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佐藤栄作

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佐藤 栄作
さとう えいさく
内閣広報室より公表された肖像 1964年
生年月日 1901年3月27日
出生地 日本の旗 日本 山口県熊毛郡田布施村(現:田布施町
没年月日 (1975-06-03) 1975年6月3日(74歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区東京慈恵会医科大学附属病院[1]
出身校 東京帝国大学法学部卒業
前職 運輸省官僚
所属政党民主自由党→)
自由党→)
(無所属→)
自由民主党
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
法学士(東京帝国大学・1924年)
配偶者 佐藤寛子
親族 佐藤信寛(曾祖父)
佐藤信彦(祖父)
佐藤市郎(長兄)
岸信介(次兄)
佐藤信二(次男)
松岡洋右(義伯父)
安倍晋太郎(義甥)
安倍洋子(姪)
安倍晋三(大甥)
岸信夫(大甥)
サイン

日本の旗 第61-63代 内閣総理大臣
内閣 第1次佐藤内閣
第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
第1次佐藤第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
第2次佐藤第1次改造内閣
第2次佐藤第2次改造内閣
第3次佐藤内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1964年11月9日 - 1972年7月7日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第90代 外務大臣(総理兼任)
内閣 第2次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1968年10月29日 - 1968年11月30日

内閣 第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
在任期間 1963年7月18日 - 1964年6月29日

内閣 第2次池田第1次改造内閣
在任期間 1961年7月18日 - 1962年7月18日

日本の旗 第64代 大蔵大臣
内閣 第2次岸内閣
第2次岸改造内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1960年7月19日

その他の職歴
日本の旗 第7代 建設大臣
第4代 北海道開発庁長官

第4次吉田内閣
1952年10月30日 - 1953年2月10日
日本の旗 第3代 郵政大臣
第3次吉田第2次改造内閣
1951年7月4日 - 1952年10月30日
日本の旗 第3代 電気通信大臣
第3次吉田第2次改造内閣
1951年7月4日 - 1952年8月1日
日本の旗 第4代 内閣官房長官
第2次吉田内閣
1948年10月17日 - 1949年2月16日
日本の旗 衆議院議員
旧山口2区
当選回数 11回
1949年1月23日 - 1975年6月3日
第5代 自由民主党総裁
1964年12月1日 - 1972年7月5日
第3代 自由民主党総務会長
(総裁:岸信介
1957年 - 1958年
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1974年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:非核三原則の提唱

佐藤 栄作(さとう えいさく、1901年明治34年〉3月27日 - 1975年昭和50年〉6月3日)は、日本鉄道官僚政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の別名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。2,798日の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された(連続在任記録及び戦後最長在任記録は大甥の安倍晋三が更新した)。1974年ノーベル平和賞を受賞した。2022年時点で日本人唯一のノーベル平和賞受賞者である[2]

旧制山口中学校旧制第五高等学校東京帝国大学出身。運輸次官内閣官房長官第4代)を経て政界に転身。造船疑獄で危機に陥るも、衆議院議員(11期)、郵政大臣第3代)、電気通信大臣第3代)、建設大臣第7代)、北海道開発庁長官(第42122代)、大蔵大臣第64代)、通商産業大臣第22代)、科学技術庁長官(第1213代)、内閣総理大臣(第616263代)などを歴任した。

概要

東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。

鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。

その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。

一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。首相在任期間は歴代3位で、連続在任期間は歴代2位の2,798日、昭和時代においては最長の長期政権である。20世紀生まれ初の首相であり、自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣岸 信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階従一位勲等大勲位

生涯

山口県熊毛郡田布施村(現在の田布施町)に酒造業を営む佐藤秀助・茂世(もよ)夫妻の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年ごろ勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は一時他家に貸していたが、母・茂世が分家するにあたって酒造の権利を取り戻して茂世に与えられたものだった。秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した[3]

地元の人たちは佐藤家の市郎信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している[4]

1907年小学校に入学した。小学校のころのあだ名は肌の色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ[5]。また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」とあいさつし、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある[6]

