マイケル・ジャクソン
マイケル・ジャクソン Michael Jackson | |
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基本情報 | |
出生名 |
マイケル・ジョセフ・ジャクソン Michael Joseph Jackson |
別名 |
ジョー・ジャクソン Joe Jackson |
生誕 |
1958年8月29日 アメリカ合衆国・インディアナ州ゲーリー |
死没 |
2009年6月25日(50歳没) アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス |
ジャンル |
ポップ R&B ソウル ニュージャックスウィング ファンク ロック ダンスポップ ディスコ クラブ |
職業 |
シンガーソングライター ミュージシャン ダンサー 作詞家 作曲家 編曲家 実業家 音楽プロデューサー 俳優 振付師 MC DJ |
担当楽器 |
ボーカル ギター シンセサイザー ピアノ キーボード ベース ドラムス ラップ ヒューマンビートボックス |
活動期間 | 1967年 – 2009年 |
レーベル |
モータウン エピック・レコード ソニー・レコード マイケル・ジャクソン・カンパニー |
共同作業者 | ジャクソン5 |
公式サイト | MichaelJackson.com |
マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国のエンターテイナー(シンガーソングライター、ダンサー、音楽家、作詞家、作曲家、編曲家、実業家、慈善活動家、音楽プロデューサー)。
「キング・オブ・ポップ(King Of Pop)」と称される。ギネス・ワールド・レコーズでは「人類史上最も成功したエンターテイナー」他、16の記録保持者として認定されている。
ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なシンガー100人では25位[2]。
ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティストでは第35位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第51位[3]。
来歴
幼少期
1958年8月29日、ジャクソン・ファミリーの六男として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。 ゲーリーは、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、最初の黒人市長が出た場所でもある。 父ジョセフは、USスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士、母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様で、活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた[4][5]。
1962年、あのとき父のギターを息子達が隠れて演奏していると、弦を1本切ってしまう。 勝手に切れたと思ってほしいという願いもむなしく、父に問われ、「殺される」と恐れたが、意外にも冷静に「演奏して見せろ」と言われ、ティト達が必死になって演奏すると、ジョセフはなかなかうまいことに気がついた。 「これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思ったジョセフは、息子達に歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた2人[注釈 1]でボーカルグループを結成した。
1963年、マイケルは兄マーロンと共に2人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入る。マイケルは幼稚園時代に映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌ったこともあった。 マイケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves Plus Michael」の一員として頭角を現した。 初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドル。 ほぼ無名の状態であったが、タレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで、地道に名前が知られるようになっていった。
1965年、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたコンテストで、テンプテーションズの「My Girl」を披露し、優勝した。
The Jackson 5期
1966年、4人の兄達と「ジャクソン5」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これにより、ジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため、前座の出演であった。この過程で、ジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど、様々なスターのパフォーマンスを勉強した。 また父の稽古は非常に厳しく、その時のことを以下の様に語っている。
「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座っていて、間違えると叩かれ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた。ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった。父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」
1968年1月、「スティールタウン・レコード」から「Big Boy」でデビューする。 当初、ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、ダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。 7月に、モータウンと正式に契約。
1969年10月、シングル「I Want You Backでメジャーデビュー。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、いきなりヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながら、ビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手は、ビートルズの「Let It Be」であったが、首位の座から引き摺り下ろし1位を獲得。続く「The Love You Save」「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
1971年10月、シングル「Got To Be There」でソロデビュー。 11月には、人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。
1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。 マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。 モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。 マイケル本人も背が伸び、酷いにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。 のちに姉ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と語っている。
1975年、自分達による音楽を求めたメンバーはモータウンを離脱、エピック・レコードへ移籍した。
その際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めなかった為グループは名を「ジャクソンズ」に改めた。
このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム『Destiny』がヒットし、その不安を一蹴し、新たらヒット曲を生み出した。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。
1978年、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「Wiz」にカカシ役で出演していた際、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「Wiz」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。 年末に発売された映画からの「You Can't Win」が、エピックでのデビュー曲であった。
Off The Wall期
1979年、クインシーをプロデューサーに迎え、『Off The Wall』を制作。 7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」では、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけ、最終的には全米チャートを制覇した。 このアルバムでは同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。
1981年3月、1975年発売の『Forever Michael』から、「One Day In Your Life」がモータウンから発売されたが、『Off The Wall』の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、ポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット[注釈 2]を発表した。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを観たとマイケルは語っている。
Thriller期
1982年6月、クインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。 同年『Thriller』を発売。Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、『Thriller』はアルバムの売り上げのギネス記録に認定されることになる。
1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われているこの曲は「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている。
2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。 このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のギャング」を起用した。
5月には、モータウン25周年コンサートでムーンウォークを初めて披露した(ビデオ映像)。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したと言われている[要出典]。 この初披露のムーンウォークではラストの爪先立ちが上手く出来ず満足出来なかったとのちのインタビューで語っている。 12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。 のちにMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。
