漢演義』では、楊伯(楊白)などが馬超に危害を加えようとしている[605]。
- ^ 作中では楊阜が「馬超の驍勇なること、呂布と遜色ない」と述べる[607]。語り手は呂布について、武勇は曹操と敵対するに足ると評する一方でその智謀のなさを指摘しており、曹操にも「無謀な匹夫」と言われる[608]。
- ^ 『後漢演義』の語り手は曹操に対する忠義を評価せず、楊阜の進言について「曹操を国家とするとは、完全に騙されている」と記す[612]。また姜敘の母や王異を女丈夫とする一方、各々に対し「残念ながら理を見るに明らかでない」、「君父の誰たるかを到底理解していない」、さらには「表向きでは忠義を勧めているが、実際のところは一を知って二を知らないのであって、やはり婦女子の見解に過ぎず、取るに足りない」と酷評している[613]。このような姿勢は、毛宗崗も同様である[614][615]。
- ^ 厚底の靴を履き、戦場に立つ武将の場合は靠(鎧)を身につけ、長槍や大刀といった長柄武器を持つ[617]。背部の4本の靠旗は部隊を率いていることを示し、臨戦態勢であることを表現する[618]。
- ^ 『四庫全書総目提要』の解題によると、「この書〔『耳談』〕は異聞を取り集めており、洪邁『夷堅志』の流れを汲んでいる。毎話ごとに語り手を明らかにすることで、信用できる証としているのは、蘇鶚『杜陽雑編』の例を用いたものだ」[624][625]。収録内容は多岐に渡るが、単なる逸聞集に留まらず、官僚の腐敗など当時の社会情勢に対する批判も含まれている[626][627]。後発の小説に与えた影響は大きく、三言二拍や『聊斎志異』などにおいて、『耳談』を基に書かれたとわかる逸話が散見される[628]。
- ^ 楊廷和の弟。朝廷で専横を極めた宦官の劉瑾との交流や、兄を誹謗したという風評により悪名を得た[629]。また兄の政敵である王瓊との関係を理由に、実家からも汚点とされ、記録がほとんど残されなかった[630]。
- ^ 風水では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制の導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にある中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、宋代ですでに生じていた[631][632]。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとまがなかった[633]。
- ^ 公開処刑の後、死体を市中に晒すこと[634]。
- ^ 『演義』では「馬粛」。
出典
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関連項目
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