高津仲次郎
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日[1]) - 1928年(昭和3年)12月19日[2])は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)。
経歴
[編集]高津安蔵の長男として[3]、上野国緑野郡中島村[4](群馬県緑野郡小野村[1]、多野郡小野村を経て現藤岡市)に生まれる。生家は養蚕業を生業とした[1]。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ[1]。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた[1]。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ[1]。
1884年(明治17年)群馬県会議員に当選[1]。翌年、同常置委員に挙げられた[1]。政府の養蚕業への干渉を憂い、1887年(明治20年)同志を募り上毛倶楽部を組織し、各地で政談演説を開いた[5]。1888年(明治21年)には上毛政社と改称[5]。さらに上毛民会を組織し、県下の養蚕業者を率いた[5]。ほか、電気事業にも関与し、群馬電力および烏川電力を創立し同取締役を務め、東京電力、渡良瀬水電各取締役、上毛電気鉄道監査役などを歴任した[2]。
また、廃娼運動では竹越與三郎らと群馬県下各地で廃娼演説会を行い、積極的に運動を進めた[4]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では群馬県第3区から出馬し当選[2]。その後、第5回、第11回(補欠選挙)、第16回総選挙でも当選し、衆議院議員に通算4期在任した[2]。
大浦事件で1916年に一審二審ともに、懲役2か月執行猶予3年追徴金2500円の判決を受けた[6][7]。これにより大礼記念章を褫奪された[8]。
著作
[編集]- 編『中島水害誌』高津仲次郎、1911年。
- 丑木幸男編『高津仲次郎日記 1』群馬県文化事業振興会、1998年。
- 丑木幸男編『高津仲次郎日記 2』群馬県文化事業振興会、1999年。
- 丑木幸男編『高津仲次郎日記 3』群馬県文化事業振興会、2000年。
伝記
[編集]- 丑木幸男『評伝高津仲次郎』群馬県文化事業振興会、2002年。
親族
[編集]- 三男 高津渡(1900-1926、社会主義者)[4]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。