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リッキー・ヘンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リッキー・ヘンダーソン
Rickey Henderson
2009年8月1日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州シカゴ
生年月日 (1958-12-25) 1958年12月25日(65歳)
身長
体重
5' 10" =約177.8 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1976年 ドラフト4巡目
初出場 1979年6月24日
最終出場 2003年9月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ニューヨーク・メッツ (2006 - 2007)
殿堂表彰者
選出年 2009年
得票率 94.80%
選出方法 全米野球記者協会選出

リッキー・ヘンリー・ヘンダーソンRickey Henley Henderson, 1958年12月25日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴの元プロ野球選手外野手)。左投右打。

他の追随を許さない盗塁数、先頭打者としての出塁率の高さなどは評価が高く、しばしば「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」「盗塁男(Man of Steal)」と呼ばれる。

経歴

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1958年のクリスマスイリノイ州シカゴで病院へ行く途中の車の後部座席で生まれ、ミュージシャンのリッキー・ネルソンにちなんでリッキー・ネルソン・ヘンリーと名付けられた。2歳の時に父が家を離れ、7歳の時に残された家族とカリフォルニア州オークランドへ引越した。12歳の時に父が自動車事故で死亡し、母はポール・ヘンダーソンという男性と再婚したため、名前がリッキー・ヘンリー・ヘンダーソンとなった。

左投げだったものの右打ちで練習し「左投右打」という珍しい選手となった(メジャー通算4000打数以上の選手では、ヘンダーソン以外に2人しかいない)。

高校時代には野球以外にバスケットボールアメリカンフットボールもプレーし、特にアメフトではRBとして活躍し全米代表にも選ばれた。アメフトで24もの奨学金の申し出を受けたが全て断った。

1976年オークランド・アスレチックスからドラフト4巡目(全体96位)指名を受け入団。3年間マイナーリーグでプレーし、1977年にはマイナーリーグタイ記録の1試合7盗塁を記録。

そして1979年6月24日に「1番・左翼手」でメジャーデビューを果たし、メジャー初打席で二塁打。第2打席で単打を打ち、初盗塁を決めた。ルーキーイヤーはリーグ7位の33盗塁を記録した。

翌シーズン、アメリカンリーグ新記録となる100盗塁で盗塁王を獲得して以降、1980年から1986年にかけて7年連続盗塁王に輝いた。

特に1982年には現在もMLB記録として残る130盗塁という大記録を達成。

1991年5月1日にそれまでのMLBの通算盗塁記録であったルー・ブロックの938盗塁を破る939盗塁を記録。

1993年福本豊の盗塁世界記録を破る1066盗塁を記録。

1979年から2003年までの25シーズンでMLB9球団でプレーし、MLB歴代1位の通算1406盗塁を記録した。 2004年独立リーグアトランティックリーグニューアーク・ベアーズで、2005年は独立リーグゴールデンベースボールリーグサンディエゴ・サーフドーグスでプレーした。

2006年からメッツの特別インストラクターを務め、2007年7月13日にメッツの一塁コーチをしていたハワード・ジョンソンの打撃コーチ転身に伴い、一塁コーチとなった。

2007年5月にロジャー・クレメンスの復帰宣言を聞いてメジャー復帰に向けて動き出すことを宣言したこともあるが、復帰には至らぬまま、引退後5年が経過した2009年野球殿堂入り資格を得ると、539票中511票(94.8%)の得票を得て初年度での殿堂入りを果たした。この時点で正式に現役引退を表明したという。

ヘンダーソンのアスレチックス在籍時の背番号「24」。
オークランド・アスレチックスの永久欠番2009年指定。

2009年7月9日、ヘンダーソンのオークランド・アスレチックス在籍時の背番号『24』が永久欠番となった。

2017年2月6日、アスレチックスの本拠地「オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム」のフィールドが「リッキー・ヘンダーソン・フィールド」に改称されることが発表された。また、球団社長特別補佐に就任することも合わせて発表された[1]

2019年のアスレチックス-マリナーズの日本開幕戦で来日し、始球式では佐々木主浩-城島健司のバッテリー相手にヘンダーソンが打席に立った[2]

