台湾沖航空戦
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台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中、フィリピンのレイテ島への上陸作戦の布石として、台湾から沖縄にかけての日本軍航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊に対し、日本軍の基地航空部隊が迎撃したことで発生した航空戦。アメリカ軍の損害は軽微なものであったが、日本軍は大戦果と誤認した。
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 307-309頁
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 290頁、戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで309-310頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁
- ^ カール・ソルバーグ『決断と異議』P94
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 688頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで620頁
- ^ サミュエル・エリオット・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』光人社310頁
- ^ 『決断と異議』P93
- ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ』5巻P205
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか59頁
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか61頁
- ^ 大井篤『海上護衛戦』学研M文庫、p.333
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- ^ Ronald H. Spector (2012). Eagle Against the Sun: The American War with Japan. Free Press. p. 425. ASIN B009NG1PYC(Google Booksで閲覧可能な当該ページ)
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか77頁
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか130頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 182-183頁。
- ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫339頁
- ^ a b 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁、『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫339頁
- ^ a b c d e 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁
- ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 713頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 715頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁
- ^ NHK製作テレビ番組『幻の大戦果 大本営発表の真相』インタビュー
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁
- ^ 戦史叢書45巻大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 447頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 160頁-164頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 171-172頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 186頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで712頁
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期545-547頁
- ^ 門司親徳『回想の大西滝治郎 第一航空艦隊副官の述懐』光人社25頁
- ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫338頁
- ^ 『モリソン戦史』(History of United States Naval Operations in World War II),柳田邦男『零戦燃ゆ』5巻P223
- 1 台湾沖航空戦とは
- 2 台湾沖航空戦の概要
- 3 経過
- 4 参加兵力
- 5 評価
- 6 外部リンク
台湾沖航空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:26 UTC 版)
「ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「台湾沖航空戦」の解説