高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた[注 1]。池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという[8]

東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは親戚でもある松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格し、池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である[9]

1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。

高等文官試験

1923年12月、高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方がよほど悪く、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている[10]

1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。

就職

兄の岸からは同じ農商務省への入省を勧められたが、特に役人を志望していたわけではなく、秀才で鳴らした兄と比較されるのも気が進まなかった。当時、満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたため採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。そこで浅野セメント(現・太平洋セメント)への就職が決まりかかっていたが、高文にも合格していたため、鉄道省にも願書を出した。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたため順調に採用された。

のちに佐藤は二転三転した就職の経緯について、「人間の運命は奇妙なもので、あのとき日本郵船に入っていたら、海運不況で苦しい思いもしたろうし、戦争中には郵船の船は全部沈められたので、海の藻屑と消えたかもしれない。同じ輸送の商売でも鉄道に入ったので、仕事も順調だったし、戦争にも行かなかった。セメント会社に入ったら、大金持ちになっていたろうか」と述懐している[11]

官僚時代

1924年5月、鉄道省に入省(門司駅助役)[12]。同期に柏原兵太郎など。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。

1926年、佐藤家本家当主の叔父・佐藤松介の遺児で、かねてからの許嫁であった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。

1934年から2年間、在外研究員として海外留学。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は「欧米における運輸について」。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地のほか、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察している[13]

1940年、鉄道省監督局総務課長、翌年、監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法、陸運統制令などによる運用に腐心した。当時、早川徳次五島慶太により東京地下鉄道(現・東京地下鉄)経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年に同法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)を成立させ、これを調停した。このとき栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」との主張からこれを主導した。

1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍高官と対立したためとする説がある[14]。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら、鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている[15]

1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(のちの大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した[16]

左遷されていたことが幸いして、岸が遭った公職追放からは免れることができた[17]

1947年運輸次官に就任、同年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、西尾末広内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。

政歴

佐藤栄作(1961年)

遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、1948年第2次吉田内閣で非議員ながら内閣官房長官として入閣[17]。池田勇人とともに「吉田学校」の代表格となる。翌1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣犬養健指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた[18]。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連加盟恩赦」で免訴となる[19]

保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った[20]鳩山一郎引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、政務調査会長・三木武夫とともに岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」「安定成長」「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった[21]

大蔵大臣を務めていたときには共産主義と戦うため、日本共産党日本労働組合総評議会高野実派、日本教職員組合などに対抗し、実業界、財界トップからなる非政府グループを設立するなどした。しかし、資金面で非常に難しいとダグラス・マッカーサー2世大使と協議を交わし、東京グランドホテルでS.S. カーペンター大使館一等書記官にアメリカからの財政援助を願い出、資金工作の受取人としては当時自民党幹事長だった川島正次郎を挙げた[22]

内閣総理大臣

吉田学校の盟友である佐藤と池田であったが、先述のように、池田政権の特に後半期においては政権に批判的な立場を取っていた。逆に河野一郎、大野伴睦といった党人派が池田政権を支える形となっており、特に河野は池田と密接で、河野は池田からの将来の禅譲に期待を寄せていた。佐藤は後ろ盾の吉田の後押しを受け、池田の3選断念を迫ったが、池田は容れなかった。

1964年7月、佐藤は池田の3選阻止を掲げ自由民主党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが[注 2]党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した[注 3]。佐藤は藤山との2位・3位連合による逆転勝利に自信を持っていたため敗北には落胆し[23]、「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、総裁選挙から3ヶ月後、病に倒れた池田の退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て11月9日の池田裁定により後継者に指名された。後継指名を巡っては、池田は河野への思いも強かったとされるが、財界や吉田茂岸信介らは河野に強く反発していた[24]。同日の自由民主党両院議員総会で首班指名候補として承認された後、同日召集の第47回国会での首班指名を経て内閣総理大臣に就任した[25]。但し手続きの関係から佐藤が第5代自由民主党総裁に就任したのは12月1日であった[26]

