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内藤義清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤義清
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 寛正4年1月4日1463年2月1日)?[1][2]
死没 天文6年12月16日1538年1月26日[1][3]
別名 甚弥、甚太郎、四郎左衛門[1][4][2]
戒名 春山善芳[注釈 1]、浄心院殿[注釈 2][1][6]
墓所 西光寺[注釈 3][1][3][6]
官位 右京進[1][3][2][5]
主君 松平親忠信忠清康広忠
氏族 三河内藤氏[7][4]
父母 内藤重清[8]
加茂氏・悦窓啓善女[1]
島田景信の妻、清長忠郷酒井重忠の室、石川数正の室[3][9]
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内藤 義清(ないとう よしきよ)は、戦国時代三河国武将松平氏の家臣。

来歴・人物

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旧三河守護家の細川氏被官と思しき内藤氏応仁年間に三河国に移住したとされ、碧海郡姫郷[注釈 4]に住んだ。祖父の代から同郡安祥城主の松平氏に仕え、父の重清は小川城主だったという[8]。義清は寛正4年(1538年)三河国額田郡菅生に生まれ、現岡崎市唐沢町にある亀井戸は義清の産湯を汲んだ井戸という伝承がある。一方で幡豆郡野場に住んだとする文献もあり、また内藤氏自体が応仁年間になって三河に移住したとする前述の説や、義清の生国も近江国とする文献も見られる[1][8][10][5]

義清も父祖同様に松平氏に仕え、特に岡崎城主となった松平清康の元で活躍して右京進の官途名と上野城を与えられ、石川忠輔植村氏義天野貞有林忠満とともに岡崎五人衆の一人に数えられたという。大永5年(1525年尾張国織田信秀が上野城を攻撃した際にはこれを撃退。享禄2年(1529年)東三河平定に従軍し、吉田城宇利城の攻略に功があった。天文4年(1535年)松平清康が森山崩れで急死すると翌年には織田信秀が西三河に侵入したが、三河衆は井田野の合戦でこれを撃退した。義清もこの合戦に加わり手傷を負っている[1][11]。天文6年(1537年)清康の遺児・広忠が今川氏の後援を得て三河に戻ると、これを支援した[12]。同年末に没し、家督は子の清長が継承した[3][6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛永諸家系図伝』『藩翰譜』『寛政重修諸家譜』は法名を善白とする[1][3][5]
  2. ^ 院殿号明治19年(1886年)に追贈[1]
  3. ^ 愛知県岡崎市鴨田町向山に所在。
  4. ^ 現在の愛知県安城市姫小川町。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『豊田市史』, p. 87.
  2. ^ a b c 『内藤侯平藩史料』, p. 2-3.
  3. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, p. 183.
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, p. 182.
  5. ^ a b c 『寛永諸家系図伝』, § 藤原氏 丙三小家 秀郷流内藤.
  6. ^ a b c 『内藤侯平藩史料』, p. 11.
  7. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 649–650.
  8. ^ a b c 『新編岡崎市史』, p. 650.
  9. ^ 『内藤侯平藩史料』, pp. 2–3.
  10. ^ 『内藤侯平藩史料』, p. 9.
  11. ^ 『内藤侯平藩史料』, p. 10.
  12. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 686–687.

参考文献

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  • いわき地方史研究会 編『内藤侯平藩史料』 1巻、平市教育委員会〈郷土資料双書〉、1975年。 
  • 豊田市教育委員会; 豊田市史編さん専門委員会 編『豊田市史』 人物編、豊田市、1987年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 2巻、新編岡崎市史編さん委員会、1989年。 
  • 寛政重修諸家譜』 13巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0217-8 
  • 寛永諸家系図伝』斎木一馬; 林亮勝; 橋本政宣(校訂)、八木書店、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0