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平賀源内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「平賀鳩渓肖像」。木村黙老著『戯作者考補遺』の写本(明治時代に書写)より[1]

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者地質学者蘭学者医者殖産事業家戯作者浄瑠璃作者俳人蘭画家発明家

鳩渓きゅうけい風来山人ふうらいさんじんなど数多くの(ペンネーム)を使い分けた。

名前

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源内通称[2]。高松藩に再登用された翌年に綴りを元内に変えた[3]。これは国守(藩主)の「源」の字を避けるためで[4]:44、辞職後は再び「源内」を称した[5]:220国倫くにとも[2]。1934年製作の「平賀源内略系図」に国棟くにむねという別名もあるが[6]、同じ原資料に取材した1986年製作の略系図にはない[7]:223[8](あざな)は士彝しい[9]:12。ただし『戯作者考補遺』(1845年成立)掲載の「処士鳩渓墓碑銘」では子彝[10]:23。同碑銘は1930年建立の平賀源内墓地修築之碑の裏面に彫られたが、字は「士彝」に書き換えられた [11]

源内は数多くのを使い分けた。雅号鳩渓きゅうけい[2]は志度村にあった地名「ハトダニ」から取ったとも言われる[12]:8戯作者としては風来山人ふうらいさんじん[13]悟道軒[14]天竺浪人てんじくろうにん[13]筆名を用いた。なお、一字違いの天竺人は門人の桂川中良の筆名である[15]。浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうちきがい[13]、ふくちきがい[2])、俳号李山りざん[16]

源内の著作の中に、自身をモデルとした貧家銭内ひんかぜにないという登場人物がある[17]

来歴

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平賀源内作のエレキテル(複製)国立科学博物館の展示

讃岐国寒川郡志度浦[18](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[19](良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩足軽身分の家で、源内自身は信濃国佐久郡信濃源氏大井氏平賀氏の末裔と称したが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。後に平賀氏は奥州白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農した伝承がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延2年(1749年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[19]宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語医学油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に下って本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中田沼意次にも知られるようになる。

宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する[19]:65。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり[20]、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲ぶつるいひんしつ』を刊行[19]:65。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。

明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。

安永2年(1773年)には出羽秋田藩佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。

獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、従五位を追贈された[21]

人物と業績

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  • 天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
  • 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。
  • 解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑銘( § 処士鳩渓墓碑銘)を記したのも玄白である[10]:25
  • 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介[22]火浣布の開発[19]:67がある。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
  • エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという[23]
  • 1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作[24]。現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる[24]。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた[24]
  • 土用の丑の日ウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある[25]。この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
  • 浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆[13]時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。狂歌で知られる大田南畝の狂詩狂文集『寝惚先生文集』に序文を寄せている。強精薬の材料にする淫水調達のため若侍100人と御殿女中100人がいっせいに交わる話『長枕褥合戦』(ながまくら しとねかっせん)のような奇抜な好色本も書いている[26]衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に陰間茶屋案内書の『男色細見』を著わした。
  • 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
  • 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。

作品

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本草学及び工芸

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『物類品隲』宝暦13年(1763年)刊国立科学博物館の展示
  • 『物類品隲』 - 全六巻。宝暦13年7月刊行。
  • 『番椒譜』 - 稿本。年代不明。

戯作

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  • 『根南志具佐』(ねなしぐさ) - 宝暦13年10月刊行。談義本
  • 『根無草後編』 - 明和6年(1769年)正月刊行。
  • 『風流志道軒伝』 - 宝暦13年11月刊行。滑稽本講釈師深井志道軒を主人公としたもの。
  • 『風来六部集』『風来六部集後編』 - 狂文集。「放屁論」「痿陰隠逸伝」(なえまら いんいつでん)等を収める。

義太夫浄瑠璃

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  • 神霊矢口渡』 - 明和7年正月、江戸外記座初演。
  • 『源氏大草紙』 - 明和7年8月、江戸肥前座初演。
  • 『弓勢智勇湊』 - 明和8年正月、江戸肥前座初演。吉田仲治補助。
  • 『嫩榕葉相生源氏』 - 安永2年(1773年)4月、江戸肥前座初演。
  • 『前太平記古跡鑑』 - 安永3年正月、江戸結城座初演。
  • 『忠臣伊呂波実記』 - 安永4年7月、江戸肥前座初演。
  • 『荒御霊新田新徳』 - 安永8年2月、江戸結城座初演。森羅万象、浪花の二一天作を補助とす。
  • 『霊験宮戸川』 - 安永9年3月、江戸肥前座初演。源内没後の上演。
  • 『実生源氏金王桜』 - 未完作。寛政11年(1799年)正月、江戸肥前座で上演。