1984年2月には本人出演のペプシのCMでライブバージョンを撮影中、大きなやけどを負った[6]。 この時は皮膚移植手術によって完治した。 ペプシ側はマイケルに対して推定3億円あまりの賠償金を支払ったが、マイケルはこの賠償金の全額を治療した病院に寄付した。 この一件についてマイケルはペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。 『Thriller』の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルはアルバム『Victory』収録曲のうち3曲でリード・ボーカルを担当するが、結局「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。
1985年、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」を製作した。 その姿勢は評価され、多くの賞を受賞した。ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評を買った[7]。この頃から彼は尋常性白斑を患っていたため、手袋を外せなった。
Bad期
1986年5月、ペプシとの契約を更新。8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。
1987年8月、アルバム『Bad』が発表。「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。
9月からBad World Tourを日本から開始。
1988年1月、自伝「ムーンウォーク」を出版。 4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。
同年末、NHKが『第39回NHK紅白歌合戦』にマイケルを出場させるというプランを立てていた。この年12月9日 - 26日まで9回の東京ドーム公演を開催するマイケルにそのまま日本に滞在してもらい、出場してもらうというものだったが結局は実現しなかった。[8]。
1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・テイラーはこれを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称した。のちにマイケルが「キング・オブ・ポップ」と呼ばれる様になったキッカケである。
Dangerous期
さらなる極みを目指し『Dangerous』を制作。このアルバムからクインシーとのタッグを解消した。
1991年10月、先行シングル「Black Or White」を発売。同作は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。
11月にアルバム『Dangerous』を発売。
1992年1月には「Remember The Time」を発売。 翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド、マジック・ジョンソンと共演した。なかでもイマンとのキスシーンは話題となった。
4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」が発表される。
7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で共演する「Jam」が発表された。 同月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。
1992年、2度目のワールドツアー「Dangerous World Tour」をスタート。ユーコ・スミダ・ジャクソンも参加した。収益金はマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。
1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。
2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。
スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。 この際マイケルはノーギャラで出演した為、その後はノーギャラ出演が伝統になった。[9]
8月、彼はマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。
1994年には、MJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。 10月のベスト・アルバム発売が予定されていたが延期に。
HIStory期
1995年6月、延期されていた2枚組アルバム『HIStory』を発売した。当初は新曲は4曲で1枚のベスト・アルバムの予定であったが、新曲が大幅に追加された。
アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹ジャネットとのデュエットが話題となった。史上最も費用のかかったPVとしてギネス記録にも認定された。
8月「You Are Not Alone」を発売。アメリカでは前人未到のポップ・R&B初登場1位を獲得。
12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。 イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。
1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。
7月16日にはブルネイの国王であるハサナル・ボルキアに招待され国王の誕生日とジュルドンパークオープン記念に無料コンサートRoyal Bruneiを開催した[10]。 1996年9月からHIStory World Tourを開始。
11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。
1997年、突如『Blood on The Dance Floor』を発売。 プロモーションも殆ど行わなかったが600万枚以上の売り上げを記録した。 リミックスアルバムとしては世界で最も多く売り上げた。
10月に発売予定であった『HIStory』からの第7弾シングル「Smile」だが、この頃ソニーとの確執が表明化し叶わなかった。 一部で幻版が出回ったのみである。
1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがチャリティコンサートMichael Jackson & Friendsを開いた。 収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。 この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。 この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、1つも実現しなかった。
Invincible期
2000年12月12日に第16回ロックの殿堂入りが決定され、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。 ジャクソン5としても1997年に殿堂入りしている。
2001年8月、『Invincible』の先行シングルとして「You Rock My World」を発売。
9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝いコンサートを行った。 その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。 これにより密かに予定されていたといわれる「Invincible World Tour」が中止となった。 事件に衝撃を受けたマイケルはチャリティシングル「What More Can I Give ?」を企画。多くの大物アーティストが参加し、コンサートも行われたが、CD発売にはいたらなかった。ダウンロード販売が行われたのみである。
2001年10月、アルバム『Invincible』を発表。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実際、このアルバムが生涯最後のものになった)[11]。 この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げることになる。(後述ソニーウォーズ)
晩年
2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。 マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。 訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて 「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。あの時とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」 と謝罪した。 マイケルの友人であるユリ・ゲラーは 「マイケルには多大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれません。でも最高の父親です」 と語っている。 この際パパラッチから子供を守る為顔を隠していたことも一部で話題となった。
2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。 ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。 その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。 この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。
11月18日、ベスト盤『Number Ones』をリリース。 直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。 この年はノーベル平和賞にノミネートされた。
2004年12月15日限定発売ボックスセット『The Ultimate Collection』を発売。
2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。
7月、2枚組のベスト盤『The Essential Michael Jackson』を発売。 アメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。
2006年、マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(Visionary: The Video Singles)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。
2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラー・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。 5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。 「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。
27日、日本でMTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。
28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。 また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。 結果的にこの出演が生前最後のテレビ番組出演になった。
6月17、18日にはベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム『Voices』に参加し「Earth Song」を収録している。
無罪評決を受けて音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディが再び参加すると伝えられた。
2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。 同月マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。
