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森下孝

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森下 孝(もりした こう[1]1914年大正3年)6月9日[2][3] - 1999年平成11年)12月28日[2])は、昭和期の実業家政治家衆議院議員

経歴

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栃木県出身[1][2]。染色業・森下房次郎、えい の六男として生まれる[3]。1929年(昭和4年)足利柳原尋常高等小学校高等科を卒業し、家業に従事[3]

森房繊維科学研究所に勤務し[1][2]、1931年(昭和6年)に独立して織物商を開業[1][3]。1938年(昭和13年)召集され宇都宮師団に入隊し、越後高田の独立第3砲兵団に転属し日中戦争に出征[3]南昌作戦などに参戦[3]。1940年(昭和15年)戦傷と栄養失調で内地に送還され宇都宮陸軍病院に入院[3]。1941年(昭和16年)宇都宮陸軍病院を退院して召集解除となり、同年、栃木県絞染商事専務取締役に就任[1][2][4]。1942年(昭和17年)三国兵器 (株) を設立し社長に就任して木製飛行機製造を準備[1][2][4]。同年、再度召集されたが病気が再発して陸軍病院退院後に召集解除[4]。同年、木製飛行機の製造を開始し工場を拡張したが、終戦により工場を閉鎖した[4]

1946年(昭和21年)個人商店・三国商会を立上げ織物業を開業[4]。同年4月の第22回衆議院議員総選挙で栃木県全県区から無所属で出馬して落選[5]。1947年(昭和22年)織物問屋・三国物産を設立し社長に就任[6]。同年、日本自由党足利支部が結成され支部長となる[6]。同年4月の第23回総選挙栃木県第2区に日本自由党所属で出馬したが次点で落選[7]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙民主自由党公認で出馬して当選し[8]、衆議院議員に1期在任した[1][2]

1950年(昭和25年)三国物産を解散し、1953年(昭和28年)森下事務所を開設して建設業の準備を開始[6]。その後、分譲住宅業を始め、1959年(昭和34年)モリシタ産業を設立して取締役社長に就任[1][2][6]。その後、観光部を設置し、伊豆下田の下田城、東松山湖フィッシングセンター、伊豆・大滝ランドを開設した[9]。1974年(昭和49年)モリシタ産業会長に就任した[2][10]

その他、日本郷友連盟渋谷郷友会会長[10]自由民主党同志会常任理事などを務めた[1]

伝記

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  • サンケイ新聞編『死んでたまるか!! : 不況を知らない、不況に強い森下商法のヒミツのすべて!!』サンケイ新聞社、1978年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』654頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『現代物故者事典 2000-2002』894頁。
  3. ^ a b c d e f g 『死んでたまるか!!』213頁。
  4. ^ a b c d e 『死んでたまるか!!』214頁。
  5. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』373頁。
  6. ^ a b c d 『死んでたまるか!!』215頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』117頁。
  8. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』67頁。
  9. ^ 『死んでたまるか!!』215-216頁。
  10. ^ a b 『死んでたまるか!!』216頁。

参考文献

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  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『現代物故者事典 2000-2002』日外アソシエーツ株式会社、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。