人物

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少女ファン、エリンとの交流

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ヘンダーソンから「ナンバーワン・ファン」と認められた白人少女、エリン・ステーツが球場で観戦を開始したのは彼女が5歳の時、1989年だった。この年の6月22日に両親がオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの左翼席のシーズン席を購入してエリンを初めてMLBの試合に連れて行った。その日はちょうどヘンダーソンがヤンキースからトレードされて、古巣のアスレチックスに復帰した日でもあった。左翼手として守備位置につくヘンダーソンに「ハーイ、リッキー」と声を張り上げたが、彼の耳には届かなかった。そこで次に観戦した時にチームカラーの黄色のボードに「ハーイ、リッキー」と書き込んで高く掲げた。これはヘンダーソンの目にとまり、守備位置につくたびに手を振り、試合終了後にはボールまでプレゼントした。エリン手作りのプラカードは20枚ぐらいあり、プレーごとに「ナイス・プレー」「グレート・ホームラン」などの祝福のメッセージを出した。その中でヘンダーソンの一番のお気に入りは「クール・デュード(クールな洒落者)」だった。1992年に出版されたヘンダーソンの自伝にもエリンのことが触れられている。

しかし、1993年7月31日にブルージェイズがヘンダーソンを獲得し、2人の友情に別れが訪れそうになった。地元紙に掲載されたエリンの「リッキーにサヨナラを言うチャンスすら無かった」というメッセージは直ぐに全米中に報道され、知れ渡った。

「私には契約とかトレードのことはよく分からない。私はリッキーが幾らお金を貰っているのかも知らない。私はまだ子供だから、そんな事には興味が無いの。私が興味があるのは彼のプレーだけ。ママに私の部屋のポスターや写真を外してくれるように頼んだわ。観るのがとても辛いから。『時間が経ったらそんなに辛くならなくなって、彼の名前を聞いても泣かなくてすむようになるわ』とママが言ってくれたけど。もしリッキーに会う人がいたら、彼にオークランド・コロシアムの左翼席でボードを持っていた少女が会えなくて寂しがっていると伝えてくれないかしら。そして、私がサヨナラと言っていたと伝えて。私にはサヨナラを言うチャンスも無かったの」

このエリンの手紙は直ぐにトロントにも配信され、手紙を読んだヘンダーソンも思わず涙ぐんだという。2人が再会したのはブルージェイズがオークランドに遠征した時で、全米中から報道陣が殺到した。ヘンダーソンがむせび泣くエリンを抱きしめている写真の説明には「嘘だと言って、リッキー」とある。この話にいたく感動した航空会社の総支配人がエリンとその両親を1993年10月3日のブルージェイズの試合に招待した。この年のオフにヘンダーソンはアスレチックスに復帰。1996年にパドレスへ移籍すると、パドレスは開幕戦でエリンに「1番レフト、ヘンダーソン」の場内アナウンスを担当させた。将来の夢はスポーツキャスターというエリンはその後もヘンダーソンの誕生日には必ず電話を入れていたという[3]

2001年10月5日にタイ・カッブの通算得点記録2246を破ったヘンダーソンはイニング終了後に観客席まで行き、試合を観戦していた17歳のエリンを抱きしめた[4]

