カール=ハインツ・ルンメニゲ
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バイエルン・ミュンヘンCEO時代(2015年2月) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Kalle(カーレ)[1]、Mr.ヨーロッパ | |||||
ラテン文字 | Karl-Heinz Rummenigge | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1955年9月25日(69歳) | |||||
出身地 | リップシュタット | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1974-1984 | バイエルン・ミュンヘン | 310 | (162) | |||
1984-1987 | インテル・ミラノ | 64 | (24) | |||
1987-1989 | セルヴェット | 50 | (34) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1986 | 西ドイツ | 95 | (45) | |||
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カール=ハインツ・ルンメニゲ[2](Karl-Heinz Rummenigge、1955年9月25日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手。元西ドイツ代表。ポジションはFW。主にブンデスリーガのFCバイエルン・ミュンヘンでプレーした。1980年、1981年と2度のバロンドールを受賞し[3]、その著しい活躍から『ミスターヨーロッパ』とも称えられた[4]。引退後は、バイエルン・ミュンヘンの重職を歴任している。弟のミヒャエル・ルンメニゲはJリーグ、浦和レッズでもプレーした。
経歴
[編集]クラブ
[編集]1955年、ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれた。1963年、地元のボルシア・リップシュタットでサッカーを始めた[5]。子供の頃のアイドルはサンドロ・マッツォーラだった[5]。10代の頃、ここでの活躍はドイツ国内で知れ渡るようになっていた[5]。
18歳の頃にはバイエルン・ミュンヘン、シャルケ04、ボルシア・ドルトムントなど、ブンデスリーガの14チームからオファーを受けた[5]。一番最初のオファーはバイエルンであったが、周囲の人間たちからは、バイエルンはいい選手が揃っているので、加入しても出場出来ないだろうと言われ、ボルシア・リップシュタットの監督に相談したところ、バイエルンに行くことを勧められた[5]。1974-75シーズン、デットマール・クラマーの勧誘によりバイエルン・ミュンヘンに入団。 ブンデスリーガへのデビューは、1974年8月24日のオッフェンバッハ戦[5]。9月7日、ポカールのVfBシュトゥットガルト戦で公式戦でのプロ初ゴールを決めた[5]。リーグ第4節の1.FCケルン戦でブンデスリーガ初ゴールを決めた[5][6]。このシーズンは、リーグ戦の25試合に出場、4得点[5]。また、同シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、4試合に出場し、無得点であったが、大会初優勝を果たした[5]。
1975-76シーズンからレギュラーポジションを掴み[5][1]、UEFAチャンピオンズカップ連覇。インターコンチネンタルカップでも優勝。このシーズンの公式戦50試合に出場、13得点を決めた[5]。10月6日ウェールズ戦で西ドイツ代表デビューを飾った[1]。
1976-77シーズン、インターコンチネンタルカップを連破、このシーズンの公式戦42試合で15得点を挙げた[5]。1977-78シーズン、1977年11月にクラマー監督は解任され、チームはリーグ12位、UEFAカップもベスト16止まりであった[5]。個人としては、公式戦38試合で14得点を決めた[5]。 1979-80シーズン、リーグ戦では第34節のアイントラハト・ブラウンシュヴァイク戦でのハットトリックを含む[6]、トータルで26ゴールを決め、初のブンデスリーガ得点王を獲得した[5]。
1980-81シーズン、リーグ戦では第12節の1.FCニュルンベルク戦、第28節のMSVデュースブルク戦、第33節のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦と3度のハットトリックを含む[6]、29ゴールを決め、2度目のブンデスリーガ得点王を獲得した[5]。また、12月にはバロンドール受賞[5]。
1981-82シーズン、2年連続でバロンドール受賞[5]。ブンデスリーガ、DFBポカールの二冠達成した。ポカール決勝の1.FCニュルンベルク戦では1ゴール1アシストを決めて優勝に貢献した[6]。このシーズン、チャンピオンズカップでは、決勝でアストンヴィラに敗れた[5]。1982-83シーズン、公式戦42試合で21得点を決めた[5]。
1983-84シーズン、リーグ戦では第7節のSVヴァルトホーフ・マンハイム戦でハットトリックを[6]、第21節のオッフェンバッハ戦では4ゴールを挙げ[6]、第22節のブレーメン戦では弟のミヒャエルと共にゴールを決めるなど[7]、トータルで26ゴールを決め、ブンデスリーガで3度目の得点王を獲得[5]。ブンデスリーガ、DFBポカール二冠を達成。このシーズンの公式戦42試合で32得点を記録した[5]。このシーズンでバイエルンを退団、以降母国のクラブでプレーすることは無かった。ブンデスリーガでは通算310試合162ゴール[5]、ポカールでは42試合25ゴールの成績を残した[8]。