11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム『スリラー』の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道されたが実際には6500万枚と記載されていた。 同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。
11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。
12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。 高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。 デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。
12月25日、マイケルが尊敬する人物の一人ジェームズ・ブラウンが死去。 ジェームスは生前自分がマイケルに対し好意を持っていたことを述べ、「アメリカへ戻って来ることについては心配するなと伝えてくれ」と語っていた。 そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。 マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。
12月30日にはブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。 マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。
2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を借り切っておもちゃなどを購入。 3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。 3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日14時過ぎ、神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。 3月14日に離日。
2008年2月、Thriller 25をリリース。 9月にはマイケル生誕50周年記念とし「King of Pop」世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の15曲が収録された。
2009年3月5日、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは生涯最後の公演になる」と発表。 その後「THIS IS IT」のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表された。 チケットは全公演分がわずか5時間で完売した[12]。 なお、当初は7月8日からスタートする予定であったが、7月13日からのスタートに延期された。 この頃より準備及びリハーサルに入った。
死後
2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送される。約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された(死亡日時はカリフォルニア時間)[13]。死亡当時は身長180cm・体重50kgだった。 マイケルの死は各国のメディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNやBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた。ネットサイトでも大きな話題を呼んだ。まず最初に報道したのはアメリカのセレブリティ専門サイトのTMZで、死後18分後という異例の速さだった。その後、ロサンゼルス・タイムズがその7分後に続いた。2つのサイトはアクセス数の急増によってダウンし、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり、「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった[14]。
日本において最も早かったのは東京のFM局J-WAVEである。2009年6月26日に放送されていた「〜JK RADIO〜TOKYO UNITED」(ナビゲーター:John Kabira)の中、午前6時(米西部時間14時)の番組冒頭でマイケル死去の一報が報じられた。各テレビ局の多くが病院に搬送された時点では、「マイケルジャクソンが死亡したと思われる」と報道し、実際に「マイケルジャクソンが死去」と断定して報道したのは、それから数日たってからであった。また、午前6時50分過ぎにはアメリカサイトに引用による通信社の電文を放送した。その後はマイケルの関する話題に触れながらヒット曲を放送する体制となった。
7月1日 マイケルに雇われていた看護師のシェリリン・リーは、ABCニュースのインタビューにおいて、2009年4月頃に深刻な不眠に悩むマイケルから睡眠導入のために麻酔薬プロポフォールの処方を依頼されたが断ったと話した[15]。(プロポフォールは、外科手術において全身麻酔の導入・維持に用いられる麻酔薬である。)心臓マッサージを床で行わなかった件も一説ではある。
7月11日、ロサンゼルス市警察は、プロポフォールの不適切な使用が死因である疑いは強く、処方医による重過失致死の可能性がある、と表明した。
7月13日、マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。
7月22日、ロサンゼルス市警察は、ロンドン公演「THIS IS IT」におけるツアー専属医として5月から雇用されており、マイケル死亡時に心肺蘇生を行ったとされる心臓内科医コンラッド・マーレーのオフィスを家宅捜索した[16]。
8月24日、警察の事情聴取に対するマーレーの宣誓供述書とされるものが報道された。「不眠治療のためにマイケルに、5月中旬から6月22日までの6週間、連日プロポフォールを投与した。依存症になることを懸念し6月23日にはプロポフォールの使用を中止し他の薬に切り替えたが、死亡日である6月25日には催眠鎮静剤であるロラゼパム、ミダゾラムを断続的に投与するも眠りにつかせることができず、マイケルの要求によりプロポフォールを25mg点滴投与した。それによりマイケルが眠りについた後、トイレのため2分程離れ、戻ると呼吸をしていなかった」という内容だった[17][18](呼吸抑制作用のある麻酔薬プロポフォールの投与中は、患者の呼吸状態等を常に監視し続けることが義務づけられている)。
8月28日 ロサンゼルス検視当局が死因を公式発表。急性プロポフォール中毒とした上で、第一の死因はプロポフォールとロラゼパムの複合使用と指摘した。殺意の有無に関わらず、他者による外的要因により死亡したとする故殺であることも断定した[19]。
10月1日 AP通信が検死報告書のコピーを入手したと報道。内容は「検視当局による解剖の結果、肺に炎症は見られるものの息切れがあった可能性がある程度で、他の心臓や腎臓などの臓器は健康であり、マイケルの健康状態は50歳の男性として総合的に見て十分良好であった。また、AP通信が麻酔の権威である医師に報告書への見解を求めたところ、『マーレーが投与した呼吸抑制作用を持つ鎮静剤と麻酔薬プロポフォールの組み合わせが非常に危険であり、その複合作用により呼吸停止が起こった可能性が高い』と指摘した」というものだった[20][21]。なお、ロサンゼルス検視当局はこの報道について「検視当局内部から漏らしていない」とコメントしたが、検死結果の内容については否定しなかった(過去にタブロイド誌が報道した他の検死結果については間違いであると正式に否定している)。
彼の死は全世界のレコードチャートに影響を与えた。全英では直後に『Number Ones』が1位を獲得。その後『The Essential Michael Jackson』が7週連続で1位を獲得。本国アメリカのBillboard 200では当時は新譜のみ扱うというルールがあり、マイケルの作品は旧譜のカタログ扱いでランクインされなかったが、サウンドスキャン集計の総合セールス(及びそれを基にしたBillboard Comprehensive Albums)では『Number Ones』『The Essential Michael Jackson』『Thriller』の3作がこの週首位のブラック・アイド・ピーズの「The E.N.D.」を上回る売り上げを記録。カタログチャートの作品がBillboard 200で首位の作品をセールスで上回る現象はビルボード史上初のことであった。なお、この年の12月5日付けのチャートからこのルールは変更され、旧譜もBillboard 200にランクインできるようになった(同時にBillboard Comprehensive Albumsは廃止された)。
2009年6月29日ジャクソンのスタジオ・アルバム5作品を紙ジャケット仕様にしたボックス・セット『The Collection』がヨーロッパでリリース。2009年7月7日「THIS IS IT」のリハーサルを行なっていたロサンゼルスのステイプルズ・センターで追悼式が開かれる。遺族や親交のあったミュージシャン、抽選で選ばれたファン等2万人が参列。当時11歳の娘、パリスは「生まれた時からずっと、ダディはこれ以上ないくらい最高な父親でした。すごく愛してるわ。」とスピーチし、泣き崩れた[22][23]。
9月17日に裁判所から5億ドルとも言われるマイケルの遺産の行方に関する法廷文書が公開された。その文書によるとマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに孫であるマイケルの3人の子供達の養育権を与え、キャサリンが現在、暮らしているマイケルの邸宅の維持費の他に介助費、洋服代、使用人への賃金、娯楽費など合計で2万6000ドル(日本円で約240万円)、子供達には世話係への報酬、娯楽費など3人で6万ドル(日本円で約550万円)の合計8万6000ドルが月ごとに支払われることが明らかになった。マイケルは生前からキャサリンを経済的に支えていたため、子供達の永久後見人に指名された彼女を今後も遺産でサポートするように遺産管理人は裁判所に求めていた。
10月12日、インターネット上で未発表曲「THIS IS IT」が解禁となる。
10月28日「THIS IS IT」のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画「Michael Jackson's This Is It」が全世界で同時公開される。監督はケニー・オルテガ。当初は2週間限定上映であったが、人気により2週間上映が延長された。日本では週末興行収入3週連続1位を獲得した。 また映画のサウンドトラックである『THIS IS IT』も同時に発売された。このアルバムはオリコンチャート初登場1位を獲得。これは『Bad』以来23年ぶり3作目の記録であった。
12月7日付けオリコン音楽DVDチャートで「live In Bucharest」が5位を獲得。その後、歴代洋楽DVD売り上げランキングにおいて第1位になった。
12月30日、「Thriller」のミュージック・ビデオがアメリカの国立議会図書館に永久保存される。ミュージック・ビデオが保存されるのは今回が初めてである。
2010年1月1日、「The Collection」が日本でリリースされる。
1月27日、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」のDVDとBlu-rayがリリースされ、オリコン週間DVD総合チャートとオリコン週間Blu-ray総合チャートで、2月8日から3週間連続第1位を獲得した。
6月2日、マイケルの故郷であるインディアナ州ゲーリーに3億ドル(日本円で約227億円)の予算をかけてマイケルに捧げる博物館を建設する計画が動き出したことがわかった。マイケルの父であるジョー・ジャクソンとゲーリー市当局はジャクソン・ファミリー博物館、マイケル・ジャクソン舞台芸術&文化センター、ホテル、劇場の建設が来年にもスタートすることを発表した。マイケルは生前、2003年にゲーリーを最後に訪れ、このプロジェクトについての交渉を行っていたが、その後の進展はなかった。父親のジョセフは「マイケルと私たち家族が待ち望んでいた計画だ」と語っており、ルディ・グレイ市長も「このプロジェクトが何千という雇用を生み出すばかりでなく、完成すれば世界中から年間少なくとも75万人の観光客がゲーリー市を訪れ、毎年1億ドル(日本円で約92億円)から1億5000万ドル(日本円で約138億円)の経済効果が得られると見積もっている。寄付と投資によって建設費はまかない、ゲーリー市が300エーカー(1.2平方キロメートル)の建設地を提供する。不況にあえぐゲーリー市住民も博物館の建設に前向きだ」と語っている。