絵画

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史料・研究

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史料
  • 『源内実記』
  • 平賀源内先生顕彰会編『平賀源内全集』上・下(名著刊行会、1970年)
  • 『風来山人集』(『日本古典文学大系』55 岩波書店、1961年)
研究
  • 『讃岐偉人平賀源内翁』
  • 森銑三『平賀源内研究』
  • 城福勇『平賀源内』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1971年)
  • 城福勇『平賀源内の研究』(創元社、1976年)
  • 松井年行『物類品騭の研究』美巧社、2019年。ISBN 978-4-86387-117-5
  • 芳賀徹『平賀源内』ちくま学芸文庫 ハ-59-1、2023年。ISBN 978-4-48051-201-7

風貌と肖像画

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源内は肥満で暑がりだと自称していた[27]:76[28]

18世紀の源内著書の挿絵

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源内著書の刊行物中に、源内かもしれないと言われている挿絵がある。『天狗髑髏鑑定縁起』挿絵[29]、『里のをだまき評』自序[15][6]:5-6[29]、『里のをだまき評』挿絵[6]:5[29]が挙げられている。

『魚籃先生春遊記』

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『魚籃先生春遊記』(天明元年(1781年)刊行[33])という本の「春遊記筆削図」に描かれているのは、本書を読んだ太田南畝烏亭焉馬、平賀源内らではないかとの推測がある[34][35]。他方これを否定し、この図に描かれているのは本書の著者らだとする説もある[36][注 1]

『先哲像伝』

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『先哲像伝 詞林部伝』内「平賀鳩渓肖像」[42]

先哲像伝 詞林部伝』の原稿(弘化元年(1844年)序[43]。文:原得斎(生1800年-没1870年)[44])中の「平賀鳩渓肖像」は、桂川月池老人作と言われる絵にもとづく[42]:85。「月池」という号は桂川甫周[45]とその弟森島中良[46]の両人が使っており、ここではどちらなのか諸説ある[47]。二人とも平賀源内と面識があったため[27]:50、この絵は源内の姿を伝えているという説がある[47]

『戯作者考補遺』

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戯作者考補遺』は弘化2年(1845年)木村黙老(生1774年-没1856年[48][49])著。著者自筆の「平賀鳩渓肖像」は、源内を知る古老の話をもとに、源内の死後60年以上経ってから描かれた[10]:4。なお、著者の祖父も源内と直接交流があった[50][注 2]

この像は痩せており、源内は肥満だったという説とは食い違う[7]:201。また、煙管を持った姿が『魚籃先生春遊記』(1781年刊行)の挿絵中の人物と似ているとの指摘がある[34][35][38]

写本のみにより伝えられてきた本書は、1935年に自筆原本(鈴木幾次郎蔵)の複写本が出版された[51][10]:1。その後、原本は第二次世界大戦時に失われたと考えられている[51]。2021年現在現存する古い写本としては明治時代書写の慶應義塾大学蔵本がある[1]

『平賀源内全集上巻』(1932年刊)掲載[5]および平賀源内先生顕彰会所蔵の肖像[52]は、自筆原本[10]と絵具の剥がれ具合まで酷似するが別バージョンである。

さぬき市の「平賀源内先生銅像」は、彫刻家小倉右一郎が『戯作者考補遺』の肖像および秩父に伝わる伝承にもとづいて製作した[53]

墓所

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戒名は智見霊雄。墓所は東京の浅草橋場にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも墓がある。

源内の最期や遺体の処され方、墓については諸説ある。

東京の旧総泉寺墓地

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平賀源内墓。東京、旧総泉寺。

墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場2-22-2)にあった総泉寺に設けられた[55]。墓は友人杉田玄白が私財を投じて建てた[18]戒名は智見霊雄[55]。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある[55]

源内の墓は改変された形跡がある。19世紀前半までに成立した『鳩渓遺事』によれば、「平賀源内墓」「智見霊雄居士」「安永八己亥十二月十八日」と書かれていた[56]。いっぽう、19世紀前半成立の『埋木花』によれば、彫られているのは戒名だけで没年月日などは無く[57][58]、「平賀源内墓」の字が、彫ったのではなく墨で書かれていた[57]。1891年時点になると「平賀源内墓」「安永八己亥年」「十二月十八日」の字も彫り込まれていた[6]:2[59]。墓石の面が不自然に削られているとの指摘もある[60]

