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田中啓一 (蕨市長)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田中 啓一
たなか けいいち
生年月日 (1926-04-02) 1926年4月2日
出生地 埼玉県蕨市
没年月日 (2021-06-21) 2021年6月21日(95歳没)
出身校 埼玉県立川越工業高等学校 卒業
所属政党 無所属
称号 従四位 旭日中綬章
親族 長男・田中良生衆議院議員

第5代 蕨市長
当選回数 7回
在任期間 1975年 - 2007年6月5日
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田中 啓一(たなか けいいち、1926年大正15年)4月2日[1] - 2021年令和3年)6月21日)は、日本政治家埼玉県蕨市の前市長である。位階従四位

経歴

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1944年3月に埼玉県立川越工業学校(現・埼玉県立川越工業高等学校)を卒業した。

父の反対を押し切り、1953年蕨市議会議員に出馬・当選した。

1970年に市議会議長を経て、1975年に蕨市長に当選した。 1980年に日本で全国初の総合体育館併設のコミュニティーセンターを落成、1988年には日本で全国初のまちづくり条例を制定させた。また任期では大阪府貝塚市の市長である吉道勇の10期に次いで全国2番目となり、高齢市長としては上から3番目にランクされた。

2007年の2月21日に勇退を表明、同年6月3日に行われた蕨市長選では、蕨市議の庄野拓也を後継指名したが、共産党無所属賴髙英雄に敗れた。保守派の敗北となり「市民が選択したことなので、結果は市民が負う。市長が代わっても何でもかんでも変えられない。そんなことをしたら財政が破綻する」と改革派を牽制したコメントを出した[2]

2008年5月3日に蕨市名誉市民称号を授与され、同年11月に旭日中綬章[3]も受章した。

2021年6月21日0時52分、老衰のためさいたま市の病院で死去[4]。95歳没。死没日をもって従四位に叙される[5]

人物

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市の広報誌の雑感には、毎月第1木曜日に市民との会合を開き、350回にのぼったとある。健康の秘訣は「暴飲暴食と夜遊びはしなかったこと」。退任の挨拶では「32年間問題もなく、満期で退任するのはホッとすると同時に安心した」とコメントを残している。

退任直前、読売新聞から2004年に市内小学校で発生したいじめ自殺についての取材を受けるも、その応答が「他人事のような対応に終始」と評せられる(2007年5月19日付コラム)。

脚注

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  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、114頁。
  2. ^ 県内初の共産籍 党派超え頼高氏当選 蕨市長選[リンク切れ](web埼玉)
  3. ^ 中綬章受章者の顔触れ(1)”. 四国新聞社 (2008年11月3日). 2023年6月17日閲覧。
  4. ^ 田中啓一氏死去(田中良生自民党衆院議員の父) - 時事ドットコム 2021年6月21日
  5. ^ 『官報』第546号8頁 令和3年8月3日号