一周忌である2010年6月25日日本でドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔」が公開となる。この映画は、ジャクソンのマネージャーであったマーク・シャフェルが監督したもので、シャフェルが10年間ジャクソンを撮影したプライベート・フィルムが元になっている。the818nowニュースによると、この日、世界中からマイケルのファンが、グレンデール市のフォレストローン・メモリアルパーク前に集まり、ゲートが開くのを待つために長い列ができた。ファンからの花やギフトなどが彼の眠る大霊廟のホーリーテラス前に設置された献花に飾られた。
日本のマイケルファンのグループからの花がトラック2台分届いた。世界中から献花された花の中では特に大きな物であったため、米国、日本のメディアの関心を引き、日本のマイケルファンの気持ちの強さを印象付けた形になった。
ジャクソンファミリーのランディ、ティト、ジャーメイン、ジャネットらが参列に訪れ、ティトは献花台近くにいたファンと握手を交わし、参列に訪れた人々に感謝を示していた。これらのニュースはYahoo! News、MTV Video[24]、www.cfnews13.com、www.washingtonpost.comなどから世界各国に紹介された。
8月、BANG Media Internationalによると、マイケルが息を引き取ったロサンゼルスのボーンビー・ヒルズにある敷地面積1.26エーカー(約5100平方メートル/1545坪)の豪邸が2900万ドル(日本円で約26億1000万円)で売りに出されたという。マイケルは生前にこの豪邸を月額10万ドル(日本円で約900万円)で借り、子供達と一緒に住んでいた。この豪邸は2008年に3800万ドル(日本円で約34億2000万円)で一度売りに出されていたが、買い手がつかずに値引きで新たに売りに出したという。フランスのシャトー風の造りになっている豪邸には7つの寝室とトイレが13室、ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージには7台の車を収容することができるという。
10月25日、米経済誌フォーブスがすでに死去した著名人が2009年10月1日から2010年10月1日までの1年間に稼いだ金額に基づき『死後、稼いだ著名人ランキング』を発表し、マイケルは1年間で推定2億7500万ドル(日本円で約222億円)の収入を上げてランキング1位になることがわかった。このランキングは13人の死去した著名人からなるランキングだが、1位のマイケルの収入は2位以下12人[25]の合計収入より多かった。
12月、生前の未発表曲を集めたアルバム『MICHAEL』を発売。
同月、TMZ.comによると、マイケルの元邸宅で現在は不動産会社コロニー・キャピタルが所有するネバーランドをマンハッタンにあるジュリアード学院の音楽院のような作曲や演奏など音楽に関するあらゆることをカバーするティーンエイジャーのための音楽学校にするビジネスプランを練っていることがわかった。しかし、この計画には2つの問題があり、1つは「ネバーランドのあるサンタバーバラ郡から音楽学校の設立の許可を得られるか」、もう1つは「学校にマイケル・ジャクソンの名前を使用できるかどうか」ということだという。この計画に対し、マイケルの遺族は「非常に面白いアイデアで可能性を感じる」とコメントを発表している[26]。
2012年、Bad発売から25年になることを祝ってBad 25周年記念盤、ライヴ・アット・ウェンブリーを発売。
2014年5月、未発表曲8曲を収録したアルバム『Xscape』をリリース[27]。
パフォーマンス
ショートフィルム
マイケルはBlack Or White以降、ミュージック・ビデオをショートフィルムと呼んでいる。 マイケルのショートフィルムが他のアーティストのミュージック・ビデオと大きく違うのはストーリーがあるところである。 今ではストーリーがあるミュージック・ビデオもそう珍しくもなくなったが、パイオニアはマイケルである。
Thrillerのショートフィルムは最も有名なミュージック・ビデオと言われている。
マイケルとジャネット共演のScreamでは700万ドルの巨費が投じられ、最も費用のかかったミュージックビデオとしてギネス記録に認定されている。
アメリカのホラー作家スティーヴン・キングが制作に参加していることでも知られるGhostsは35分の大作で最長ミュージックビデオとしてギネス記録に認定されている。 このビデオではマイケルは特殊メイクで1人5役を演じている。
ディズニーランドのアトラクション、キャプテンEOでは映画の長さ17分に対して制作費1700~3000万ドルと見積もられており、当時としては1分あたりに直して最も費用がかけられた映画だった。
音楽性
クインシー・ジョーンズと出会ってからは、ソウル・R&B、ポップなどを融合させた作品を発表。ポール・マッカートニーとのデュエットや「Beat It」でエドワード・ヴァン・ヘイレンとスティーブ・ルカサーを起用するなど、ジャンルや黒人・白人の垣根を超越した存在となった。
1987年の『Bad』、1991年の『Dangerous』ではニュー・ジャック・スウィングと呼ばれるサウンドを多用し、流行を牽引した。
1990年代後半になっても、流行に安易に迎合することを嫌いこのスタイルを保ったが、2001年の『Invincible』では同時代性を意識した曲を多く収録した。
ハードロックにも関心を示し、「Beat It」ではエディー・ヴァン・ヘイレンとスティーブ・ルカサー、「Dirty Diana」ではスティーヴ・スティーヴンス、「Black Or White」では元ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュ、「Whatever Happens」ではカルロス・サンタナと共演している。なお、クイーンのメンバーとの接近があった時期があり、「地獄へ道づれ」を提供されているが、諸事情により断り、クイーン自らでの発表を強く薦め、事実それは彼らのスマッシュヒットとなっている。しかし、後に彼らとは関係を絶っている。
パンチの効いたボーカルを聴かせるアップチューンとは対照的に、「She's Out of My Life」「Heal The World」「You Are Not Alone」などの、得意のファルセットで歌い上げるバラードも多い。
また、「Man in the Mirror」「Heal The World」「Earth Song」など、社会問題や環境問題を扱い、広く平和を訴える曲もある。
ダンス
ダンスはマイケルが抜きん出た才能を発揮した、彼の代表的魅力の一つである。1歳半の時には、洗濯機の鳴る音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていたと母キャサリンは語っている。練習の際は「フレッド・アステアやジーン・ケリーを手本にしていた」「ジェームズ・ブラウンのステップを食い入って見ていた」と本人が語っている。「踊るときは何を考えているのでしょうか」という質問には、「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えている。
因みにSmooth Criminalのショートフィルムはフレッド・アステアへのオマージュである。
「ムーンウォーク」は「ゲットーで踊る黒人の子供たちから」学んだものだと本人が語っている。また、初期のころから膝を曲げつま先で立つ独特なポーズを見せており、アルバムのフォトやムーンウォークの締めなどによく用いられる。帽子を投げるパフォーマンスでも知られる。ジャクソン5 時代から才能を見せており、先生のお手本を経った一度見た直後、見事に同じダンスを踊って見せたという。
『Off The Wall』の頃はただ曲に合わせて踊るだけであったが、『Thriller』の頃には縦と横の激しい動きが出始め、プロのダンサーたちとの競演も始まった。この頃はマイケルは技術的に様々なものを修得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も修得し、存在感を大きくしている。
さらに『Bad』の頃になると体の様々な動きをダンスに取り入れるだけでなく、動きの切れ、スピードがプロのダンサーに匹敵するレベルになり、完成されたダンスを披露するようになった。この時期に同アルバムの楽曲Smooth Criminalのショートフィルムは高い評価を受けた(このフィルムはマイケルが敬愛するフレッド・アステアの映画『バンド・ワゴン』のオマージュとなっている)が、その中で斜め立ちゼロ・グラヴィティのシーンが話題となった。この衝撃的な動きは当初映像作品の中だけのものと思われたが、後にステージで披露した(重心を物理的にありえない位置にまで投げ出すため靴の裏にフックをかける仕掛け。華奢な見た目とは裏腹に相当に鍛え上げられたダンサーとしての筋力を示す事にもなった)。ムーンウォークのBillie Jeanと並びライブツアー定番の最も人気あるパフォーマンスの一つに数えられる。
『Dangerous』の頃には動きのキレ、スピード、流れはもはや通常のダンサーのレベルを超え、バックダンサーが明らかにマイケルの動きについてこれないなど、その技術水準は極めて高い物となっていた。また、動きのしなやかさ、線の細さから来る彼独特の雰囲気は、ある種の境地に達していた。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないばかりか、寧ろ、30,40と年を重ねていくごとにパフォーマンスの種類は増し、動きに磨きがかかっていった。
2005年には裁判の精神的ショックから著しい衰弱が伝えられファンから心配されたが、2006年3月に兄のジャーメインが「毎日300回の腕立て伏せと腹筋をやっている」ことを伝え、精神的なタフさとその自分に対する厳しさで皆を驚かせた。そして、2006年5月には回復した姿を日本で披露した。
ドキュメンタリー映画「THIS IS IT」 で見せた姿は、そのダンスパフォーマンスにおいても全く衰えなく、かつての動き同等、あるいはそれ以上の洗練さえ感じさせるものだった。
Bad World Tourの際、宿泊先のホテルマンがマイケルの部屋の床が水浸しになっているのを発見。実はこれは練習中の汗だったというエピソードも伝えられた。ライブツアー中のミュージシャンがここまでストイックに調整をしてステージに臨む例は珍しいが、しかしマイケルにとってはこれが通常であった。恵まれた才能に加え日々の不断の努力によって、ライバルと言えるミュージシャンがいないばかりか、プロのダンサーがあこがれる存在にまでなっていった。
ファッション
スタイル
- マイケルは身長180cm、50kgとかなりの痩せ型である[注釈 3]。このスタイルの良さも彼のファッション、ダンスパフォーマンスを際立たせている要因の一つと言える。
手袋
- Thrillerの頃はラインストーンやスパンコールの縫い付けられた手袋を片方の手だけに着用するスタイルがマイケルのトレードマークであった。片方の手にだけ着用するスタイルについてマイケルは自著の中で片方だけ手袋をすればアクセントになると思ったためと語っている。当時マイケルはパフォーマンスだけでなく授賞式や公の場でも常に身に着けており、ホワイトハウスに招かれた際にこの手袋をしたまま大統領と握手したために問題になったこともあった。しかしバッドが発売される頃になると、ステージでパフォーマンスするとき以外に着用することは一切無くなった。実は着用し始めたのはスリラーの発売前からであるが、殆ど話題にならなかった(同じく自著より)。
- ステイプルズセンターで行われた追悼式では、兄弟全員がこの手袋を身につけていた。
靴下
- 手袋と同じく白のソックスはマイケルのトレードマークであった。脛ほどの短めの黒いスラックスに白いソックス、黒のローファーのスタイルはシンボルマークにもなった。フレッド・アステアがダンスする際に足の動きを際立って見せるために白いソックスを履いたことに影響を受けてという理由だが、当時の観点から言っても白のソックスは時代遅れであったが、マイケルはこれが「クールだと思った」(自著より)と語っている。白のソックスの他にもステージではスパンコールやラインストーンが縫い付けられたソックスを愛用していた。白いソックスというスタイルは私服でも変わらず、生涯着用し続けた。87年の時点でルーズソックススタイルのソックスを着用している。