その他

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  • 自らも前人未到の記録を数多く達成しているが、1989年8月22日のレンジャーズ戦では、ノーラン・ライアン投手のMLB史上初の通算5000奪三振達成の対戦相手となった。また、ライアンが史上最多の7度目のノーヒットノーランを達成した同日に盗塁のMLB記録であるルー・ブロックの938盗塁を抜き新記録を達成している。
  • 通算300本塁打と通算300盗塁を同時に達成する300-300クラブには3本塁打足りなかった。しかし通算本塁打297本は通算300盗塁を記録した選手に限ると歴代9番目であり、上位8名は全員300-300クラブのメンバーである(2023年シーズン終了時点)。
  • 俊足の選手で、打力もあったが、守備はお世辞にも名手とは言いにくい(ゴールドグラブ賞の獲得経験は1981年の1回のみ)。凡フライを見失って安打にすることもしばしばだった。また肩も弱かった。ポジションは左翼手が多かった。
2002年
  • メッツで同僚だった吉井理人ドジャースで同僚だった木田優夫ら曰く「超メジャー級な巨根の持ち主」。[5]
  • メッツ時代の1999年に、プレーオフ(対ブレーブス)の試合中に、途中交代したボビー・ボニーヤとともに控室でトランプに興じていたのが発覚。ボニーヤは不振もあり、この一件でメッツを解雇されたが、ヘンダーソンは翌2000年もメッツと契約し、日本で開催されたカブスとの開幕戦にも出場した(ただしこのシーズン途中にマリナーズに放出されている)。
  • 多くの球団を渡り歩き、しばしばフラッグ・ディール(優勝争いのための補強的なトレード)により有力球団に移籍しているが、意外にもワールドシリーズ出場は、いずれもシーズン中に移籍したアスレチックス時代の1989年1990年と、ブルージェイズ時代の1993年の3回だけである(1989年と1993年にワールドシリーズ制覇)。
  • 試合中によく独り言を言う。その際の主語は、リッキー。
  • 高校時代の恋人と結婚し、子供が3人いる。
  • NPBの通算盗塁数およびシーズン盗塁数の日本記録保持者である福本豊は2021年に名球会公式YouTubeチャンネルで「試合数が多くて、時差があって、休みもないから(俺には)無理や」とMLBの環境で盗塁記録を樹立したヘンダーソンを称えている[6]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1979 OAK 89 398 351 49 96 13 3 1 118 26 33 11 8 3 34 0 2 39 4 .274 .338 .336 .674
1980 158 722 591 111 179 22 4 9 236 53 100 26 6 3 117 7 5 54 6 .303 .420 .399 .819
1981 108 493 423 89 135 18 7 6 185 35 56 22 0 4 64 4 2 68 7 .319 .408 .437 .845
1982 149 656 536 119 143 24 4 10 205 51 130 42 0 2 116 1 2 94 5 .267 .398 .382 .780
1983 145 622 513 105 150 25 7 9 216 48 108 19 1 1 103 8 4 80 11 .292 .414 .421 .835
1984 142 597 502 113 147 27 4 16 230 58 66 18 1 3 86 1 5 81 7 .293 .399 .458 .857
1985 NYY 143 654 547 146 172 28 5 24 282 72 80 10 0 5 99 1 3 65 8 .314 .419 .516 .935
1986 153 701 608 130 160 31 5 28 285 74 87 18 0 2 89 2 2 81 12 .263 .358 .469 .827
1987 95 440 358 78 104 17 3 17 178 37 41 8 0 0 80 1 2 52 10 .291 .423 .497 .920
1988 140 647 554 118 169 30 2 6 221 50 93 13 2 6 82 1 3 54 6 .305 .394 .399 .793
1989 65 293 235 41 58 13 1 3 82 22 25 8 0 1 56 0 1 29 0 .247 .392 .349 .741
OAK 85 381 306 72 90 13 2 9 134 35 52 6 0 3 70 5 2 39 8 .294 .425 .438 .863
'89計 150 674 541 113 148 26 3 12 216 57 77 14 0 4 126 5 3 68 8 .274 .411 .399 .810
1990 136 594 489 119 159 33 3 28 282 61 65 10 2 2 97 2 4 60 13 .325 .439 .577 1.016
1991 134 578 470 105 126 17 1 18 199 57 58 18 0 3 98 7 7 73 7 .268 .400 .423 .823
1992 117 500 396 77 112 18 3 15 181 46 48 11 0 3 95 5 6 56 5 .283 .426 .457 .883
1993 90 407 318 77 104 19 1 17 176 47 31 6 0 2 85 6 2 46 8 .327 .469 .553 1.022
TOR 44 203 163 37 35 3 1 4 52 12 22 2 1 2 35 1 2 19 1 .215 .356 .319 .675
'93計 134 610 481 114 139 22 2 21 228 59 53 8 1 4 120 7 4 65 9 .289 .432 .474 .906
1994 OAK 87 376 296 66 77 13 0 6 108 20 22 7 1 2 72 1 5 45 0 .260 .411 .365 .776
1995 112 487 407 67 122 31 1 9 182 54 32 10 1 3 72 2 4 66 8 .300 .407 .447 .854
1996 SD 148 602 465 110 112 17 2 9 160 29 37 15 0 2 125 2 10 90 5 .241 .410 .344 .754
1997 88 365 288 63 79 11 0 6 108 27 29 4 0 2 71 2 4 62 7 .274 .422 .375 .797
ANA 32 144 115 21 21 3 0 2 30 7 16 4 1 0 26 0 2 23 3 .183 .343 .261 .604
'97計 120 509 403 84 100 14 0 8 138 34 45 8 1 2 97 2 6 85 10 .248 .400 .342 .742
1998 OAK 152 670 542 101 128 16 1 14 188 57 66 13 2 3 118 0 5 114 5 .236 .376 .347 .723
1999 NYM 121 526 438 89 138 30 0 12 204 42 37 14 1 3 82 1 2 82 4 .315 .423 .466 .889
2000 31 124 96 17 21 1 0 0 22 2 5 2 0 1 25 1 2 20 2 .219 .387 .229 .616
SEA 92 395 324 58 77 13 2 4 106 30 31 9 3 3 63 0 2 55 9 .238 .362 .327 .689
'00計 123 519 420 75 98 14 2 4 128 32 36 11 3 4 88 1 4 75 11 .233 .368 .305 .673
2001 SD 123 465 379 70 86 17 3 8 133 42 25 7 0 2 81 0 3 84 8 .227 .366 .351 .717
2002 BOS 72 222 179 40 40 6 1 5 63 16 8 2 0 1 38 0 4 47 3 .223 .369 .352 .721
2003 LAD 30 84 72 7 15 1 0 2 22 5 3 0 0 0 11 0 1 16 0 .208 .321 .306 .627
MLB:25年 3081 13346 10961 2295 3055 510 66 297 4588 1115 1406 335 30 67 2190 61 98 1694 172 .279 .401 .419 .820
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLBにおける歴代最高。

