海軍兵学校卒業生一覧 (日本)

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海軍兵学校卒業生一覧 (日本)(かいぐんへいがっこうそつぎょうせいいちらん(にほん))は、海軍兵学校 (日本)の卒業生・修了生の一覧である。なお、原則としてWikipediaに記事が存在する人物を掲載する[1][2]

各人名の表記方法の意味については次の例示を参照のこと。なお同期、同階級については五十音順に配列する。

卒業生

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2名。

 
山本権兵衛海軍大将(2期)
 
斎藤実海軍大将(6期)
 
加藤友三郎元帥海軍大将(7期)
明治14年(1881年9月15日卒業
明治15年(1882年11月10日卒業
明治16年(1883年10月15日卒業
明治17年(1884年12月22日卒業
明治19年(1886年12月7日卒業
明治19年(1886年12月10日卒業
 
鈴木貫太郎海軍大将(14期)
明治20年(1887年7月25日卒業

築地時代の最後の卒業生。

 
岡田啓介海軍大将(15期)
明治22年(1889年4月20日卒業

江田島移転後最初の卒業生。

明治23年(1890年4月22日卒業
 
秋山真之海軍中将(17期)
明治23年(1890年7月17日卒業
明治24年(1891年7月17日卒業
明治25年(1892年7月26日卒業
明治26年(1893年12月18日卒業、31名
明治27年(1894年11月15日卒業、32名

日清戦争に従軍した最も低い期。

明治28年(1895年12月21日卒業、24名
明治29年(1896年12月11日卒業、19名
明治30年(1897年10月18日卒業、18名
明治30年(1897年12月18日卒業、32名
明治29年(1896年)入校、明治31年(1898年12月13日卒業、59名
明治29年(1896年)入校、明治32年(1899年12月16日卒業、113名
 
永野修身元帥海軍大将(28期)
明治31年(1898年)入校、明治33年(1900年12月13日卒業、103名
 
米内光政海軍大将(29期)
明治31年(1898年)入校、明治34年(1901年12月14日卒業、125名
明治35年(1902年12月14日卒業、187名
明治36年(1903年12月14日卒業、185名
 
山本五十六元帥海軍大将(32期)
明治37年(1904年11月14日卒業、192名

卒業を繰り上げて少尉候補生として日露戦争に従軍する。


明治38年(1905年11月28日卒業、169名
明治39年(1906年11月19日卒業、175名
明治40年(1907年11月20日卒業、171名

明治41年(1908年4月30日未明、卒業後の遠洋航海に際して台湾高雄港内で巡洋艦松島が爆沈し候補生33名が殉職する事故が起きる。

 
栽仁王(36期)。第1種軍装に勲一等旭日桐花大綬章佩用。当時はボタン留。
明治41年(1908年11月21日卒業、190名
明治42年(1909年11月19日卒業、180名
明治43年(1910年7月18日卒業、149名
明治44年(1911年7月18日卒業、148名
明治45年(1912年7月17日卒業、144名
大正2年(1913年12月19日卒業、118名
大正3年(1914年12月19日卒業、117名
大正4年(1915年12月16日卒業、95名
大正5年(1916年11月22日卒業、95名
大正6年(1917年11月24日卒業、89名
大正7年(1918年11月21日卒業、124名
大正8年(1919年10月9日卒業、115名
大正9年(1920年7月16日卒業、171名
大正10年(1921年7月16日卒業、174名

11月入校から7月入校に変更される。

大正11年(1922年6月1日卒業、272名
大正12年(1923年7月14日卒業、255名

士官と同様の長ジャケット型制服に変更される。

大正13年(1924年7月24日卒業、236名
 
伏見宮博信王(53期)
大正14年(1925年7月14日卒業、62名

ワシントン海軍軍縮条約の影響で採用者が激減する。

大正15年(1926年3月27日卒業、68名

ワシントン海軍軍縮条約の影響で引き続き採用者が激減した。戦死者を除き中佐以下で終戦を迎える。

昭和2年(1927年3月28日卒業、120名

53期、54期で激減した採用者は52期の半分程度にまで復活した。

昭和3年(1928年3月18日卒業、111名
昭和4年(1929年3月27日卒業、122名
昭和5年(1930年11月18日卒業、113名
昭和6年(1931年11月17日卒業、123名
昭和7年(1932年11月19日卒業、127名
昭和8年(1933年11月18日卒業、116名
昭和9年(1934年11月17日卒業、125名
昭和11年(1936年3月19日卒業、124名
昭和12年(1937年3月23日卒業、160名
昭和13年(1938年3月16日卒業、187名
昭和13年(1938年9月27日卒業、219名
繰り上げ卒業となる。
昭和11年(1936年4月1日入校、昭和14年(1939年7月25日卒業、248名
昭和12年(1937年4月1日入校、昭和15年(1940年8月7日卒業、288名
昭和13年(1938年4月1日入校、昭和16年(1941年3月25日卒業、343名

在学期間が3年となる。

昭和13年(1938年)12月入校、昭和16年(1941年11月15日卒業、432名
昭和17年(1942年11月14日卒業、581名
昭和15年(1940年12月1日入校、昭和18年(1943年9月15日卒業、625名

露語の教育が廃止される。

昭和16年(1941年12月1日入校、昭和19年(1944年3月22日卒業、902名
昭和17年(1942年12月1日入校、昭和20年(1945年3月30日卒業、1024名

採用生徒数が1000名を超える。兵学校始まって以来、初の在校生徒の戦死者が出る。

昭和18年(1943年12月1日入校、昭和20年(1945年10月1日卒業

敗戦により閉校する事が決定したため、急遽、卒業式を行い75期生には卒業証書を、それ以降の生徒には修了証書を与えた。

(生徒)

海軍兵学校予科

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(予科生徒)

海兵士官学校より転入

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機関科

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留学

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退寮・退学

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脚注

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  1. ^ 海軍兵学校を考える会によってほぼ完全な一覧が作成されている。
  2. ^ 江田島市江田島町津久茂の品覚寺には、同寺を訪れた海軍兵学校の生徒が名前を記すとともに心境などを書き添えた「津久茂帳」と呼ばれる記名帳があり、明治37年(1904)から昭和20年(1945)までの記名簿は21冊、記録された名は3000人余りにのぼ