ジャケット
- スリラーのヒットは音楽シーンだけでなくファッションにも影響を与えた。マイケルがビート・イットやスリラーのショートフィルムで着用していたジャケットはライセンス品でないものも含め数多く出回り、実際にビヨンセはBeat Itの赤いジャケットを持っていたとスピーチで語っている。
ディスコグラフィ
アルバム
モータウン
作品 | リリース | 売上枚数 | チャート | 種類 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
Got To Be There | 1972年1月 | 410万枚 | 全米14位・全英37位 | ||
Ben | 1972年8月 | 440万枚 | 全米5位・全英17位 | ||
Music And Me | 1973年4月 | 200万枚 | 全米92位 | ||
Forever Michael | 1975年3月 | 200万枚 | 全米101位 |
エピック/ソニー
作品 | リリース | 売上枚数 | チャート | 種類 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
Off The Wall | 1979年8月 | 2000万枚 | 全米3位・全英5位・日本26位 | ||
Thriller | 1982年11月 | 2億5000万枚 | 全米1位・全英1位・日本1位 | 史上最も売り上げたアルバム | |
Bad | 1986年8月 | 4500万枚 | 全米1位・全英1位・日本1位 | 男性ソロアーティストによる英国最高売上アルバム | |
Dangerous | 1991年11月 | 3200万枚 | 全米1位・全英1位・日本4位 | ||
HIStory | 1995年6月 | 2000万組 | 全米1位・全英1位・日本4位 | ベスト盤+新曲盤の二枚組アルバム | 史上最も売り上げた二枚組アルバム |
Blood On The Dance Floor | 1997年5月 | 600万枚 | 全米24位・全英1位・日本12位 | リミックス+新曲5曲 | 史上最も売り上げたリミックスアルバム |
Invincible | 2001年10月 | 2000万枚 | 全米1位・全英1位・日本5位 | ||
MICHAEL | 2010年12月 | ||||
Xscape | 2014年5月 |
デュエット曲
作品 | リリース | デュエット相手 | 収録アルバム | 備考 |
---|---|---|---|---|
Ease On Down The Load | 1978年10月 | ダイアナ・ロス | The Wiz | |
The Girl Is Mine | 1982年10月 | ポール・マッカートニー | Thriller | |
Say Say Say | 1983年10月 | ポール・マッカートニー | Thriller | |
I Just Can't Loving You | 1987年8月 | サイーダ・ギャレット | Bad | |
Just Good Friends | 1987年8月 | スティービー・ワンダー | Bad | |
Scream | 1995年5月 | ジャネット・ジャクソン | HIStory | ジャネットはマイケルの妹 |
Hold My Hand | 2010年12月 | エイコン | Michael | |
Love Never Felt So Good | 2014年5月 | ジャスティン・ティンバーレイク | Xscape |
チャリティー・ソング
作品 | リリース | 名義 | 備考 |
---|---|---|---|
We Are The World | 1985年3月 | USAフォー・アフリカ | 作詞・作曲を担当。 |
People Of The World | 1999年1月 | J-FRIENDS | 作詞・作曲・プロデュースを担当。歌ってはいない。 |
What More Can I Give ? | 2001年 | マイケル・ジャクソン&フレンズ | 作詞・作曲・プロデュースを担当。 |
映像ソフト
タイトル | リリース | メディア | 種類 | 備考 |
---|---|---|---|---|
Moonwalker | 1989年1月 | VHS、DVD、Blu-ray | 映画 | |
Dangerous - The Short Films | 1994年1月 | VHS、DVD | MV集 | |
Video Greatest Hits - HIStory | 1995年7月 | VHS、DVD | MV集 | |
Ghosts | 1997年5月 | VHS、DVD | 短編映画 | 国内未発売 |
HIStory On Film Volume Ⅱ | 1997年7月 | VHS、DVD | MV集 | |
Number Ones | 2004年3月 | DVD | MV集 | |
The One | 2005年7月 | DVD | MV集 | |
Live In Bucharest | 2005年7月 | DVD | ライヴ | |
THIS IS IT | 2010年1月 | DVD、Blu-ray | ドキュメンタリー | |
マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔 | 2010年6月 | DVD、Blu-ray | ドキュメンタリー | |
VISION | 2010年11月 | DVD | MV集 | |
Live At Wembley | 2012年9月 | DVD | ライヴ | |
Bad 25 | 2013年7月 | DVD、Blu-ray | ドキュメンタリー | 国内未発売 |
Xscape | 2014年5月 | DVD | ドキュメンタリー |
ゲーム
「ムーンウォーカー」は本人がゲームセンターでセガのゲームを遊び、気に入ったことから自らセガに制作を提案した。
「スペースチャンネル5」は試作版をプレイしたマイケル自ら出演を切り出し、急遽ゲストとして登場することとなった。1では飛び入りだったためにごく一部分のみの出演だったが、その後製作されたpart2では主人公であるリポーター・うららの所属する放送局「チャンネル5」の局長として重要な役を演じている。作中では主人公とともに踊っている。
「Michael Jackson: The Experience」はマイケルの死後初めてリリースされた作品になる。
タイトル | メーカー | ハード | 備考 |
---|---|---|---|
マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー | セガ | メガドライブ、アーケードゲーム | 内容は若干異なる(詳細は同項目参照)。 |
マイケルジャクソン・イン・スクランブルトレーニング | セガ | アーケードゲーム | 8人乗りの大型ライド機器AS-1専用コンテンツ |
スペースチャンネル5 | セガ | ドリームキャスト・PlayStation 2 | |
スペースチャンネル5 パート2 | セガ | ドリームキャスト・PlayStation 2・Xbox 360・PlayStation 3 | |
レディ・トゥ・ランブル・ボクシング・ラウンド2 | ミッドウェイ・ゲームズ(日本では現コーエーテクモゲームスが販売) | PlayStation 2・ゲームボーイアドバンス | ゲームボーイアドバンス版は日本未発売 |
Michael Jackson: The Experience | ユービーアイソフト | PlayStation 3・Xbox 360・Wii・ニンテンドーDS・PlayStation Portable | ニンテンドーDS版・PlayStation Portable版は日本未発売 |
テレビアニメ
1991年
- シンプソンズ (レオン・カポウスキ、マイケル・ジャクソン)
映画
1987年
- Wiz (カカシ)
1986年
- Caption EO (キャプテンEO)
1988年
- Moonwalker (マイケル)
1997年
- Ghosts (マエストロ、町長、グール町長、スーパーグール、スケルトン)
2002年
- Men In Black 2 (エイジェントM)
2005年
- マイケル・ジャクソン IN ネバー・ランディング・ストーリー (マイケル)
2009年
2010年
CM
1982年
1991年
- ソニー キララバッソ
1993年
書籍
1988年
- ムーンウォーク
1992年
- ダンシング・ザ・ドリーム
公演
ワールド・ツアー
- 1987年9月12日 - 1989年1月27日
- マイケル初のソロ・ワールド・ツアー。9月9日に来日し、12日に東京で開始した。アメリカ・ロサンゼルスで終了するまで、15ヶ国123公演を行い、440万人の観客を動員した。ツアー総売上高は1億2千5百万ドル。コンサート・ツアー史上最大の世界記録樹立。日本では87年の横浜公演が日本テレビで放送された。Live At WemblyとしてDVD化。
- 1992年6月27日 - 1993年11月11日
- ドイツ・ミュンヘンに始まりメキシコ・メキシコシティでツアー中断を発表するまで、69公演を行い、350万人の観客を動員した。機材総量1250トン以上、スタッフ235人、80台のトラックという規模で行われた。収益は全てヒール・ザ・ワールド財団に寄付された。Live In BucharestとしてDVD化。
- 1996年9月7日 - 1997年10月15日
- チェコ・プラハに始まりダーバンで終了するまで、35ヶ国58都市で82公演を行い、450万人の観客を動員した。
その他
- 1999年
- チャリティーコンサート。
- 2001年9月7日、10日
- マイケルのソロデビュー30周年を祝って開かれた。その年の最高収益を記録した。
- 2009年7月13日 - 2010年3月6日
- イギリス・ロンドンのO2アリーナで開催予定されていたツアーで、50公演が予定されていた。彼の死によって実現しなかったが、リハーサルの様子は映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』として上映・ビデオ化された。
日本公演
- 1973年 "In Japan!(ジャクソン5)"
- 1987年 "Bad Japan Tour 1987"
- 1988年 "Bad World Tour 1988"
- 12月9日,10日,11日,17日,18日,19日,24日,25日,26日 東京ドーム
- 1992年 "Dangerous World Tour 1992"
- 12月12日,14日,17日,19日,22日,24日,30日,31日 東京ドーム
- 12月31日は、当初カウントダウン公演の予定であったが、急遽カウントダウン中止(0時になる約10分前に終了)となった。
その他活動
慈善活動
ジャクソンは生涯を通じて、世界各地で子どもたちのための慈善活動を行ってきた。1980年代半ば頃から右腕にしている姿がよく見られた腕章は、世界中の子供達を救う決意を表しているものだという。
1984年5月、飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、当時の大統領ロナルド・レーガンより感謝状が贈呈される。
1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立し、「Dangerous World Tour」の収益、推定26億円を全額寄付した。11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑の影響で活動に支障が出たともいわれる。
1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。
モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っていた。
生涯でチャリティに寄付した額は明らかになっている分だけで3億ドルにのぼる[28]。
遊戯施設が併設されている自宅ネバーランドに孤児院の子供や重篤な病に苦しむ子供達と支援団体、地元の子供達等を招待し、全ての施設を無償で開放していた。
1999年、阪神淡路大震災で被災した小中学生へのチャリティ・ソングとして、TOKIO・KinKi Kids・V6で結成したJ-FRIENDSに、楽曲People Of The Worldを提供した[29]。