年度別守備成績

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左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF)




































1979 OAK 61 123 4 4 0 .969 32 88 1 2 0 .978 1 1 0 0 0 1.000
1980 157 412 17 7 1 .984 - -
1981 107 323 7 7 0 .979 - -
1982 140 350 3 8 0 .978 11 31 0 1 0 .969 -
1983 138 332 9 3 1 .991 9 18 1 0 0 1.000 -
1984 140 329 7 10 1 .971 6 14 0 1 0 .933 -
1985 NYY 6 8 0 0 0 1.000 141 432 7 9 3 .980 -
1986 11 14 1 0 0 1.000 138 411 4 6 0 .986 -
1987 34 80 2 2 1 .976 39 109 0 2 0 .982 -
1988 135 316 9 12 5 .964 3 5 0 0 0 1.000 -
1989 65 145 3 1 0 .993 - -
OAK 82 187 4 3 1 .985 - -
'89計 147 332 7 4 1 .988 - -
1990 118 291 5 5 0 .983 - -
1991 119 249 10 8 1 .970 - -
1992 108 230 9 4 2 .984 - -
1993 74 182 5 5 1 .974 - -
TOR 44 77 1 2 0 .975 - -
'93計 118 259 6 7 1 .974 - -
1994 OAK 66 147 4 4 0 .974 10 19 0 0 0 1.000 -
1995 90 161 5 2 1 .988 - -
1996 SD 114 199 3 3 0 .985 10 11 0 1 0 .917 17 21 0 2 0 .913
1997 55 109 4 4 0 .966 17 40 1 1 1 .976 8 11 0 2 0 .846
ANA 11 19 0 0 0 1.000 2 7 0 0 0 1.000 -
'97計 66 128 4 4 0 .971 19 47 1 1 1 .980 8 11 0 2 0 .846
1998 OAK 142 289 2 4 1 .986 - -
1999 NYM 116 168 0 2 0 .988 - -
2000 29 35 0 2 0 .946 - -
SEA 88 183 0 3 0 .984 - -
'00計 117 218 0 5 0 .978 - -
2001 SD 104 158 5 3 2 .982 - -
2002 BOS 49 79 4 4 0 .954 4 5 0 1 0 .833 1 0 0 0 0 ----
2003 LAD 18 20 1 1 1 .955 - -
MLB 2421 5215 124 113 19 .979 446 1227 15 24 4 .981 27 33 0 4 0 .892

タイトル

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  • 盗塁王:12回(1980年 - 1986年、1988年 - 1991年、1998年)

表彰

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記録

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MLB記録

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  • 通算盗塁:1406(歴代1位)
  • 通算盗塁死:335(歴代1位)
  • 通算得点:2295(歴代1位)
  • 通算四球:2190(歴代2位、故意四球を除けば歴代1位)
  • 通算先頭打者本塁打:81(歴代1位)
  • シーズン最多盗塁:130(1982年)
  • シーズン最多盗塁死:42(1982年)
  • 25年連続シーズン本塁打記録(1979年 - 2003年)
  • 25年連続シーズン盗塁記録(1979年 - 2003年)
  • 4つの時代で盗塁を記録(70年代、80年代、90年代、00年代)

諸記録

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ヤンキース所属時代(1987年)

MLB通算2295得点、1406盗塁、通算盗塁王12回はいずれも史上最多。1982年、アスレチックス在籍時に記録したシーズン130盗塁記録は未だ破られていない。一方、通算335盗塁死、シーズン42盗塁死の記録の持ち主でもある。彼が誰よりも走った選手であった事の裏返しであろう。ただ通算盗塁成功率は80%を超えており、これは非常に高い水準である。