総泉寺の平賀源内墓は大正13年(1924年)に東京府の史跡に仮指定された[61]。ところが1928年に、総泉寺を移転して史跡指定も解除する計画が判明した[11]:1615。これを憂慮した有志の運動により平賀源内墓だけは橋場の旧地に残り、1929年に改めて東京府の史跡に仮指定された[62][63]。同時期に松平頼寿を会長とする平賀源内先生顕彰会が発足し、敷地の整備・墓の脇に記念碑「平賀源内墓地修築之碑」建碑・塀建設を手がけて1931年(昭和6年)に完成した[62]1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された[64]

さぬき市志度の自性院

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平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。

故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓がある。

杉田玄白による墓碑銘

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杉田玄白は、総泉寺の墓とは別に武蔵国金沢(後の神奈川県横浜市金沢区)の能見堂に碑を建てる構想を持っていた[6]:49。しかし実現したかどうか不明である[66]

また玄白は源内を讃える300字程度の「処士鳩渓墓碑銘」も著した[10]:25。その文面は写本『戯作者考補遺』(1845年著)により後世に伝えられた[10]:23

「処士鳩渓墓碑銘」。『戯作者考補遺』より

「碑銘」とはこの長文全体を指すこともあるが[27]:100、文中では「銘」は末尾の16文字から成る詩の部分を指している。

嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死[11]:1916
(ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)[67]
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか

非常人云々は、前漢の司馬遷史記』「列伝」司馬相如列伝からの派生である[68]

この碑銘を刻んだ碑が実際に作られたか否かについては諸説ある。関根黙庵[69]水谷不倒[27]:101大槻如電[70]らの説では、一旦は墓に処士鳩渓墓碑銘が彫られたが、罪人の墓を建てることを禁じられたため墓を壊したか削ったのだという。これに対して磯ケ谷紫江の説では、処士鳩渓墓碑銘は原稿だけで、実際に彫られたことはなかったという[11]:1617城福勇は、この碑銘は總泉寺の小さな墓石ではなくて能見堂の碑を想定したものではないかと推測した[66]

印刷物としては、1880年に平賀源内没後100年祭の案内状に掲載され[8]:322、以後さまざまな伝記で紹介されたが文面に食い違いがある: 草稿[66]:428および『戯作者考補遺』では享年51歳だが、1890年に平賀家が発表した「平賀源内履歴取調書写」[71]およびそれを取材した宮武外骨による伝記[72]では享年48歳。

1930年に旧総泉寺の平賀源内墓の脇に平賀源内墓地修築之碑が建てられ、その裏面に処士鳩渓墓碑銘の全文が刻まれた[11]。さぬき市の「平賀源内先生銅像」の台座にも「嗟非常人…」の16字詩が刻まれている[62]:655

関連施設・行事等

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平賀源内生祠鞆町
  • 平賀源内記念館[73][74]、平賀源内先生遺品館 - 香川県さぬき市志度
    発明品や著作物、杉田玄白と源内の書簡などが展示されている。また、平賀源内記念館が2009年3月22日にオープンし、平賀源内祭りの会場。場所はJR志度駅から徒歩5分。
  • 平賀源内墓 - 東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地
    1943年、国の史跡に指定
    敷地内には、従僕であった福助の墓もある。
  • 平賀源内先生の墓 - 香川県さぬき市志度 微雲窟 自性院
    同院は平賀家の菩提寺であり、墓は義弟である平賀権太夫の建立とされる。
    毎年12月には、法要がとり行われる。
  • 平賀源内生祠 - 広島県福山市鞆の浦 広島県指定史跡
  • 源内賞
    平賀源内の偉業をたたえて発明工夫を振興する基金を、エレキテル尾崎財団が1994年に寄贈。この基金を基に、香川県さぬき市(旧志度町)とエレキテル尾崎財団とが、四国内の科学研究者を授賞対象とする源内賞、奨励賞を設定し、毎年3月に表彰。
  • 江戸東京博物館(2003年11月29日 - 2004年1月18日)、東北歴史博物館(2004年2月14日 - 3月21日)、岡崎市美術博物館(2004年4月3日 - 5月9日)、福岡市博物館(2004年5月27日 - 7月4日)、香川県歴史博物館(2004年7月17日 - 8月29日)に「平賀源内展」が開催された。エレキテル等の復元品も展示された。

関連作品

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小説

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テレビ

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べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(2025年NHK総合BS1大河ドラマ、平賀源内 役:安田顕) 上記は2025年令和7年)1月5日から放送予定のNHK大河ドラマ第64作。蔦屋重三郎の生涯を描く。脚本は森下佳子。主演は横浜流星