ワールドツアー等で世界の国々を訪れる度によく病院や孤児院などの施設を慰問していた。ワールドツアーに携わったケニー・オルテガはルーマニアの孤児院を訪れた際、マイケルはその劣悪な環境を危惧し、「明日までに環境を改善し人員を増やさないとステージに立たない」と言い、24時間で孤児院の環境を改善させたとMTVの番組「Human Nature」で語った。
「最も多くの慈善団体(39団体)をサポートしたポップスター」として2000年のギネスブックに載っている[30]。
2001年3月には英オックスフォード大学より「世界共通の児童権利法案を提唱する」ための講演を行った[31]。
2003年、狼瘡(ろうそう)患者支援団体および研究機関へのチャリティーイベントに出席。
2度ノーベル平和賞にノミネートされており[32]、死後には2010年のノーベル平和賞を授与することを求める署名運動が起こった[33]。
製作業
1985年のATV買収に代表されるように実業家としても知られる。1990年代には日本や韓国で子供向けのテーマパークを建設する計画を発表したこともあるが、実現しなかった。
晩年は売上の落ち込みもあって財政難が度々報じられ、金銭に関する裁判も複数抱えている。これに対し、マイケルは「僕が破産寸前などという話は全くのデマ」とはっきり語っている。なお、マイケルは2000年に入ってからも昔の曲の印税だけで年間推定約20億円は収入があったとされる。
1990年代、ソニーレコード傘下に自身のレコードレーベルMJJ Recordsを設立。女性グループBrownstoneや、甥3人によるユニット3Tなどをデビューさせた。
日本のジャニーズ事務所との繋がりもあり、1990年代後半にはTOKIOの長瀬智也を3Tと共演させたTomoya with 3T による楽曲「ETERNAL FLAME」(1997/8/13)やJ-FRIENDSのチャリティシングル「Children's Holiday」(1998/1/21)「People Of The World」(1999/1/13)をプロデュース・作詞・作曲した(「Children's Holiday」は松井五郎、「People Of The World」は秋元康による訳詞)。
逸話
キング・オブ・ポップの由来
彼が「キング・オブ・ポップ(King Of Pop)」と呼ばれるのは1989年の授賞式にてポップ、ロック、ソウルの三冠を達成した際のスピーチでエリザベス・テイラーが「ポップ・ロック・ソウルの真の王者(The True King Of Pop, Rock And Soul)」と称したのがキッカケ。そのうち短縮され、キング・オブ・ポップと呼ばれるようになった。
日本
1987年、ソロとしての初来日した際、日本では静かな声で穏やかに話す人の方が良しとされることに驚いたという。マイケルはセガのゲームがお気に入りで、来日の際に何度かセガ社を来訪している。セガではマイケルに『ギャラクシー・フォース』を筐体ごとプレゼントするなど歓待しており、一方のマイケルも同社の『スペースチャンネル5』に「友情出演」[34]という形で出演している(詳細は#ゲームを参照)。日本のアニメーションのマニアでも知られていて、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』(ただし元は米国アニメの逆輸入である)『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』などを好んでいる(これらの映像は、ショートフィルム「Scream」内で一部使用されている)。実際に映画『ムーンウォーカー』では変形ロボット、『MTV』では映像を使用した。イラストレーターのいのまたむつみを呼んで自分のキャラクターを描かせたこともある。
また、初来日公演の時には群馬県高崎市にて発生した男児誘拐殺人事件のニュースを聞き、大変心を痛め、兵庫県西宮市の西宮スタジアムでのライブでは被害者の少年に向けての哀悼のメッセージを発した。
日本テレビ放送網が、1987年の初来日の際のマイケル・ジャクソンに密着したドキュメンタリー番組を制作した。その番組の映像の一部が、2009年6月28日の『THE・サンデー NEXT』にて22年ぶりに放送された。
YMOの「Behind The Mask」をカバーしている。
1958年生まれ
同い年としてしばしば引き合いに出されるのが、マドンナとプリンスである。この3人は、当時の音楽業界においてもそれぞれが飛ぶ鳥を落とす勢いであったために、ゴシップ誌などを中心に恋愛関係やライバルとして噂されることが多かった。噂にとどまらず、実際にマイケル自身もそれぞれとの共演(プリンスとは「Bad」でのデュエット、マドンナとは「In the Closet」における共演など)を数度に亘って計画しているが、いずれも実現はしなかった(ただし、プリンスとマドンナの共演は実現している)。マイケルが亡くなった直後、マドンナは自身のステージにてケント・モリによるマイケルのパフォーマンスを行い、プリンスは自身のコンサートで度々マイケルのカバー(「Shake Your Body」、「Don't Stop Till You Get Enough」など)を改めて演奏している。
またマドンナとプリンスは、いずれも「We Are The World」に招かれているが、マドンナは理由をつけ、プリンスは直前のトラブルで参加していない。プリンスはアルバムに一曲提供した。
オークション
マイケルの死後、様々な私物がオークションにかけられ落札されている。
2010年10月、マカオでアメリカのオークション業者「ジュリアンズ・オークションズ」主催のオークションが開催され、マイケルがアルバム『Dangerous』の収録曲「Jam」のPVで使用したバスケットボールが競売にかけられた。このPVでマイケルはNBAバスケットボールのスーパースターのマイケル・ジョーダンと共演しており、出品されたバスケットボールにはマイケル・ジャクソンとマイケル・ジョーダンのサインが入っている。落札金額は24万5000ドル(日本円で約2000万円)だった。この他にもマイケルがアルバム『HIStory』のビデオ撮影に使用したクリスタル入りの手袋も出品され、落札金額は18万ドル(日本円で約1470万円)だった[35][36]。
2010年12月4日、TMZ.comによると、米カリフォルニア州のビバリーヒルズで開催されたジュリアンズ・オークションズ「ICONS&IDOLS」に1987年から1989年に開催された『Bad World Tour』で使用したラインストーンがまぶしく輝く片手分のグローブと白い中折れ帽子が出品された。落札金額はグローブが33万ドル(日本円で約2805万円)、帽子が7万2000ドル(日本円で約612万円)だった[37]。
2010年12月14日、ロイターによるとパリで生前、未公開だった4枚のポートレートが競売にかけられた。これらポートレートは1999年にフランスの写真家アルノ・バニが撮影したものでマイケルがアルバム『Invincible』のために依頼したものであったが、レコード会社の意向で採用されなかった。落札金額は「古代エジプトのファラオ王のようなポーズの写真」が2万6000ユーロ(日本円で約290万円)、「マイケルの左目の周りに青い光沢のある素材を施した写真」が2万5000ユーロ、「黒いシャツで顔の下半分を覆った写真」が2万2000ユーロ、「赤いカーテンの前に立っている写真」が9000ユーロだった[38]。
2011年6月26日、「Thriller」のPVでマイケルが着用した赤い革ジャンがジュリアンズオークションに出品され、180万ドル(日本円で約1億4,400万円)で落札された。このオークションには他にも多数マイケルのゆかりの品々が出品され、ゴールド・ディスクは15,000ドル(日本円で約120万円)、80年代にマイケルが着用していたサングラスが60,000ドル(日本円で約480万円)、サイン入りの黒のハットが33,750ドル(日本円約270万円)、MTVアワードでマイケルが受け取ったトロフィーが54,400ドル(日本円で約435万円)、マイケルが描いた落書きが7,680ドル(日本円で約61万円)で落札された[39][40]。
私生活
少年時代、クリスマスも誕生日もなく、休み返上で働いていて、レッスンにいく途中、子供たちが楽しそうに外で遊んでいる姿を見ては羨ましいと思っていたと本人が語っている。
プリンセス・テンコーによると彼女とマイケルとマドンナが、ブルネイのハサナル・ボルキア国王(スルタン)一人のためだけにショーをしたとき、テンコーは油田、マドンナがダイヤモンド、マイケルは鉱山か炭鉱をもらったという。
自伝では「最も優れたエンターテインメントはストーリーテラー(語り部)である」と書いている。
木登りが好きであり、木の上で曲を作ることがあった。ネバーランドにはBlack Or White、Heal The World、We are the worldを書いたとされる木があり、本人は「恵みの木」(Giving Tree)と呼んでいた。
家族との確執も噂されるが、父親の誕生パーティーもきちんと行っている。
2003年10月1日にロンドンで開かれたクリスティーズのポップス記念品オークションでは、マイケルが1976年に描いたチャップリンの鉛筆画が4112ポンドで落札された。
変装をしてお忍びで外出することも多いが、子供連れのため発覚し騒ぎになってしまうこともしばしば。
1999年の6月に『風と共に去りぬ』の作品賞のオスカー像を150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。しかし、オスカー像は譲渡を禁止されており、盗品扱いとされ、アカデミー協会によって1ドルで回収される。
ディズニーランドが好きで、何度も目撃されている。東京ディズニーランドにも何度か訪れていて、1987年にツアーで来日した際には夕方から貸切で楽しんだ。東京ディズニーシーも訪れたことがある。また、ディズニーランドや東京ディズニーランドのアトラクションのひとつであったキャプテンEOに主役として出演しており、没後に追悼として各パークで再演が行われている。
金銭
「ぼくはお金に固執はしない。たとえば、その辺の子どもが、ダイヤを見て『これきれい』と言ったら、『いいよ、持って行きな』と言っちゃうだろうし」と2005年2月5日、アメリカFOXニュースの「At Large with Geraldo Rivera」のインタビューで語っている。
2004年のニューヨークタイムズ紙によるとマイケル・ジャクソンの1ヶ月の生活費は2億円で、おもちゃ好きで知られるマイケルはおもちゃ代だけで1ヶ月に3000万円を費やしていた。さらに身の回りの世話をするスタッフも数多く、1989年のBad World Tourでは「マイケル専属世話人」として医者、歯科医、のどの専門医、ネイルアーティスト、足治療の専門医、マッサージ師、ヘアメイク、秘書2人、コック、その他身の回りの世話をする人が7人など約20人以上が世話人としていて、その費用は1ヶ月に4000万円に上った。
2003年にアメリカの大手テレビネットワークのABCテレビなどで放送されたドキュメンタリー番組「Living with Michael Jackson」の中でマイケルは「12歳か13歳の頃、20万ドル(当時の日本円で約7200万円)の小切手を受け取っていたことを覚えている。それは毎月、貰っていたんだ。父親は何に使う?って聞いてきたんだけど僕は貯金した方が良いと答えたんだ。でも父親は好きな物が買えるようにと毎月、お金を渡してくれた。それで僕はチューインガムやキャンディなどを買ったんだ」とジャクソン5時代の収入について語っている。
結婚歴
1994年5月26日、エルヴィス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリーと結婚し「世紀の結婚」と言われたが1996年1月18日離婚。「1999年には「エルヴィスだって鼻の整形をした」とマイケルが発言したため、怒って電話にも出なくなった」と言われているが、実際にはマイケル自身が以前日本の雑誌のインタビューで、「プレスリーも鼻の整形をしていたよ。リサ・マリーが教えてくれたんだ」と発言している。(離婚後に行われたインタビュー)同じインタビューで、「彼女とは今でも良く電話で話をするし、僕の子ども達に会いにきたりもするんだ」と語っている。1995年12月に、リサ・マリーと病院で大げんかをし、翌年8月に離婚成立。その直前の3月には後の妻となるデビー・ロウが流産している。1996年11月3日に、メディアによってデビーが妊娠6ヶ月であることが明らかにされ、11月14日、デビー・ロウと結婚。ビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。1999年10月8日には離婚した。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。2002年にはさらに代理母により次男が誕生した。
