中村正三郎 (政治家)
中村 正三郎 なかむら しょうざぶろう | |
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生年月日 | 1934年7月18日 |
出生地 |
日本 千葉県安房郡三芳村 (現・南房総市) |
没年月日 | 2023年9月1日(89歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学法学部政治学科卒業 |
前職 |
富士製鐵社員 日東交通株式会社社長 |
所属政党 | 自由民主党(森派) |
称号 |
正三位 旭日大綬章 法学士(慶應義塾大学・1957年) |
親族 | 父・中村庸一郎(元衆議院議員) |
第65代 法務大臣 | |
内閣 |
小渕内閣 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1998年7月30日 - 1999年3月8日 |
第26代 環境庁長官 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
選挙区 |
(旧千葉3区→) (比例南関東ブロック→) (千葉12区→) 比例南関東ブロック |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1979年10月7日 - 2005年8月8日 |
中村 正三郎(なかむら しょうざぶろう、1934年〈昭和9年〉7月18日 - 2023年〈令和5年〉9月1日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は旭日大綬章。衆議院議員(9期)、環境庁長官、法務大臣といった閣僚ポストのほか、衆議院大蔵委員長、自民党財政部会長、大蔵政務次官を2度経験するなど大蔵・財政族議員でもある。
来歴・人物
[編集]千葉県安房郡三芳村(現・南房総市)出身[1]。慶應義塾大学法学部政治学科卒業後[2]、富士製鐵(現・日本製鉄)に勤務。1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙で初当選。清和政策研究会に所属し副会長まで務めた。以後2003年11月9日の第43回衆議院議員総選挙まで9回連続当選。
1984年、第2次中曽根第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任。1991年には宮澤内閣の環境庁長官として初入閣。1995年9月、自民党総務会長代理に就任。1996年から、千葉12区で浜田靖一とコスタリカ方式を結ぶ。比例南関東ブロックで再選した直後に第2次橋本内閣において三塚博蔵相の下、閣僚経験者でありながら再び大蔵政務次官に就任。1998年には小渕内閣の法務大臣に就任。閣僚就任による資産公開では約26億1千万円と閣僚中1位[3]。約7ヶ月の法相在任中、1998年11月に3人の死刑囚の死刑執行を命令した。その際「本日、死刑確定者に対し死刑を執行した」という形で死刑執行の部分公開を行い[4]、以後死刑執行の部分公表が慣例化し、法制審議会から官僚委員を排除する方針を打ち出すなどした[5]。
しかし不祥事が問題となり、1999年3月に法務大臣を辞任した。2004年10月22日の第161回衆議院本会議において、在職二十五年永年表彰を受ける[6]。2005年の郵政国会では入院中で採決を棄権。8月8日に郵政解散したことを受け、政界を引退した。
選択的夫婦別姓制度に反対し、「旧姓続称制度」を主張していた[7]。
2023年9月1日、間質性肺炎により死去した[9][10]。89歳没。死没日付をもって正三位に叙された[11][12]。
所属団体・議員連盟
[編集]モータースポーツ
[編集]- 1960年代、アマチュアドライバーとして日本グランプリをはじめとする多くのレースに参戦していた[13][14]。
- 2009年には袖ヶ浦市に所有する敷地に自らコース設計を手がけた袖ヶ浦フォレストレースウェイをオープンさせた[15]。
- この他に日本自動車連盟(JAF)におけるモータースポーツ関連の改革にも関わっている。日本のモータースポーツへの高い貢献を評価され、2013年にはタグ・ホイヤーが選ぶ「ジャパン・モーター・レーシング・ホール・オブ・フェイム2013」を受賞している[16]。
不祥事
[編集]法務大臣在任中の問題
[編集]法務大臣在任中、不祥事疑惑がおこり国会を混乱させたとして辞任している。また法相就任直後に北島敬介検事総長を呼びつけ自身との上下関係に留意するよう注意したり[17]、中央更生保護審査会で承認された無期懲役で仮釈放中の人物に対する復権申請に対して「極悪人を復権させる必要などない」と発言したりするなど、問題行動が多かった[18]とされる。
シュワルツェネッガー問題
