堀口藍園
ほりぐち さだはる 堀口 貞歙 | |
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生誕 |
堀口 藤吉 文政元年10月10日(1818年11月8日) 日本・上野国群馬郡渋川村 |
死没 |
明治24年(1891年)9月30日 日本・群馬県西群馬郡渋川町 |
国籍 | 日本 |
別名 | 堀口 藍園 |
職業 | 紺屋 |
栄誉 | 贈従五位 |
堀口 藍園(ほりぐち らんえん、文政元年10月10日(1818年11月8日) - 明治24年(1891年)9月30日)は、上野国群馬郡渋川(現・群馬県渋川市)の幕末・明治時代の教育者。幼名は藤吉、通称五郎兵衛、字は張卿(ちょうけい)、諱は貞歙(さだはる)[1]。号の藍園は家業が紺屋(藍染屋)だったことによる[1]。
生涯
[編集]文政元年10月10日(1818年11月8日)[2]、上野国群馬郡渋川村裏宿(現・群馬県渋川市渋川)の紺屋、堀口柳蔵の長子として生まれる。母イセは植野村(現・前橋市総社町植野)の福島武右衛門の娘。母は藍園が6歳の時に没したため、イセの従妹シゲが柳蔵の後妻となり、貞敬(のち伊香保神社神官)・アサを産んだ[1]。
12歳の頃から近所の高橋蘭斎[注釈 1]に読み書き、儒学を学び、やや長じて南横町(南町)の木暮足翁[注釈 2]に国学と和歌を、並木町遍照寺の周休(竹渓)[注釈 3]に漢詩を学ぶ[1]。
天保6年(1835年)、高崎藩士鎌原氏の娘ムラと結婚[1]。
安政4年(1857年)江戸に遊学。大沼枕山、小野湖山、蒲生褧亭と交わる[1]。
明治元年(1868年)、前橋藩領渋川の名主となる。同年の戊辰戦争、三国峠・戸倉の戦いに自身の子文平(文秤)、友人後藤八郎右衛門、門弟入沢啓助を参戦させた[1]。
明治6年(1873年)6月20日、熊谷県令河瀬秀治より第一大学区第十八番中学区の取締役に任命[1]。
明治10年(1877年)3月、学制発布により閉じていた塾の再開のため、「私塾開業願」を楫取素彦県令に提出[1]。
同年、長子文秤(号は大路)が浜松で客死[6]。
明治14年(1881年)2月15日、藍園門下の同窓会「金蘭吟社」の第一回会合が開催[1]。
明治26年(1893年)、渋川八幡宮境内に「堀口藍園翁碑」建立。撰並書は貴族院副議長細川潤次郎男爵、篆額は枢密院副議長東久世通禧伯爵[1]。
昭和27年(1952年)11月11日、墓所が群馬県指定史跡となる[9]。
門弟
[編集]- 山田次郎平 - 吾妻郡沢田村長。
- 高津仲次郎 - 県会議長、衆議院議員。
- 関口朝吉 - 県会議員。
- 今井善兵衛 - 勢多郡北橘村長。
- 山口孝太郎 - 県会議員。
- 神保重兵衛 - 群馬郡清里村長。
- 小曽根幸一 - 群馬郡清里村長。
- 木暮金太夫 - 群馬郡伊香保町長。
- 大島甚左衛門 - 群馬郡伊香保町長。
- 森田秋三郎 - 群馬郡伊香保町長。
- 間庭文造 - 群馬郡金古町長。
- 後藤文平 - 群馬郡白郷井村長、県会副議長。
- 荒木真平 - 群馬郡白郷井村長。
- 宮下孫兵衛 - 群馬郡長尾村長。
- 岸平六 - 群馬郡金島村長。
- 都丸房治郎 - 群馬郡金島村長。
- 福島半平 - 群馬郡金島村長。
- 高橋諄三郎 - 群馬郡古巻村長、県会副議長。
- 相川亮輔 - 群馬郡古巻村長。
- 相川寛三郎 - 群馬郡古巻村長。
- 伊藤源之丞 - 群馬郡豊秋村長。
- 小野沢宗蔵 - 群馬郡渋川町長。
- 石坂雄吾 - 群馬郡渋川町長。
- 羽鳥資 - 群馬郡渋川町長、上毛銀行頭取。
- 狩野定次郎 - 群馬郡渋川町長、県会議員。
- 後藤善十郎 - 群馬郡渋川町長。
- 青木松太郎 - 群馬郡渋川町長、県会議員。
- 堀口仲七 - 群馬郡渋川町長、渋川銀行頭取。
- 羽鳥年太郎 - 群馬郡渋川町長。
脚注・出典
[編集]脚注
[編集]- ^ 寛政11年(1799年)生。幼名角蔵、のち健治または健次郎と改める。諱は勇魚、通称茂右衛門。号に蘭斎、可度。木暮足翁、竹渓に師事。名主となるが江戸へ出て宇田川榕庵に学び、医師となる。明治15年(1882年)3月23日没。墓所は渋川市指定史跡[3]。
- ^ 寛政元年(1789年)生。幼名谷五郎、通称五十槻(いつき)、諱は賢樹、克信、号に梅屋、足翁。吉田芝渓・翠屏兄弟に漢詩文を学ぶ。天保元年(1830年)に医師を志し和歌山藩医華岡青洲の弟子となり、本居大平に国学と和歌を学ぶ。高野長英とも交流をもった。文久2年(1862年)没。墓所は渋川市指定史跡[4]。
- ^ 安永4年(1775年)勢多郡持柏木村に生まれる。天明5年(1785年)に同村の極楽院西善寺に入り周休と称する。吉田芝渓・翠屏に学んだ後、江戸へ出て東叡山学寮で学ぶ。文化元年(1804年)遍照寺の住職となり、天保13年(1842年)より石原寺住職、弘化元年(1844年)に延命寺の住職。安政元年(1854年)没。字は無学、号は竹渓[5]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 渋川市誌編さん委員会 1993, pp. 1026–1033.
- ^ 中島 1984, p. 220.
- ^ 渋川市誌編さん委員会 1993, pp. 1024–1025.
- ^ 渋川市誌編さん委員会 1993, pp. 1021–1024.
- ^ 渋川市誌編さん委員会 1993, pp. 1019–1021.
- ^ 荒木 1920, pp. 157–158.
- ^ 北群馬・渋川の歴史編纂委員会 1971, pp. 838–839.
- ^ 荒木 1920, p. 160.
- ^ “旧渋川市地区の指定文化財”. www.city.shibukawa.lg.jp. 2023年11月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 荒木, 眞平『堀口藍園伝』 全、堀口藍園傳記刊行會、1920年9月30日。
- 北群馬・渋川の歴史編纂委員会 編『北群馬・渋川の歴史』北群馬渋川の歴史編纂委員会、1971年8月1日。
- 渋川市誌編さん委員会 編『渋川市誌』 2巻、渋川市、1993年3月31日。
- 中島, 勵精『北毛郷学 堀口藍園 学統と人脈』新人物往来社、1984年11月3日。