ネバーランド
以前住んでいた自宅は遊園地、動物園が併設されており、ネバーランドと呼ばれる。場所はカリフォルニア州サンタバーバラ近郊、敷地面積は2800エーカー(1100ヘクタール)以上[41]あり、千代田区の面積とほぼ同等である。ネバーランドの名は「ピーターパン」に登場する大人にならない島に由来している。「ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」と語っている。ラマ、ゾウ、マッスルズという名のニシキヘビなど様々な動物も暮らしている。2008年11月にロスの民間企業へ譲渡した(多額の借金の返済のためといわれているがそれはまったくのデマである)[42]。
1989年に39億円をかけて建設した。維持をするためにスタッフを100人以上雇い、年間に維持費として2~3億円を費やしていたと言われている。
恋愛
ダイアナ・ロスを尊敬していることは有名であるが、本人は中学生時代に彼女に告白して失恋している。その時は「もう絶対結婚はしない」とまで言ったそうである。
1人目の妻リサ・マリー・プレスリーとは恋愛結婚だった。
2人目の妻デビー・ロウはマイケルが尋常性白斑の治療の為に訪れていた病院の看護婦であったことから知り合い、交際、結婚へと発展した。
食事
食の細さで知られる。1987年10月15日、マイケルが来日した際に『ホテル音羽ノ森』のレストランに立ち寄り、その時はベジタリアンだったマイケルの為に、豆腐ステーキ、アボカドのムース、かっぱ巻といった料理が出された[1]。また1987年10月23日、中国は広東省中山市に訪中していたマイケルは当時ベジタリアンで、昼食に素食(ベジタリアン料理)を用意したことが報じられている[2]。
ベジタリアンであると言われており(1988年まで約10年間ベジタリアンだったという説がある)「肉は血で汚れているから食べない」(バッドツアー時の日本テレビの密着番組にて噂のひとつとして紹介)とまで言ったとまことしやかに噂された[要出典]。
ケンタッキーフライドチキンが好物であるとも言われ(親しかったマジック・ジョンソンが、マイケルと2人でケンタッキーフライドチキンを食べた思い出を語っている)[43]、マイケル・ジャクソン裁判の際に昼食に食べていたとも言われている[44]。その他、1987年9月12日~10月12日まで日本で14公演行われたBADツアーにマイケルに同行した、当時日本ペプシ・コーラの副社長に就任したばかりだった秋元征紘氏は、当時米国ペプシの社員で、マイケル担当のアーロン・ウォルトンが直接マイケルに「もしダイエットを気にならかったら、何が一番食べたい?」と質問し、マイケルは「僕が一番食べられなくて残念なもの、それは勿論ケンターキーフライドチキンさ」と返答されたという内容を語っている[3]。
飲酒の習慣は殆ど無く、酒どころかコーラも飲まない。ペプシコーラのCMに出演した際ですら一滴も飲まなかった[要出典]。
1987年、1988年マイケル来日中のコックを務めた三條は、マイケルに夜中の3時に起こされ、ポップコーンを作って欲しいと言われ、作ったことがある。味付け海苔を気に入って新幹線の中で食べていた。ビタミン剤も摂っていたという。コンサートの日も朝食は食べず、コンサート終了後、帰ったらまずアイス(ハーゲンダッツのハニーバニラを好んだ)を食べ、またカジキマグロ等も良く食べ、食事の際には100%のオレンジジュースとソーダウォーターをよく飲んだことが語られている。マイケルが肉や魚を食べるようになったのは、1988年11月に日本へ来る前にLAで倒れ、LAのコンサートが流れた時にドクターから、動物性タンパク質を摂るように言われ、白身の魚や鳥肉を食べることをアドバイスされたことがキッカケという。また動物性油分を避けるために、トーストはバターを使わずにマーガリンを使っていた[4][5][6][7]。
1988年6月18日ベルリン到着から9月6日のリンツまで、マイケルのボディガードで同行した人へのインタビュー記事によると、大抵マイケルは13時ごろ起きると、シリアルと果物を食べ、その後の食事はコンサート後に鶏か魚を食べていたことが語られている[8]。
マイケルは1995年12月6日にも倒れ救急車で病院に運ばれた[9]。マイケルは肉が好きではなく、魚や野菜、チキンスープ等が好きらしいということがあり、医師たちは、マイケルにもっと蛋白質を摂り 1日2クォーターの水を摂るよう指導した[10]。
2009年ロンドンでの復帰ライブのための体作りのためにプロテインを摂取していると言われていた。
ゲーム
マイケル自身無類のゲーム好きかつゲームコレクターとして知られ、遺品の中にはたくさんのアーケード筐体やピンボールゲーム筐体があった[45][46]。その中には来日中にセガを訪問、試遊した後に即決で購入した筐体価格1,600万円の大型体感型ゲーム機「R-360」もあった。また前述の通り、セガとは自身がお気に入りだったことから密接な関係を持っており、マイケルが出演ないしはコラボした作品も残されている。
=
ゴシップ・事件
事実確認の取れない記事・報道
マイケルは金銭目的で訴えられることが多いが、有罪判決を受けたことは一度もない。
1990年代はマイケルと妹ジャネット・ジャクソンは同一人物であるという説もあり、一部では本気で信じられていた。
子供たちの親に関する様々な憶測がなされる中、マイケルはFOX TV の「裏切られたマイケル・ジャクソン」で自分の子供たちは「セックスしてできた子供」と言い、ロウも同様に証言していた。2005年4月の裁判の証言ではマイケルを「子供たちにとって良き父親」と称賛し「裏切られたマイケル・ジャクソン」もマイケルに言わされたものではないと証言している。デビー・ロウは親権に関する裁判も起こしている。離婚後、ロウは子供たちと45日おきに1度、8時間の面会を許可されていたが、マイケルが常に子供たちを連れて旅に出ていたため彼女はすべての親権を2001年に放棄していた。2006年まで行われた裁判は、この面会に関する親権を取り戻すべく行われた。なお、この裁判は2006年9月に「デビー・ロウと和解することで決着」したという。
知名度を利用する人間も多く、2004年にはマイケルと少年の映像を提供するというコンピュータウイルスが出現。2005年には「マイケルが自殺未遂」[47]、さらに「マイケルが死亡」[48]という情報を組み込んだコンピュータウイルスが出現する。パンダ・ソフトウェアが2005年6月13日発表した「セレブウイルス・ランキング」では、2004年にはウイルスやスパムに6番目に悪用される存在となった[49]。
ネット上では真偽不明の噂が簡単に流れるが、マイケル・ジャクソンの場合はテレビや新聞のニュースにおいても信用できる情報は少なく、事実上それらもゴシップ化していた。
事実確認のされない報道は多く、「マイケル・ジャクソンがネバーランドを売却」という報道は数回伝えられた。だが、これらは実際には「ネバーランドを売却しなくては財政的にきついのではないか」とか「マイケルが国外に移った」とかいったことから事実確認がなされずに作り出された報道であった。
無罪判決が出された時も、ドイツ公共テレビARDのニュースキャスターが「陪審団は昨夜、ジャクソン被告が10の罪状すべてで有罪であるとの評決を下した」と速報を読み上げ騒動になった。しかも、この誤りはライバル局の人気コメディアンが「マイケル有罪」と伝えた映像のビデオを使って指摘するまで関係者達は誰も気づかないという事態になった。
性的虐待裁判の際には模倣犯が出現し、1984年5月に性的虐待をされたことを「思い出した」男がいたが[50]、彼の民事訴訟は2006年4月18日に裁判官によって却下された。
Wikipediaでも問題を起きている。2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してチャリティシングルをマイケルが企画した際に、「チャリティーソングは12月20日にリリースされる」「タイトルは『I Have A Dream』」といった早まった情報を流した。これらは事実確認の取れない、いわゆる「噂の集約」といったものであった。そのため、12月15日レイモン・ベインが「ジャクソン氏のハリケーン救済ソングの名前を含め、ウィキペディアで伝えられている情報は事実に反しており不正確なものです」と報道する事態となった。 マイケルの死後Wikipediaの内容が彼が生きてる前提で書き換えられることもあった。
名称に関してはレコーディングに参加したシアラやディニッシュが語った内容であり、事実無根だったわけではなく、後に公式の発表もなされている。しかし、結果的にこのような事態になったことは事実である。標準時間2005年12月12日7時45分には、英語版ウィキペディアで「I Have This Dream」の項目が事実確認のされないまま作られている。
「薬物を乱用」「バーレーンで職探し」といった情報が流された時、レイモン・ベインは「読んだ内容の90%は信じないでください。大半は嘘ですから」と2006年1月20日語っている。
肌の色の変化
尋常性白斑という皮膚病を患っているために皮膚の色が白く変化した(死亡後の検死においても尋常性白斑症と診断された[51]ことを公表しているにもかかわらず、ワイドショーや情報番組で出演者達に「黒人のマイケルは白人になりたくて肌を漂白した」等、人種差別的な中傷コメントをされ続けたり、少年虐待疑惑に関して無罪判決が出たにもかかわらず、まるで本当は有罪であるかのような印象を視聴者に与えるコメントと偏向的な報道を多くされ続けた[52]。
死後も、皮膚の色に関するものなどの人種や病気に対する差別的なコメント、偏向的かつ事実と反するネガティブなゴシップ報道も多くなされ、日本では放送倫理・番組向上機構に批判が寄せられた[53][54][55]。
偏見報道
2005年の少年虐待疑惑に関する裁判(マイケル・ジャクソン裁判)に関する報道について、作家でありジャーナリストであるアフロダイテ・ジョーンズは「当時のメディアはマイケルを標的にし彼の破滅を企てていた、メディア関係者の中には検察側の主張に合わせ報道を歪めるような不公平な偏向報道をしていた者もいた、自らも以前はTV視聴者にマイケルが有罪と思い込ませるようなコメントをしていた、2200ものメディア関係者が裁判を取材したが、自らの偏向報道を認めた者はほんの少ししかいない」ということを自著『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』の序文で告白している。正式な裁判記録に基づいて綴られたこの著書は、マイケル側に立った本ということで当時は出版してくれる出版社が見つからず、自費出版に至ったという。マイケルの弁護を担当したトーマス・メゼロウ弁護士も「メディアはマイケルが有罪になることを望んでいた、有罪になり刑務所に入りでもすれば世界的に有名なスターの栄光と堕落ということで映画・TV・書籍などのあらゆる媒体でネタにでき、そうなれば何十億ドルにもなる莫大な収益が見込めたから」という内容の序文を寄せている。
ジャーナリストのチャールズ・トムソンはマイケル・ジャクソン裁判に関する偏向報道の概要を裁判記録と当時の実際の報道とを比較して指摘した。以下要旨「裁判記録を見てみると裁判の実態は、検察側(裁判を起こした少年側)の証人や証言に信憑性がないことが弁護側の反対尋問によって次々暴かれていったものだったことがわかるのだが、そういった検察側に壊滅的なダメージを与えた反対尋問は無視され報道されないという傾向があった、逆にマイケルが有罪であると視聴者にほのめかすような報道や中傷コメントは常軌を逸する程多かった、裁判では信憑性がないとされた検察側の主張があたかも真実であるかのように報道され続けた、無罪評決が下された後もメディアは反省や謝罪をするどころか裁判の実態を検証し正しく伝え直す報道もせず、評決前にマイケルが有罪になるとコメントしていたニュースアンカーやコメンテーター達は無罪評決が出たことに対し『恥をかかされた』と怒りマイケルを中傷し続けた、メディアは視聴者を騙しマイケルに甚大なダメージを与えた、この裁判報道はジャーナリズム史上最も恥ずべき出来事の一つである等」[56]。
