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立花寛治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立花寛治
たちばな ともはる
生年月日 1857年10月22日
没年月日 (1929-02-05) 1929年2月5日(71歳没)
出身校 学農社農学校
前職 三田育種場長補
配偶者 立花鈎子
立花邦子
立花鍈子
親族 義養父・松浦詮(貴族院議員)
娘婿・立花種忠(貴族院議員)
弟・立花寛正(福岡県会議員)

在任期間 1890年7月10日 - 1904年7月

下谷区会議員
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立花 寛治(たちばな ともはる、1857年10月22日(安政4年9月5日[1])- 1929年昭和4年)2月5日[1][2])は、日本の農業指導者、政治家華族貴族院伯爵議員。幼名・径丸[3]

経歴

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第12代柳河藩主・立花鑑寛の二男として生まれる[1]慶応4年8月1868年9-10月)立花家一門の立花大学家の養子となるが、1873年1月に兄・鑑良が病死したため、1874年2月14日、実家に復籍[3]。同年12月28日、父の隠居に伴い家督を相続した[1][3]1884年7月7日、伯爵を叙爵した[4]

同人社学習院で学んだ[2][3]。農学による富国の実現を志し、津田仙の学農社農学校に入塾した[5][6][7]1885年9月1日、三田育種場長補に就任したが、翌年に育種場は廃止された[8]1887年、宮内省に農業で報国したいとの意思を伝え、旧領地帰郷の特別許可を得る[9]福岡県山門郡中山村(現柳川市)に中山農事試験場(立花家農事試験場)を設立し、作物の試験栽培、種苗交換会・農談会の開催、出版物の刊行などを行い、地域の農業振興に寄与した[6][7][10]1889年、貫属を変え柳川に移住[11]1915年、農事試験場は立花農場と改称[6]。また、水産・農産の缶詰製造を行う興産義社の育成にも尽くした[7]

1890年7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、1904年7月まで2期在任した[2]。その他、東京府下谷区会議員などを務めた[2]

著作

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  • 『内外果樹便覧 : 附・有用植物略説』立花寛治、1891年。
  • 『穀菜栽培便覧』立花寛治、1891年。

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』下巻、46-48頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』27頁。
  3. ^ a b c d e 『明治期の旧藩主家と社会』85頁。
  4. ^ 『官報』第307号、明治17年7月8日。
  5. ^ 『明治期の旧藩主家と社会』88頁。
  6. ^ a b c 『福岡県百科事典』下巻、72-73頁。
  7. ^ a b c 『日本食文化人物事典』192頁。
  8. ^ 『明治期の旧藩主家と社会』101頁。
  9. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、484頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  10. ^ 『明治期の旧藩主家と社会』84、102、104頁。
  11. ^ 『明治期の旧藩主家と社会』9頁。
  12. ^ a b c d 立花寛治『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  13. ^ 伯爵令嬢・立花文子立花家史料館
  14. ^ 立花財団について 概要公益財団法人立花財団
  15. ^ 立花寛正『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  16. ^ 立花寛篤『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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  • 『福岡県百科事典』下巻、西日本新聞社、1982年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 西東秋男編『日本食文化人物事典 - 人物で読む日本食文化史』筑波書房、2005年。
  • 内山一幸『明治期の旧藩主家と社会:華士族と地方の近代化』吉川弘文館、2015年。

関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
柳河立花家初代
1884年 - 1929年
次代
立花鑑徳
当主
先代
立花鑑寛
柳河藩立花家
1874年 - 1929年
次代
立花鑑徳