東胤頼とは? わかりやすく解説

東胤頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 07:40 UTC 版)

東 胤頼(とう たねより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。千葉氏の一族。千葉常胤の六男。東氏遠藤氏の祖。胤頼は六男であり従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。


  1. ^ 三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祗候す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。…(『吾妻鏡』治承4年6月27日条)
  2. ^ 安房国を出て、上総国に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。…(『吾妻鏡』治承4年9月13日条)
  3. ^ 下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。…(『吾妻鏡』治承4年9月14日条)
  4. ^ 御奉幣の事終わり還御の後、椀飯有り。抑も今日御神拜之間、供奉人等、廟庭の左右に相分かれ著座す。而るに胤頼父常胤に相對して着す。聊か座の下方に寄ると、人甘心せず。是れ仰せに依って此の如しと。常胤は父たりと雖も六位なり。胤頼は子たりと雖も五品なり。官位は君の授く所なり。何ぞ賞せざるやの由仰せ下さると。この胤頼は、平家天下の権を執る時、京都に候すと雖も、更にその榮貴に諂わず。遠藤左近將監持遠の擧に依って、上西門院に仕う。御給を被り從五位下に叙す。また持遠の好に就いて、神護寺の文學上人を以て師檀と為す。文學伊豆国に在る時同心せしめ、二品に示し申すの旨有り。遂に義兵を擧げ給うの比、常胤に勸め最前に参向せしむ。兄弟六人の中殊に大功を抽んずる者なり。…(『吾妻鏡』文治2年正月3日条)
  5. ^ 上杉和彦「鎌倉幕府の座次に関する覚書」(初出:『日本歴史』648号(2002年)/所収:上杉『鎌倉幕府統治構造の研究』(校倉書房、2015年) ISBN 978-4-7517-4600-4


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