2009年12月5日、フジテレビの自己検証番組新・週刊フジテレビ批評において「マイケル急死を日米はどう伝えたのか」という特集が放送された。海外からマイケルの映像やタブロイド誌のゴシップネタを買い付けて日本の報道機関に売り、自らもコメンテーターとして出演する等、日本におけるこれまでのマイケルの報道にはデーブ・スペクターが深く関わっていたことが説明された。「どうしてひどい報道ばかりされるの?」等の視聴者から寄せられた報道のあり方への疑問について答える形でスペクターは以下のように語った。「アメリカの芸能報道番組にはTV局による規制が全くなく、何でもありで作りたい放題。海外から日本にゴシップネタを輸入する際にも全く規制が掛からない。世界的スターであるマイケルのネタは視聴率が高い。局によって違うネタを売った方がウケる。タブロイド誌は絵が派手で簡単にネタを持ってこれる。今後はマイケルの子供達やタイガー・ウッズ等を狙っていく」等。この中でスペクターは「マイケルの番組は視聴率が高い」ことを連呼した[57]。
ソニーウォーズ
1990年代後半頃からマイケルとレコード会社側の仲は非常に険悪なものとなっていった。レコード会社側は圧力をかけ、マイケルはそれに反抗するというような状態が続き、2001年の『Invincible』の発売直前にこれが最後のアルバムとモトーラに通知した。
実はこのアルバムでは当初、1997年5月に射殺されてもはやこの世にいないノトーリアスB.I.G.の声を収録した「Unbreakable」に20分のショートフィルムを付けて先行シングルとして発売したいというのがマイケルの意向であった。ところが、レコード会社は時間をかけたくないという理由を挙げて、「Unbreakable」を「You Rock My World」に差し替えた。そのため、このアルバムではマイケルが自らの意向通りにリカットシングルを発表することができなかったのである。 またアルバムのタイトルにもマイケルは不満を持っている。本来は『Unbreakable』になる予定であったがソニー側のミスで『Invincible』になってしまったのである。
その『Invincible』がUSで200万枚の売上しかでなかったとソニーが報告したことに関し「曲が売れなかったのはソニーの宣伝が足りなかったからだ」「会長は人種差別の塊だ」としソニーを提訴。
2003年1月10日、トミー・モットーラは会長を退き、様々な批判があったがマイケルは勝利し、最終的に5月にはマイケル側の意向をほぼ全面的に呑むことで合意した。
2003年11月ソニーから発売したベスト盤『Number Ones』、この広告にはソニーはほとんど関与しなかった。
この問題はマイケルの勝利が決定した時点で幕を下ろすかと思われたが、この問題はさらに尾を引く。マイケルとソニーによる合弁会社、ソニーATV音楽出版は30万曲以上の著作権を管理・運用しており、これによる年間収益はおよそ8千万ドル(ビートルズの楽曲だけでも3千万から4千5百万ドル)に上り、これらのカタログの価値は6億から10億ドルとも言われていた。ソニー・ミュージック幹部からの情報によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、その版権カタログの権利に関して激しい損失が起こるため、版権カタログを奪うべく、シャフェル、コニッツァー、財政相談役のアル・マルニックらがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。
このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルのことを「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。結果的にマイケルは無罪になったが、カタログはその価値のために様々な事件を今まで巻き起こしてきたものであることは否めない[58]。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測も2006年4月に出たが、すぐにマイケル側はそれは「新たな融資が組みあがったこと」であると言い、カタログは売っていないと語っている。
結果的に、2006年6月には資産・経営管理を担っていた人物達との関係を解消し、広報担当のレイモン・K・ベインをゼネラル・マネージャーに指名した。8月にはレイモン・ベインが前民事弁護士やアドバイザーなどによるマイケルの破産を狙ったとされる文章が存在することを公表した。2006年12月23日には、マイケル側は年に250万ドルの詐取があったとして前会計担当士らを相手取り訴訟提起した。
隠し子騒動
マイケルには複数の隠し子疑惑があった。
1990年代、マイケルには隠し子の長男がいるという噂があったがその子供はマイケル・ジョセフ・ジャクソンJr.といい、Badの発売の頃に生まれた子供で彼の母親はスイスに住んでいるのだという。 全てマイケル側は否定しており実際にはマイケルの「名付け子」だった。
2014年3月にはミキ・ハワードの息子で歌手のブラントン・ハワードがDNA鑑定の結果99.9%の確率でマイケルの隠し子であるとの報道がなされた。ブラントンはfacebookにて「自分はこの話を世間に広めたりはしていない。マイケルの息子であると主張したともない。訴えを起こすつもりもない。お金には困ってない。DNA検査を受けたのは事実だが、そういった目的で受けたわけではない。」とコメントしている。またブラントンが産まれた時期などからマイケルのヒット曲Billie Jeanはミキ・ハワードのことを歌ったものではないかという噂もあるが、マイケル本人は生前「(実在する)誰のことでもない」としている。
暗殺説・生存説
以下の様な理由から一部で暗殺説・生存説が囁かれている。Wikipediaでもマイケルが生存している前提で記事が書き換えられることがあった。
- ある芸能専門弁護士はTHIS IS ITのリハーサル映像が此処まで残っているのは不自然であるとしている。
- 「近々、我々は死の真実を手に入れる」と宣言していた弁護士のピーター・ロペスが自宅で拳銃自殺。
- 元専属カメラマンのジョン・ウィルコックもマイケルより前に亡くなっている。
- マイケル本人は「僕は殺される」と周囲に話していた。(ジョンにも話していた。)
- ロサンゼルスで署名された遺言書の筆跡が異なり、また子供達の名前にスペルミスが見られる。そもそも署名したとされる2002年7月7日マイケルはロサンゼルスには居なかった。
- 弁護士ブライアン・オックスマンは「これは陰謀である」と断言。
- 元主治医コンラッド・マレイに77万ドル(約7300万円)以上の借金があった。
- 父・ジョセフは「マイケルが死んだ方が価値があると思っている人間が居る」と話している。
ゴシップに対する反応
マイケル本人はタブロイド紙やパパラッチを嫌っており、それを題材にした曲も多数製作している。(Billie Jean・Wanna Be Startin' Somethin'・Leave Me Alone・Tabloid Junkie・Privacy・Price Of Fame)
外出する際やメディアの取材を受けるときにはパパラッチから守る為に必ず子供達に仮面をつけていた。
2006年12月30日、ジェームス・ブラウンの葬儀におけるアル・シャープトン師(著名な黒人運動指導者)のスピーチ内の、ジェームス・ブラウンからのマイケルへの伝言より「心配せずに故郷に戻ってこいと伝えてくれ。才能のある人間はいつもスキャンダルで騒ぎ立てられるものなんだ」[59]。
マイケルの追悼式でのアル・シャープトン師のスピーチより「マイケルの3人の子供達に知っておいて欲しいことがある。君達のお父さんにおかしなところなど何もなかった、おかしいのはお父さんが立ち向かわなければならないものの方だった。しかし彼は何としてでも立ち向かった、立ち向かったんだ、私達のために」[60]。
オノ・ヨーコの追悼コメントより「人種差別も含む様々な理由で、世界は彼に対して不親切であることも、彼は知っていました」[61]。
マドンナによる追悼スピーチより「魔女狩りが始まったのです。マイケルについてのネガティブな噂が次から次に出て来ました。彼の痛みを感じました。街を歩いていて世界中が敵になったように感じるのがどういうことなのか、私は知っています。リンチを行う群集の叫び声が大きすぎるために自分の声は届かないと悟り、どうすることも自己防衛もできないと感じるのがどういうことなのか、私は知っています。(略)彼が家族やキャリアの再建に勤しむ中、世間は批判に徹しました」[62][63]。
ファミリー
両親
- ジョセフ・ジャクソン (1929 - )
- 父親。
- キャサリン・ジャクソン (1930 - )
- 母親。
兄弟
- リビー・ジャクソン (1950 - )
- 姉で歌手。マイケルは楽曲Fly Awayを提供している。
- ジャッキー・ジャクソン (1951 - )
- 兄でジャクソン5のメンバー。
- ティト・ジャクソン (1953 - )
- 兄でジャクソン5のメンバー。
- ジャーメイン・ジャクソン (1954 - )
- 兄でジャクソン5のメンバー。マイケル脱退後はリードボーカルを務めた。
- ラトーヤ・ジャクソン (1956 - )
- 姉で歌手。ゴシップでメディアを騒がせている。
- マーロン・ジャクソン (1957 - )
- 兄でジャクソン5のメンバー。
- ブランドン・ジャクソン (1957 - 1957)
- マーロンと双子、生後数時間で逝去。
- マイケル・ジャクソン (1958 - 2009)
- 本人。
- ランディ・ジャクソン (1961 - )
- 弟でジャクソンズのメンバー。
- ジャネット・ジャクソン (1966 - )
- 妹で歌手。全盛期はマイケルに匹敵する程の人気があった。
子供
- ブランドン・ハワード (1979 - )
- ミキ・ハワードとの間に生まれた隠し子とされている。マイケルの死後DNA鑑定で判明。しかし鑑定に捏造の疑いもあり詳細は不明。
- プリンス・ジャクソン (1997 - )
- デビーとの間に生まれた長男。マイケル同様尋常性白斑を疾患している。
- パリス・ジャクソン (1998 - )
- 長女。デビーとの間に生まれた。
- ブランケット・ジャクソン (2002 - )
- 次男。代理母を使って生まれた。
配偶者
- リサ・マリー・プレスリー (1968年 - )
- 1994年結婚、1996年離婚
- デビー・ロウ
- 1996年結婚、1998年離婚
影響
カバー、サンプリング
以下はマイケルの楽曲をカバー、サンプリングしたアーティストのほんの一部である。
- デイビット・ギャレット
- Smooth Criminal
- ラン・ブラウン
など...
レディー・ガガ
レディー・ガガはマイケルの大ファンであることで有名。 2012年には彼のステージ衣装55着を落札。 それらを展示する博物館の建設も計画しているという [64] 。 さらにはマイケルのかつての自宅、ネバーランドも修復も望んでいる [65] 。 またマイケルはTHIS IS IT公演でコラボを希望する相手の一人にガガをあげていたという [66] 。
ものまね
- マイケル役として度々映画に出演。
- 『ジャクソン・マジック』と銘打ったショー[11]を行っている。
- 日本のものまねタレント達。
その他
Bad 25周年記念盤では、
がコメントを残している。
関連項目
脚注
出典
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- ^ “レディー・ガガ、マイケル・ジャクソンのネバーランドの株式取得を熱望。”. 2014年6月21日閲覧。
- ^ “マイケル・ジャクソン、レディー・ガガとのコラボを希望していた”. 2014年6月21日閲覧。
注釈
- ^ 実際には血縁関係のない他人
- ^ The Girl Is Mine、Say Say Say、The Man
- ^ 死亡当時
外部リンク
- Michael Jackson Molestalation Trial - マイケル・ジャクソン裁判の記事
- Micael Jackson News(英語、弁護側最終弁論)
- マイケル・ジャクソン - IMDb
- [12] FBI(FEDERAL BUREAU OF INVESTIGATION)Michael jackson investigative files 逮捕時の各種捜査資料
公式サイト
- The Official Michael Jackson Site(公式マイケル・ジャクソンサイト)
- MichaelJackson / マイケル・ジャクソン(ソニー・ミュージック)
- マイケル・ジャクソン(ユニバーサル・ミュージック)
- マイケル・ジャクソン (@michaeljackson) - X(旧Twitter)
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