ザ・サリヴァンズは10月6日以降、台湾と沖縄を空襲する空母の護衛を行う。10月12日に多数の日本軍機がレーダーに捉えられ、台湾沖航空戦の火ぶたが切られた。続く6時間、約50 – 60機の日本軍機が空襲を行った。日没から45分あまり経った後、ザ・サリヴァンズは右舷から低空で接近してきた一式陸上攻撃機を発見し、射撃により炎上させた。続く15分間、ザ・サリヴァンズを含む部隊は3機を撃墜した。18時56分から19時54分にかけてザ・サリヴァンズは5機の撃破を報じている。敵機の攻撃に対してザ・サリヴァンズは18ノットから29ノットに加減速を繰り返しながら8度の緊急回避を行いつつ対空射撃を続けた。 空襲の第2波は12日21時5分から始まり、翌13日2時35分まで続いた。日本軍機は照明弾を投下して目標であるアメリカ艦隊を照らす間、レーダーを攪乱するために欺瞞紙(チャフ)を多用するようになった。ザ・サリヴァンズらは照明弾の明かりから艦隊を隠すために煙幕の展開を行ったため、一帯に靄と明かりが不気味な光景を作りだしていた。ザ・サリヴァンズと僚艦は22ノットから25ノットで合計38回の一斉回頭を行いながら、敵機を迎撃できるように砲を臨戦態勢に置き続けた。 13日、空母から発進した艦載機は台湾空襲に成功したものの、重巡洋艦キャンベラ(USS Canberra, CA-70)が一式陸攻の雷撃で損傷したため、ザ・サリヴァンズはキャンベラの援護を行った。翌日、今度は軽巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL-81)が雷撃されて損傷、ザ・サリヴァンズはすぐにヒューストンの護衛に加わり、キャンベラとヒューストンを守りながらウルシーへ後退した。後退中の16日にも激しい空襲を受け、ヒューストンは艦尾部に2度目の雷撃を受ける。ザ・サリヴァンズは発砲を開始し、銀河1機を撃墜した。さらにザ・サリヴァンズとステフェン・ポッター(Stephen Potter, DD-538)は別の銀河を射撃して炎上させ、燃える銀河はそのまま軽巡洋艦サンタフェ(USS Santa Fe, CL-60)の艦首近くの海面に突っ込んだ。ザ・サリヴァンズはヒューストンから118名を救助し、18日に重巡洋艦ボストン(USS Boston, CA-69)へ移乗させた。ザ・サリヴァンズは損傷したヒューストンに応急修理用の機材を運搬し、負傷者への援助を行った。このヒューストンに対するザ・サリヴァンズによる一連の救援活動の功績により、ラルフ・J・バウム(Ralph J. Baum)中佐は彼にとって初となる銀星章を受章した。
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台湾沖航空戦
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「ヒューストン (軽巡洋艦)」の記事における「台湾沖航空戦」の解説
一連の空襲により、第38任務部隊は台湾にある航空基地を片っ端から潰していき、これに対して日本の第一航空艦隊(寺岡謹平中将)と第二航空艦隊(福留繁中将)は攻撃隊を何度も出撃させた。10月12日、ヒューストンは日本の航空攻撃に対して対空砲火を撃ち、4機を撃墜。翌13日も航空攻撃を跳ね返し続けた。しかしこの日、僚艦キャンベラ (USS Canberra, CA-70) に航空魚雷1本が命中し、キャンベラは炎上して航行不能に陥った。10月14日、ヒューストンは3度の攻撃を受け、夕刻18時45分ごろの攻撃で航空魚雷1本がヒューストンの右舷機関室区画付近に命中した。航行不能に陥ったヒューストンは、早くも総員退艦が令されたが、すぐさまこれは取り消され、ベーレンズ艦長はヒューストンの曳航を要請し、ボストン (USS Boston, CA-69) がこれに応えた。キャンベラの曳航はウィチタ (USS Wichita, CA-45) に委ねられた。 ヒューストンとキャンベラの件で大騒ぎしている頃、ハルゼーは妙案を思いついた。傍受した日本側のラジオからは大勝利を連呼する放送が流れ、日本側が「アメリカ艦隊全滅」と信じきっていると感じたハルゼーは、日本に対して罠を仕掛けることとした。ヒューストンとキャンベラを中心に囮部隊である第30.3任務群を臨時編成し、これを「敗残アメリカ艦隊」に仕立て上げ、その「敗残艦隊」から適度に離れた場所に2つの任務群を置き、罠に引っかかってお出ましになった日本のあらゆる部隊を一網打尽にしようと企てたのである。 真夜中までには、ヒューストンとキャンベラの曳航準備は整い、両艦は「敗残アメリカ艦隊」の中枢としてウルシーに向けて、最高6ノットの速力で曳航され始めた。ヒューストンはボストンおよび艦隊タグボートパウニー (USS Pawnee, ATF-74) に曳航されていた。10月16日午後、台湾からの攻撃隊が「敗残艦隊」を空襲し、そのうちの1機がヒューストンの艦尾に魚雷を命中させた。ヒューストンは観測機用の格納庫に浸水し被害が大きくなった。 ベーレンズ艦長は必要な乗組員以外は他の艦船に避難させ、ヒューストンには幹部と被害対策班だけが残って、懸命にヒューストンを生かすよう努力し続けた。日本側はハルゼーの読みどおり、「敗残艦隊」を本物の敗残艦隊と信じて攻撃を加えたが、予想された水上部隊、志摩清英中将率いる第五艦隊はついに出現しなかった。偵察機を発見し、大勝利が幻であることを察知し避退したからである。志摩中将の艦隊は奄美大島に向かい、その代わりとして攻撃隊が「敗残艦隊」を襲った。ハルゼーの謀略は、最終的には成功しなかった。ヒューストンとキャンベラの「敗残艦隊」は、やがて日本機の勢力圏内を脱し、10月27日にウルシーに帰投。応急修理の後、マヌス島に回航され12月20日に到着し、同地の浮きドックで修理を行った。さらに本格的な修理を行うことが決まったが、西海岸にある施設は、他の損傷を受けた艦船の修理で手一杯であり、手が回らないということで、真珠湾を経てブルックリン海軍工廠に回航され、1945年3月24日に到着した。入渠中に戦争が終結し、ヒューストンは二度と戦線に復帰することはなかった。
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