1984-85シーズン、インテル・ミラノからオファーを受け、8月に、600万ユーロでイタリアのインテルへ移籍[1]。この金額は当時、ディエゴ・マラドーナに次いで、史上2番目に高額な移籍金であった[5]。ここではアルトヴェリ、リアム・ブレイディとチームの攻撃を担った[5]。8月22日のコッパ・イタリア、S.P.A.L.戦で移籍後初ゴールを挙げた[5][6]。セリエA第8節のユヴェントスとのイタリアダービーでセリエA初ゴールを含む2ゴールを挙げた[6][5]。移籍1年目は、リーグ戦26試合で8得点に終わったが、コッパ・イタリアで5得点、UEFAカップでの5得点を決めた[5]。UEFAカップでは準決勝まで進んだが、レアル・マドリードに敗れた[5]。2シーズン目にはリーグ戦では24試合で13ゴール、年間トータルでは19ゴールを挙げたが[6]、3シーズン目はアキレス腱の怪我に悩まされ、年間トータルで僅か24試合6ゴールに終わった[5][6]。インテルからは、契約延長を提示されず、チームを去ることとなった[5]。
1987年、スイスのセルヴェットFCへ移籍し、2シーズン活躍した後の1989年に、33歳で現役を引退[1][5]。
代表
[編集]西ドイツ代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー[5][9]。1977年10月8日のイタリア戦で代表初ゴールを挙げた[5][9]。
1978年、ワールドカップアルゼンチン大会では1次リーグのメキシコ戦でワールドカップ初出場を果たし、2ゴールを決め[9]、2次リーグのオーストリア戦でも1ゴールを決めたが[9]、2次リーグで敗退し、準決勝には進出出来ず、6試合3得点[5]
1980年のUEFA欧州選手権では決勝のベルギー戦でホルスト・ルベッシュの決勝ゴールをアシストして優勝に貢献した[9]。
ワールドカップスペイン大会では1次リーグのアルジェリア戦で1ゴール[9]、チリ戦ではハットトリックを決め[9]、準決勝のフランス戦の延長戦でもゴールを決め[9]、決勝進出したが、決勝のイタリア戦ではゴールを決められず、チームも敗れて準優勝に終わった。
1986年、ワールドカップメキシコ大会決勝のアルゼンチン戦でもゴールを決めたが、2-3と敗れた[9]。大会後代表を引退、同試合が代表最後の出場であった。
1982年、1986年大会とも怪我を抱えながらの出場ながら、3大会で計19試合に出場して9ゴールを挙げ[10]、2度決勝に進出したが、どちらの大会とも敗れ準優勝に終わった。代表通算では95試合45ゴールの成績を残した[9]。
引退後
[編集]1990年からドイツ公共放送連盟(ARD)の解説者を務めた。翌1991年、バイエルン・ミュンヘンに副会長として復帰[1]、2002年、フランツ・ベッケンバウアーの後任として同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任[1]。2021年6月をもって勇退した[11]。
2004年に、ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人(FIFA100)に選出される。
エピソード
[編集]- 1993年から1995年に浦和レッドダイヤモンズに所属していたミヒャエル・ルンメニゲは実弟にあたる[7]。
- 自身が代表取締役をつとめるバイエルン・ミュンヘンは、2006年に浦和レッズとパートナーシップを締結、同年7月31日には埼玉スタジアムで行われた両チームの親善試合に、バイエルンOBチームの一員として試合に参加して2ゴールを挙げる活躍を見せた[12]。
- まだ無名だった頃、1975年1月にバイエルンミュンヘンの一員として来日、1月7日の日本代表との試合では開始1分でゴールを決めている。
個人成績
[編集]クラブ
[編集]クラブ | シーズン | リーグ | リーグ | カップ1 | 国際大会2 | その他3 | 合計 | |||||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
バイエルン | 1974–75 | ブンデスリーガ | 21 | 5 | 3 | 1 | 4 | 0 | — | 28 | 6 | |
1975–76 | 32 | 8 | 7 | 2 | 9 | 3 | 2 | 0 | 50 | 13 | ||
1976–77 | 31 | 12 | 5 | 2 | 6 | 1 | 4 | 0 | 46 | 15 | ||
1977–78 | 29 | 8 | 3 | 0 | 6 | 6 | — | 38 | 14 | |||
1978–79 | 34 | 14 | 2 | 0 | — | 36 | 14 | |||||
1979–80 | 34 | 26 | 3 | 5 | 10 | 5 | 47 | 36 | ||||
1980–81 | 34 | 29 | 3 | 4 | 8 | 6 | 45 | 39 | ||||
1981–82 | 32 | 14 | 7 | 7 | 9 | 6 | 48 | 27 | ||||
1982–83 | 34 | 20 | 2 | 0 | 6 | 1 | 42 | 21 | ||||
1983–84 | 29 | 26 | 7 | 4 | 6 | 2 | 42 | 32 | ||||
通算 | 310 | 162 | 42 | 25 | 64 | 30 | 6 | 0 | 422 | 217 | ||
インテル | 1984–85 | セリエA | 26 | 8 | 9 | 5 | 9 | 5 | — | 44 | 18 | |
1985–86 | 24 | 13 | 6 | 2 | 9 | 3 | 39 | 18 | ||||
1986–87 | 14 | 3 | 5 | 2 | 5 | 1 | 24 | 6 | ||||
通算 | 64 | 24 | 20 | 9 | 23 | 9 | — | 107 | 42 | |||
セルヴェット | 1987–88 | スーパーリーグ | 28 | 10 | — | — | 28 | 10 | ||||