他にドラマ愛の詩シリーズおよびTVアニメ版の『ズッコケ三人組』における『ズッコケ時間漂流記』(源内役:藤岡弘(ドラマ版)、松山鷹志(アニメ版))や、アニメ『落語天女おゆい』(源内役:てらそままさき)、同じくアニメ版『あんみつ姫』などの映像化作品がある。『それいけ!アンパンマン』ではからくりぐんないという発明家のキャラクターが登場する。

漫画

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ゲーム

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演劇

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ドラマCD

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  • 『源内妖変図譜』(源内役:関智一

脚注

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  1. ^ 『魚籃先生春遊記』の著者は陸奥国 伊達郡(のちの福島県内)の熊坂台州[34]:114、あるいはその友人で本話の主人公でもある魚籃道人(鹿柴瞀人)と推定されている[36]
  2. ^ 著者 木村黙老(通称:木村亘、:通明)とその祖父である木村亘(諱:季明)[3]:342はどちらも名前が「木村亘」[49]で、どちらも家老になった[3]:221, 342ため混同されるが、黙老のほうは源内とは世代が違う[50]

出典

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  1. ^ a b c d 平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』 明治写)”. 三田所蔵 貴重書. 慶應義塾大学. 2021年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年7月16日閲覧。
  2. ^ a b c d 平賀, 源内, -1779”. 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス. 2024年8月1日閲覧。
  3. ^ a b c 永年会『増補 高松藩記』永年会、香川県高松市、1932年5月15日、262頁。doi:10.11501/1212444NCID BN10792953国立国会図書館書誌ID:000000762090https://dl.ndl.go.jp/pid/1212444/1/149?keyword=%E5%85%83%E5%86%85 
  4. ^ 平賀家「伝記 平賀源内履歷取調書写」『節減会報告』第2号、節減会、香川県香川郡、1890年1月、42-47頁、doi:10.11501/1544989NCID AA11260439, 国立国会図書館書誌ID:000000013446 (要登録)
  5. ^ a b c d 平賀源内先生顕彰会 編『平賀源内全集』 上巻、平賀源内先生顕彰会、東京、1932年12月28日、コマ番号7/414。doi:10.11501/1181411NCID BN10139170国立国会図書館書誌ID:000000779752https://dl.ndl.go.jp/pid/1181411/1/7 (要登録)
  6. ^ a b c d e f 平賀源内先生顕彰会 編『平賀鳩渓翁略伝』平賀源内先生顕彰会、東京、1934年7月24日、25頁。doi:10.11501/1235900NCID BA38445659国立国会図書館書誌ID:000000772169https://dl.ndl.go.jp/pid/1235900/1/24 (要登録)
    • p1 平賀源内先生に就て 白井光太郎
      • p2 總泉寺境内平賀源内墓の図。白井光太郎が明治14年8月5日に写生したもの。
      • p4 肖像
    • p25 源内先生のことども 本会編
      • p25 1. 略系
      • p49 杉田玄白の能見堂碑文構想
      • p55 10. 總泉寺境内源内墓石調査の記
  7. ^ a b 城福, 勇『平賀源内』(新装版)吉川弘文館、東京、1986年1月1日(原著1971年)。ISBN 4642050256 
    • p159: 福内鬼外(ふくちきがい)
    • pp222-223: 略系図
  8. ^ a b 第16項 科学の先覚者 平賀源内」『新編 志度町史』 上巻、志度町、香川県、1986年5月1日、257-258頁。doi:10.11501/9576099NCID BN03201321国立国会図書館書誌ID:000001825986https://dl.ndl.go.jp/pid/9576099/1/163 (要登録)
    • p297 平賀源内略系図
    • p320 処士鳩渓墓碑銘
    • p322 100年祭
  9. ^ 平賀, 国倫 編『物類品隲』 1巻、松籟館、1763年。doi:10.11501/2555265国立国会図書館書誌ID:000007315267 
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    • p1 刊行のことば(長尾折三、入田整三)
    • p4 凡例 平賀鳩渓
    • p17 平賀鳩渓肖像 鈴木幾次郎氏蔵
    • p21 風来山人
    • p23 処士鳩渓墓碑銘
  11. ^ a b c d e 磯ケ谷, 紫江「平賀鳩渓先生墓域修築之碑」『墓碑史蹟研究』 9巻、後苑荘、東京、1932年8月3日、1615-1616頁。doi:10.11501/1242843NCID AN00375871国立国会図書館書誌ID:000000773534https://dl.ndl.go.jp/pid/1242843/1/150 
