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ガザル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シーラーズのハーフィズの作品

ガザルغزل‎, ḡazal, 簡易的なラテン翻字/英語の綴り: ghazal)は、中東・西アジアから南アジアにかけての地域の文学伝統において、恋愛を主題にした定型抒情詩の一様式、ないし、当該様式にのっとって制作された詩作品である。アラブの古典定型詩カスィーダの一部分から派生し、特にペルシアで発展した。現代南アジアにおいては、ガザル詩を歌詞とする歌謡曲を指すことも多い(#南アジアにおける展開)。なお、様式によらず恋愛詩一般を指す場合もある(#西アジアにおける発祥)。

西アジアにおける発祥

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アラビア語の名詞 ğazal語根ğ-z-l からは「糸紡ぎ」に関係する単語群が派生し、ğazal も原義は「紡ぐこと」である[1]。女性を口説いたり誘惑したりする行為が「糸紡ぎ」に喩えられているうちに、「糸紡ぎ」を指す言葉が「恋愛詩」をも指す言葉になっていったものと推定されている[2]。アラビア語においては、現代でも、恋愛を主題にした抒情詩であれば形式を問わず ğazal と呼び、ペルシア語においても同様の事情が存在する(広義の「ガザル」)[2]。所定の形式、主題を具備したガザル(狭義の「ガザル」)が誕生する発端は、先イスラーム時代(ジャーヒリーヤ時代)にまで遡る[2]

ジャーヒリーヤ時代に遡る伝統的なカスィーダ詩の導入部分に起源を持ち、イスラーム時代以降は単一の主題を扱うキトア詩( قطعة qiṭ‘a 「断片詩」と訳される)の形で多くの作品が作られた[2]。主題としては恋愛が最も多く、求愛者の片思いを歌う[2]。アラブのガザル創始者は、ウマル・イブン・アビー・ラビーア英語版とされており、ジャーヒリーヤの遊牧世界の要素を受け継ぎつつ、独自の恋愛詩を作った[3]アブー・ヌワースは酒を讃える詩(ハムリヤート)とガザルの達人として知られた。ガザルは男女関係にとどまらず、同性愛もテーマにした作品もしばしば読まれた[4]

感情の表現には様式化された象徴や物語が用いられる。また、イスラーム神秘主義の影響もあり、恋人を神と解釈できる場合がある。現在のような詩型となったのはペルシア文学の影響による。ペルシア・ガザルの大家としては、ルーダキールーミーハーフィズがいる[5][6]

詩形

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ハーフィズのガザルの一節が陶地に釉薬で書かれた壁飾り。16世紀末-17世紀前半にダマスカスで制作されたもの。書体はナスターリーグ体ルーヴル美術館蔵。

本節では14世紀ごろのイラン文化圏において完成した、古典的なペルシア語ガザルの規範的枠組みについて述べる。ガザルを構成する基本単位は、間にカエスーラを挟んだ一続きの詩句(ベイト[注釈 1])である[9][7]。ガザルを文字にして書く場合、カエスーラによって分かたれる前半と後半を、続けて1行で書いても2行に分けて書いてもよい。

ひとつのガザル作品は複数のベイトからなり、長さは7から14ベイトのものが多い[9]。各ベイトは、末尾で押韻し、また、同一の韻律を共有する[9]。ベイトの前半と後半で同じ詩句がリフレインされる場合もある[9]。冒頭のベイトは「マトラー(matlaʿ)」と呼ばれ、ベイトの前半と後半が同一の韻を踏む[7]。最後のベイトは「マクター(maqtaʿ)」と呼ばれ、詩人の雅号「タハッロス(taḵallos)」が詠み込まれる[9]

オスマン朝

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オスマン朝では、例外なくほぼすべてのスルタンが自ら詩作に耽り、宮廷や高官は競って詩人を庇護した[8]。オスマン朝詩はペルシア語詩の古典を模範として、トルコ語の構造と文法を残しながらアラビア語やペルシア語の詩的語彙を大量に取り入れた[8]。オスマン朝において、教養人は皆、メドレセで高度な古典教養を学び、ガザル制作のための練達の技巧を身につけた[8]。16世紀にはバーキーフズーリーといった詩人が活躍した[8]。17世紀後半チューリップ時代には、アフメト・ネディムなどが優れたガザルを制作した[7]