1988–89 | 32 | 24 | 4 | 0 | 36 | 24 | ||||||
通算 | 60 | 34 | 4 | 0 | — | 64 | 34 | |||||
総通算 | 434 | 220 | 62 | 34 | 91 | 39 | 6 | 0 | 593 | 293 |
代表
[編集]- 1976-1986 西ドイツ代表 95試合45得点
- FIFAワールドカップ出場 3回(1978アルゼンチン大会、1982スペイン大会、1986メキシコ大会)
- UEFA欧州選手権出場 2回(1980イタリア大会、1984フランス大会)
西ドイツ代表[17] | ||
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年 | 出場 | 得点 |
1976 | 2 | 0 |
1977 | 6 | 1 |
1978 | 12 | 4 |
1979 | 8 | 5 |
1980 | 10 | 4 |
1981 | 11 | 9 |
1982 | 13 | 9 |
1983 | 10 | 8 |
1984 | 8 | 1 |
1985 | 6 | 3 |
1986 | 9 | 1 |
Total | 95 | 45 |
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ブンデスリーガ : 1979–80、1980–81
- ヨーロピアン・カップ : 1975、1976
- インターコンチネンタルカップ : 1976
代表
[編集]個人
[編集]- 欧州年間最優秀選手 2回(1980、1981)
- ドイツ年間最優秀選手賞 2回(1980、1981)
- ブンデスリーガ得点王 3回(1980、1981、1984)
- スイスリーグ得点王 1回(1989)
- ワールドカップスペイン大会ブロンズボール賞 1回(1982)
国際サッカー歴史統計連盟
- 20世紀世界最優秀選手 35位 (国際サッカー歴史統計連盟選出 1999)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 35位(ワールドサッカー誌選出 1999)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “カール=ハインツ・ルンメニゲ”. fcbayern.com. 4 August 2020閲覧。
- ^ 日本のメディアではルムメニゲと表記する場合がある。
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
- ^ ““ミスター・ヨーロッパ”ことカール=ハインツ・ルンメニゲのセンスが凝縮されたリフティングゴール!”. web.ultra-soccer.jp. 4 August 2020閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj “Karl-Heinz Rummenigge, l'inarrestabile panzer dai muscoli di cristallo”. GOAL (2022年9月25日). 2023年8月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Karl Heinz Rummenigge All goals”. www.transfermarkt.com. 4 August 2020閲覧。
- ^ a b “浦和でも活躍したルンメニゲのアクロバティックなアウトサイドボレー”. web.ultra-soccer.jp. 4 August 2020閲覧。
- ^ “Karl Heinz Rummenigge Karrier”. www.kicker.de. 4 August 2020閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Karl Heinz Rummenigge National team”. www.transfermarkt.com. 4 August 2020閲覧。
- ^ “歴代最強イレブン ドイツ 特集 カール=ハインツ・ルンメニゲ”. www.jiji.com. 4 August 2020閲覧。
- ^ “バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏”. Soccer-king (2021年6月1日). 2022年1月6日閲覧。
- ^ “FCバイエルン・ミュンヘン パートナーシップ”. www.urawa-reds. 4 August 2020閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Rummenigge” (ドイツ語). Fussballdaten.de. 8 July 2012閲覧。
- ^ Arnhold, Matthias (21 December 2005). “Karl-Heinz Rummenigge – Matches and Goals in Bundesliga”. RSSSF. 11 May 2013閲覧。
- ^ Haisma, Marcel (31 July 2008). “Karl-Heinz Rummenigge – Matches in European Cups”. RSSSF. 11 May 2013閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Rummenigge » Club matches”. World Football. 5 May 2018閲覧。
- ^ Mamrud, Roberto (2 November 2002). “Karl-Heinz Rummenigge – Goals in International Matches”. RSSSF. 11 May 2013閲覧。