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黒沢のり子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くろさわ のりこ
黒沢 のり子
本名 正木 則子
別名義 黒沢 妙子
生年月日 (1947-11-28) 1947年11月28日(76歳)
出生地 日本の旗 日本 宮崎県
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ
主な作品
映画
音楽
テレビドラマ
アテンションプリーズ
ダイヤモンド・アイ
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黒沢 のり子(くろさわ のりこ、1947年11月28日[1] - )は、日本の元女優。本名、正木 則子[1]

宮崎県真幸町(現・えびの市)出身[1]淑徳学園高等学校卒業[1]

来歴

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父は電電公社の職員をしていた[2]。きょうだいは兄と弟がいる[2]。父親の転勤により、小学生から中学生時代は宮崎県から東京都埼玉県と居住地を転々とした[2]

1961年より2年間劇団ひまわりに所属[1]

高校卒業後、黒沢 妙子の芸名で東映映画網走番外地 大雪原の対決』などに出演[1]。その後アメリカへ渡り、俳優のジョン・ウェインの娘婿の弟の家に身を寄せる。演劇修業のための渡米だったが、この時は映画には全く興味を示さなかった[2]。その後東京へ戻り、20歳の時に『新劇場』に入り[2]1970年からは東宝テレビ部に所属し『アテンションプリーズ』『ワン・ツウ・アタック!』などのテレビドラマに出演するが、のちに東宝テレビ部を退社[1][注釈 1]。『アテンションプリーズ』当時のプロフィールでは「将来は息の長い女優になることです。自分自身で女優を目指したので全力を尽くします」と述べている[3]

1972年、テレビドラマ『木枯し紋次郎』の第3話「峠に哭いた甲州路」の出演中に葛井欣士郎に見出され[2]、同年の映画『音楽』で主役を演じる[1][5]。『音楽』を監督した増村保造は、「彼女はあまり器用ではなく、ベッドシーンでもすぐに笑い出すなどおかしいところがあったが、注文によく応えてくれた」と評している[5]

1967年から1970年まで、児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件前野光保と結婚していた[6]。その後、再婚を機に芸能界を引退。1973年特撮テレビドラマダイヤモンド・アイ』で共演した大浜詩郎は、2002年に発行された書籍のインタビューの中で「五人の子供の母親になったと聞いている」と述べており[7]、『ダイヤモンド・アイ』の監督の一人である高瀬昌弘は『ダイヤモンド・アイ』同窓会に親子で出席して挨拶されたと述べているが[8]、現在は関係者と連絡が取れない状態となっており、一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている[9]

出演作品

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テレビドラマ

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映画

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1970年のプロフィールでは、劇団新劇場に所属していると報じている[3]。1971年版『出演者名簿』には東宝テレビ部と劇団新劇場の両方に所属していると記載している[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『日本映画人名事典 女優編<上巻>』キネマ旬報社、1995年、647頁。 
  2. ^ a b c d e f 平凡パンチ 1972年9月24日号 p.132 - 136「気になるヤツ」
  3. ^ a b 福島民報』1970年9月30日付朝刊、9面。
  4. ^ 出演者名簿』《昭和47年度版》日本著作権協議会、1971年、158頁。 
  5. ^ a b 『毎日新聞』1972年8月16日付夕刊、7面。
  6. ^ 礫川 (1995, p. 225)
  7. ^ 大全 2002, p. 159.
  8. ^ 大全 2002, p. 141.
  9. ^ 一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構 放送番組に出演された黒沢のり子様をさがしています

参考文献

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  • 礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』批評社、1995年6月。ISBN 4-8265-0190-0 
  • 『レインボーマン ダイヤモンド・アイ コンドールマン大全』双葉社、2002年7月30日。ISBN 4-575-29442-X 

外部リンク

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