南アジアにおける展開

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南アジア(インド)においては、12世紀のガズナ朝から19世紀のムガル朝に至るイスラーム王朝の宮廷語であるペルシア語で盛んにガザルが作られていたが、時代が下るにつれ現地語でも作られるようになった[10]。17世紀後半にはハイダラーバードを中心に、ニザーム王国マイソール王国といったデカンの王国の宮廷で、「レーフタ英語版」によりインド風の表現を用いたガザルが作られていた[11]。中でもワリー・モハメド・ワリーはウルドゥー語ガザルの創始者とみなされる[11]。「レーフタ」はウルドゥー語やダカニー・ウルドゥー語の前身となった言葉である。ワリーはあるとき北遊してデリーの詩会でダカニーによるガザルを披露した。それまでペルシア語で詩作していたムガル朝の文人たちは刺激を受け、盛んにウルドゥー・ガザルを制作するようになった。18世紀にはデリーや、アワド太守の宮廷があるラクナウでウルドゥー・ガザルが盛んになり、18世紀から20世紀にかけての時代、ミールサウダー英語版ザウク英語版ガーリブイクバールなどの詩人が活躍した[10]

20世紀前半にはアトゥルプロサド・セン英語版カジ・ノズルル・イスラムらによってベンガル語でもガザルが制作され始めた[12][13]。1910年代に軍人としてカラーチーにも滞在した反逆の詩人ノズルルは、1920年代後半からガザルの制作を始め、ウルドゥー・ガザルの様式を利用してベンガル語で愛をうたった[12][13]。ノズルルのガザルは、詩人独自のタール英語版(韻律)を伴うものもあり、ベンガル詩の可能性を拓いた[12]

インドやパキスタンでは、現在も恋愛詩として鑑賞されている。特にウルドゥー語のガザルはカッワーリーなどの歌曲に用いられ、映画で使われることも多い。

歴史的には主に西アジアから南アジアにかけての地域に伝播したが、1990年代半ばから英語でもガザルによる詩作が盛んになりつつある[14]

注釈

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  1. ^ ペルシア語: beyt; 英語では couplet と訳され[7]、日本語では(1行ではあるが)「」と訳されることが多い[8]

出典

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  1. ^ Translation and Meaning of غزل”. Almaany English Arabic Dictionary. 2017年9月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e De Bruijn, J. T. P. (15 December 2000). "ḠAZAL i. HISTORY,". Encyclopaedia Iranica. Vol. X. pp. 354–358. 2017年10月24日閲覧
  3. ^ 関根 1979, pp. 200–201.
  4. ^ 関根 1979, pp. 202–204.
  5. ^ ハーフィズ 1976.
  6. ^ 関根 1979, p. 205.
  7. ^ a b c d Ottoman Lyric Poetry: An Anthology. Publications on the Near East. Walter G. Andrews, Najaat Black, Mehmet Kalpakli. University of Washington Press. (2011-10-01). pp. 392. ISBN 9780295800936. https://books.google.co.jp/books?id=u9YTCgAAQBAJ&lpg=PP1&hl=ja&pg=PA17#v=onepage&q=gazel&f=false 2017年10月27日閲覧。  p.17
  8. ^ a b c d e ビタール, テレーズ『オスマン帝国の栄光』鈴木董監修、創元社〈知の再発見双書51〉、1995年11月10日。ISBN 4-422-21111-0  pp.175-179. (「詩:オスマン朝の一伝統」の節)
  9. ^ a b c d e Yarshater, Ehsan (15 November 2006). "ḠAZAL ii. CHARACTERISTICS AND CONVENTIONS,". Encyclopædia Iranica. 2017年10月24日閲覧
  10. ^ a b 鈴木, 斌 (1968). “詩人ガーリブに就て”. 印度學佛教學研究 17 (1): 358-361. doi:10.4259/ibk.17.358. 
  11. ^ a b Kanda, K.C. (1992). Masterpieces of Urdu Ghazal from the 17th to the 20th Century. Sterling Publishers Pvt. Ltd. p. 18. ISBN 9788120711952. https://books.google.com/books/about/Masterpieces_of_Urdu_Ghazal.html?id=fUKKvNDYyUEC&redir_esc=y 
  12. ^ a b c Islam, Rafiqul (2012). “Kazi Nazrul Islam”. In Islam, Sirajul; Jamal, Ahmed A.. Banglapedia: National Encyclopedia of Bangladesh (Second ed.). Asiatic Society of Bangladesh. ISBN 984-32-0576-6. http://en.banglapedia.org/index.php?title=Islam,_Kazi_Nazrul 2017年10月25日閲覧。 
  13. ^ a b Chaudhuri, Dilip (22 September 2006). “Nazrul Islam: The unparalleled lyricist and composer of Bengal”. Press Information Bureau, Government of India. 2017年10月25日閲覧。
  14. ^ Arif Waqar (2015年3月22日). “Writing Ghazal in English”. 2017年9月17日閲覧。

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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  • Urdu poetic forms
  • A Desertful of Roses The Divan-e Ghalib - in Urdu, with Devanagari and Roman transliterations. Also includes a collection of concise commentaries on each verse by well-known scholars, as well as other critical information.
  • The Ghazal Page, an online journal devoted to the ghazal in English