    • p1546 板場、總泉寺の鐘銘ト史跡、平賀源内ノ墓蹟
      • p1548 平賀源内先生顕彰会の意義
    • p1615- 平賀鳩渓先生墓域修築之碑(表面)
      • p1616 (裏面)処士鳩渓墓碑銘
      • p1617 解説
  12. ^ 讃岐平民 葉下窟主人平賀源内(三)」『頓智と滑稽』第5号、1895年9月、7-8頁、doi:10.11501/1601309国立国会図書館書誌ID:000000044142 (要登録)
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    • p50 桂川甫周と平賀源内のエレキテル談義、甫周の弟 森島中良
    • p76 平賀源内の風貌
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    • 口絵 (1) 平賀源内像「東京 小倉雄一郎氏彫塑」
    • p82 (20) 源内の略系及人物、性行
    • p84 (21) 源内の肖像に就て
      • p88 六、小倉右一郎氏作彫塑平賀源内
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    • pp121-123: 『魚籃先生春遊記』の筆削
      • p123: 注五「森氏は右端源内、左端南畝とされる、賛意を表したい。」
    • 本書に記載されていない補足: 1977年に『魚籃先生春遊記考』(野間光辰著)が発表された。これを受けて延広は1977年に、「烏亭焉馬年譜(二)」(1970年)で述べた見解は再考が必要としている。
    延広, 真治 著「天明・寛政期の烏亭焉馬◯その二補正」、井浦芳信博士華甲記念論文集刊行会 編『井浦芳信博士華甲記念論文集 芸能と文学』笠間書院、東京、1977年12月20日、189頁。doi:10.11501/12455749NCID BN02303552国立国会図書館書誌ID:000001362135https://dl.ndl.go.jp/pid/12455749/1/76 
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    • 「更に『平賀源内墓』と刻めり。此五文字を刻める石は先年大学生等が、補ひたるよし寺僧の物語なれど、三枝守道の温故拙記に同じ図を載せたるを以て、その然らざることを知るべし。」
  60. ^ 浪岡具雄「平賀源内のこと」『武蔵野』第16巻第1号、1930年7月、30頁、doi:10.11501/7932491ISSN 0914-0514国立国会図書館書誌ID:000000022959 (要登録)
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    • 本文記載以外の補足: 『平賀源内全集 下巻』は、昭和9年版(1934年)と昭和10年版(1935年)の2種類ある
  66. ^ a b c 城福, 勇平賀源内の研究』創元社、大阪〈創元学術双書〉、1976年5月20日、429-430頁。doi:10.11501/12256126NCID BN01951003国立国会図書館書誌ID:000001223220https://dl.ndl.go.jp/pid/12256126/1/222 (要登録)
    • p49 木村季明と木村黙老はよく混同される。
    • 221 平賀源内と木村季明の交流
    • p427 總泉寺の墓と「処士鳩渓墓碑銘」の関係
    • p427 安永9年(1780年)付「平賀源内碑」と1845年写本「処士鳩渓墓碑銘」の文面比較。前者は後者の草稿と推定される。
    • p428 「平賀源内碑」:「請余銘其墓。銘曰。嗟非常人。[]」
    • p429 杉田玄白による能見堂建碑構想
    • p443 平賀源内と木村季明の交流
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    • 原著書誌: 劇童子「戯曲家としての平賀鳩渓」『早稲田文学』第28号、東京専門学校、東京、1892年11月30日、16頁、NCID AN00326661 
    • 記載以外の補足:
  70. ^ 大槻, 如電安永八年己亥 一七七九 十二月」『新撰洋学年表』大槻茂雄、東京、1927年1月10日、69頁。doi:10.11501/1124200NCID BN0975439X国立国会図書館書誌ID:000000676289https://dl.ndl.go.jp/pid/1124200/1/45 
  71. ^ 平賀源内履歴取調書写(承前)」『節減会報告』第3号、節減会、香川県香川郡、1890年3月1日、37-38頁、doi:10.11501/1544990NCID AA11260439 (要登録)
  72. ^ 讃岐平民 葉下窟主人平賀源内(一)」『頓智と滑稽』第2号、1895年6月、7-8頁、doi:10.11501/1601306国立国会図書館書誌ID:000000044142 (要登録)
  73. ^ 平賀源内記念館
  74. ^ 平賀源内記念館』 - コトバンク

参考文献

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  • 中村幸彦校注 『風来山人集』〈『日本古典文学大系』55〉 岩波書店、1961年
  • 平賀源内先生顕彰会編 『平賀源内全集』(全二巻) 名著刊行会、1970年

関連項目

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外部リンク

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