[編集]アーノルド・シュワルツェネッガーが旅券紛失をして特別な入国許可を得た際に提出した顛末書を入国管理局に命じてわざわざ取り寄せて大臣室に保管していた[19]。国会でこの問題を追及される過程で中村は自身を含めた家族がシュワルツェネッガーのファンだと答弁した[20]。
指揮権発動未遂問題
[編集]中村がオーナーを務める企業と民事訴訟で争っている企業への刑事捜査を法務・検察に促していた[21][22]。しかし法務省・検察庁の幹部から「指揮権発動に該当する」と諌められたため、結局、捜査命令は撤回された。中村のこの対応については、私的な理由で指揮権を発動しようとしたとして批判が集まった。なお、指揮権発動は造船疑獄時等しか例がなく、極めて稀である。
親族・親戚
[編集]脚注
[編集]- ^ 中村正三郎元法相死去 旧三芳村(現南房総市)出身、89歳 衆院9期 環境庁長官など歴任 - 千葉日報 2024年8月12日閲覧。
- ^ 『政界往来 第44巻』1978年発行、245ページ
- ^ 朝日新聞 1998年08月29日 朝刊 3頁 「 平均2億6650万円 トップは中村法相、首相7番目 閣僚資産公開 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1998年11月04日 夕刊 16頁 「 死刑執行を公表へ 氏名・場所を除き 中村法相表明 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1999年02月17日 朝刊 1頁 「 法制審、官僚委員を全廃 常設部会も廃止 法務省 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ “第161回国会 衆議院本会議 第4号 (平成16年10月22日)”. 衆議院会議録議事情報. 衆議院 (2004年10月22日). 2020年3月27日閲覧。
- ^ milk vol.15 1999/03/22
- ^ “平成17年秋の叙勲 旭日大綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 1 (2005年11月3日). 2005年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月19日閲覧。
- ^ 中村正三郎さん死去:朝日新聞デジタル 2024年8月12日閲覧。
- ^ “中村正三郎元法相が死去 89歳、衆院議員9期”. 共同通信 (2023年9月2日). 2023年9月2日閲覧。
- ^ 『官報』第1080号8頁 令和5年10月12日
- ^ 「故中村正三郎氏に正三位」 - 日本経済新聞電子版 2023年9月29日
- ^ 中村 正三郎 - JAF国内競技結果検索
- ^ 第143回・FIA公認・第三回日本グランプリレース - CAR&レジャー
- ^ 都心から1時間のJAF公認サーキット 〜「袖ケ浦フォレスト・レースウェイ」がオープン - WebCG・2009年11月16日
- ^ 自動車界の“国民栄誉賞”受賞者が決定! - カーセンサー.net・2013年7月11日
- ^ 朝日新聞 1999年03月08日 夕刊 15頁 「 灰色連鎖…アウト 「聖域」と攻防…溝に 中村法相が辞任」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ 法務大臣の決裁
- ^ 朝日新聞 1999年03月03日 朝刊 6頁 「 米人気俳優の旅券なしの入国認め、てんまつ書を私蔵? 中村法相 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ 1999年3月2日参議院予算委員会 にて照屋寛徳の質問に対する返答。
- ^ 朝日新聞 2003年08月18日 夕刊 19頁 「 指揮権発動(窓・論説委員室から) 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1999年02月24日 夕刊 1頁 「 中村元法相側の損害賠償請求棄却 東京地裁「捜査指示の認識欠落 」(2014.05.05 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)
公職 | ||
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先代 下稲葉耕吉 |
法務大臣 第65代:1998年 - 1999年 |
次代 陣内孝雄 |
先代 愛知和男 |
環境庁長官 第26代:1991年 - 1992年 |
次代 林大幹 |
議会 | ||
先代 奥田敬和 |
衆議院議院運営委員長 1994年 - 1995年 |
次代 谷垣禎一 |
先代 越智道雄 |
衆議院大蔵委員長 1988年 - 1989年 |
次代 中西啓介 |
先代 原田昇左右 |
衆議院決算行政監視委員長 1999年 - 2000年 |
次代 衛藤征士郎 |