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パウル・ブライトナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パウル・ブライトナー
2011年のブライトナー
名前
愛称 狼男
ラテン文字 Paul Breitner
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1951-09-05) 1951年9月5日(73歳)
出身地 コルベルモール
身長 176cm
体重 73kg
選手情報
ポジション MF/DF
利き足 左足
ユース
1957-1961 ドイツの旗 SV-DJKコルベルモール
1961-1970 ドイツの旗 ESVフライラッシング
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1970-1974 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 109 (17)
1974-1977 スペインの旗 レアル・マドリード 84 (10)
1977-1978 ドイツの旗 アイントラハト・ブラウンシュヴァイク 30 (10)
1978-1983 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 146 (66)
通算 369 (103)
代表歴
1968-1970 西ドイツの旗 西ドイツユース 16 (1)
1971  西ドイツ U-23 1 (0)
1971-1982 西ドイツの旗 西ドイツ 48 (10)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パウル・ブライトナーPaul Breitner1951年9月5日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・コルベルモール出身の元サッカー選手。元西ドイツ代表。ポジションはミッドフィールダー、またはディフェンダー

1981年度バロンドールの投票ではカール=ハインツ・ルンメニゲに次いで2位に選ばれた[1]

経歴

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現役時代(1982年)

主に左サイドバックを担当。所属クラブや西ドイツ代表では若い頃から中心選手として活躍していた。1974年の1974 FIFAワールドカップでは1次リーグのチリ戦、2次リーグのユーゴスラビア戦でそれぞれ1ゴール[2]、決勝では0-1とオランダにリードされた場面で得たPKを決め、チームは優勝を果たした。1975年10月のギリシャ戦を最後に個人的な理由から代表を退いていたが、1981年4月オーストリア戦で約8年振りに代表複帰、1982年のスペインW杯直前に西ドイツ代表に復帰すると、主将としてチームを決勝まで導いた。決勝のイタリア戦で1ゴールを挙げたが[2]、1-3と敗れた。

また、出場した2つの異なるワールドカップ決勝でゴールを決めている数少ない選手であり、これを達成した選手はブライトナーを除いてババペレジネディーヌ・ジダンキリアン・エムバペの4選手しかいない。

天然パーマに髭を生やした厳つい風貌、天邪鬼な性格、政治に強い関心を持ち「愛読書は毛沢東語録」と公言する異端さで知られた。

2007年よりFCバイエルン・ミュンヘンの主に選手移籍などを担当する顧問として活躍している。

タイトル

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クラブ

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バイエルン・ミュンヘン
レアル・マドリード

代表

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西ドイツ

脚注

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  1. ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
  2. ^ a b Breitner National team”. www.transfermarket. 25 January 2021閲覧。

外部リンク

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