忠粛王とは? わかりやすく解説

忠粛王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 04:39 UTC 版)

忠粛王(ちゅうしゅくおう、1294年7月30日 - 1339年5月3日)は第27代高麗王(在位1313年 - 1330年1332年 - 1339年)。姓は王、名は燾。小字は宜孝。第26代王忠宣王の次男で、母は也速真。蒙古名は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ、Aratnašri)[1]諡号忠粛懿孝大王


  1. ^ サンスクリット語रत्न श्री Ratna Śrī」に由来する。和訳すれば、「珍宝、吉祥」。
  2. ^ 『高麗史節要』巻24 忠粛王15年12月条 「王性好潔、一月湯浴之費、諸香十餘盆、苧布至六十餘匹、名曰手巾、多爲内豎所竊、王不之知」
  3. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王即位年閏7月庚寅条 「上王將如元、至黄州、王道上胡跪迎謁、上王曰: 汝之父母皆高麗也、何見我行胡禮? 且衣冠太侈、何以示人? 可速更衣。訓戒嚴厲、王涕泣而出」
  4. ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 濮國長公主 「濮國長公主亦憐眞八剌、元營王也先帖木兒之女。忠粛三年、王在元、娶之。是年冬、與王來。六年薨。殯於延慶宮、追贈靖和公主、遣元尹任子松、如元告訃。郎將李麟、告訃於營王、營王遣使來弔喪、皇太后亦遣中使於侁不花來弔。七年葬。明年、元中書省遣宣使李常志來、囚公主宮女胡剌赤女子及饔人韓萬福、問公主薨故。萬福云: 去年八月、王御德妃於延慶宮、公主妬、被王歐鼻衄。又於九月、王如妙蓮寺、歐公主、於侁夫介等救之。常志遂執胡剌赤女子及萬福等以歸。白元恒・朴孝脩等上書中書省、辨萬福誣告。是年冬、奉安公主眞於順天寺。忠惠四年、元追封濮國長公主」
  5. ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 曹國長公主 「曹國長公主金童、元順宗子魏王阿木哥之女。忠粛十一年、王在元、娶之、明年、與王來。從王幸漢陽龍山、生子、是爲龍山元子。未幾、公主薨於行宮、年十八。元遣左司郞脱必來致奠。忠惠四年、元追封曹國長公主」
  6. ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 慶華公主 「慶華公主伯顔忽都、蒙古女、王在元、娶之。後二年、與王來。五年、開府曰慶華、置官屬。王薨、忠惠再宴公主於永安宮、公主亦邀忠惠宴。及酒罷、忠惠佯醉不出、暮入公主臥内。公主驚起、忠惠使宋明理輩扶之、使不動、且掩其口、遂蒸焉。翌日、公主恥之、欲還於元、使買馬。忠惠命李儼・尹継宗等禁馬市、不得賣馬。元使頭麟等來、進御酒於公主、執忠惠以歸。公主囚贊成事鄭天起於征東省、仍命金之謙權征東省、金資提調都僉議使司。忠惠五年薨、葬以禮。恭愍十六年、元贈諡粛恭徽寧公主」


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