かつて6度の盗塁王に輝いた実績を誇るモーリー・ウィルスは、「リッキーは偉大なスティーラー(盗塁を武器とする選手)に成り得るための理想的な気質を持っていた」とメンタルの重要性を説いている。「リッキーは確かに突出したスピードとクイックネス(初動の速さ、投球モーションを盗むスキル)を兼ね備えてはいた、しかし純粋なスピードだけなら彼よりも速い選手は沢山居ることもまた事実だ」と述べ、大きな重圧のかかる実戦でスタートを切るためには、何よりも勇気と覚悟が必要だと力説する。「失敗を恐れてはいけない、数千数万の大観衆、あるいはテレビ視聴者が見ている前で喜んで盗塁死するくらいの図太さ・図々しさが必要なんだ、彼はスピードとクイックネスを最大限有効活用するのに最適な気質を持ち合わせていたのさ」と結んでいる[7]

1試合最多盗塁は1989年7月29日シアトル・マリナーズ戦で記録した5盗塁(投手:ランディ・ジョンソン)。1試合4盗塁は18回記録している。

1970年代・80年代・90年代・2000年代の4つの年代に渡って盗塁を記録した。4つの年代に渡って盗塁を記録したのは、リッキー・ヘンダーソン、ティム・レインズテッド・ウィリアムズの3人のみ。40歳を過ぎてもリーグトップクラスの盗塁数を維持し、40代でシーズン30盗塁以上を2回、20盗塁以上を3回記録している(いずれも史上唯一)。

通算先頭打者本塁打81本(25年連続で記録)も史上1位である。1993年には、ダブルヘッダーの両方の試合で先頭打者本塁打を打つという、1913年のハリー・フーパー以来の80年ぶりとなる記録も作った。

三盗するリッキー・ヘンダーソン(1988年)

また、バリー・ボンズには破られたが、通算2190四球はMLB歴代2位の記録。ただし、ボンズの四球に敬遠が多く含まれており(2007年終了時点でボンズは2558四球のうち敬遠と記録されたものが688個、ヘンダーソンは2190四球のうちわずか61個)、対してヘンダーソンが中軸ではなく出塁させることが守備側にとって不利になる先頭打者であることを考慮に入れると、自力で奪い取った四球の数は実質的にトップだと言える。MLB通算での出塁率は4割を超えている。

盗塁の数字の突出度に関しては言うまでもないが、ベーブ・ルースの通算2062四球、タイ・カッブの通算2246得点と、2人の偉大な選手のMLB通算記録を塗り替えた。長らくアンタッチャブルであった記録を破ったことの意義は非常に大きい。

背番号

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  • 39(1979年)
  • 35(1979年 - 1984年)
  • 24(1985年 - 1989年、1989年 - 1998年、1993年 、1993年 - 2000年、2000年 - 2001年)※オークランド・アスレチックス永久欠番
  • 22(1989年)
  • 14(1993年)
  • 35(2000年、2002年)
  • 25(2003年)

脚注

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  1. ^ “アスレチックス、球場名を「リッキー・ヘンダーソン・フィールド」に”. iSM (iSM (Yahoo!JAPAN)). (2017年2月7日). オリジナルの2017年2月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170218063154/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170207-00000213-ism-base 2017年2月17日閲覧。 
  2. ^ “佐々木主浩氏&城島健司氏&ヘンダーソン氏…始球式で超豪華レジェンド共演が実現”. full-count. (2019年3月20日). https://full-count.jp/2019/03/20/post323544/ 2019年7月6日閲覧。 
  3. ^ 大リーグ雑学ノートP155-156 福島良一著
  4. ^ Henderson runs away with history onlineathens.com
  5. ^ ラジオ番組「伊集院光 日曜日の秘密基地 VIPルーム ゲスト:木田優夫」2003年11月02日放送
  6. ^ 【はっきり言って絶対無理】国民栄誉賞 を辞退した世界の 盗塁王 福本豊 < 日本 プロ野球 名球会 > 日本プロ野球名球会チャンネル 2021/10/03 (2022年1月23日閲覧)
  7. ^ モーリー・ウィルス 「STEAL THIS BASE 歴代盗塁王が語る盗塁の極意」 著、吉藤宗弘 訳『月刊スラッガー No.42 , 2001年10月号』日本スポーツ企画出版社、6-15頁頁。 

関連項目

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外部リンク

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