総裁公選のすぐあとに当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。当時佐藤派の幹部であった田中角栄は後にこれについて、「たいていの代議士(議員)は、努力や勉強さえすれば大臣や幹事長にはなることができる。だが、総理・総裁はそういうわけでなれるものではない。あくまで運だな」と語っている[27]

在任中の主たる施策

フィリピンのマルコス大統領と(1967年)

首相就任後、翌年までの短期間に、池田政権が積み残していたILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准[注 4]農地報償法案、日韓基本条約批准などを、野党の激しい抵抗を押し切って強行採決した。

そして1965年8月19日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還への意志を明確に表明した。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。

なお、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議のうえで認める密約を結んだことが、1994年に交渉の密使を務めた若泉敬により公表された(日米核持ち込み問題)。後にアメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、2009年12月に遺族が保管していたことが報道された[28]。なお、この密約を公開したとして毎日新聞社で記者を務めていた西山太吉が国家公務員法違反で有罪となった西山事件が起きている。

  • 日米首脳会談で沖縄返還に合意したの3日後の1969年11月24日付のリチャード・ニクソンからキッシンジャーに宛てたメモによると、「大変満足できる内容の秘密合意を日本と結んだ」「佐藤栄作との約束に背かない範囲で」「外部に漏れたら密約の存在は否定する」日本政府から秘密裏に「沖縄の基地使用に関する際保証」を得ている事を上院の民主党の有力議員2人に伝えるように指示した事が機密解除され分かり、「核抜き本土並み」の返還のはずが骨抜きにされていたことをニクソン自身が明らかにしていた[29]

また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。

その一方で、1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定したうえで、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカがただちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている[30]

他に国民祝日法改正による敬老の日体育の日建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定を始めとした公害対策、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定などを行った。

長期政権とその背景

アメリカのニクソン大統領と(1972年)

政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの佐藤[31]」と呼ばれた手堅く無難な選択を行う守りの政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、5度の国政選挙と3度の総裁選を乗り越え、日本政治史にもまれな長期連続政権となった。

この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となり(いざなぎ景気)、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大した。

さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田はまもなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した[32]。特に直前の内閣改造を巡って関係が悪化し閣外に去っていた実力者・河野は有力な非主流派となり得ただけに、その死は極めて大きかった。

このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫大平正芳中曽根康弘鈴木善幸宮澤喜一竹下登たちを政府・党の要職につけて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術[33]で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力が高く「早耳の佐藤」と呼ばれた。

また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といった、その後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案などによる野党懐柔がこのころに定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で、参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直らに強行採決を自ら指示することもあり、日韓基本条約大学措置法沖縄返還協定など与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ちなどで強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭するなど、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。

こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。

石原慎太郎は戦後最強の内閣に佐藤内閣を挙げている。「忘れてならないのは、敗戦で喪った小笠原沖縄という領土を返還させた功績は歴代内閣で比類がない。強いからこそ長くやれるということもあるけど、あの人は物凄い二枚舌だったね、核の問題に関して。『持たず、つくらず、持ち込ませず』の非核三原則を言うから、僕は参議院であの人に楯突いたことがあるの。ところが彼はその裏で、実は若泉敬を使って、アメリカと核持ち込みの密約をむすんでいた。しかもそのとき、片一方でドイツと組んで核保有の議論をやろうとしていたんだ。凄いよ。さんも立派だったけれど、佐藤さんは寡黙なだけに凄味があったね。佐藤栄作は、見事な二枚舌を使って国家の大計を考えたんだ。日本人が核アレルギーというセンチメントで右往左往としているあの時代にね」[34] と述べている。

退陣へ

1970年の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による意中の福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつけること」を大義名分に、三木武夫を破り自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。

また外交では、ベトナム戦争における北爆を支持したため左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。国際連合では、中華人民共和国の加盟と国連安保理常任理事国入りは賛成しつつ、中華民国台湾)の議席追放には反対する「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」を米国とともに共同提案[35] し、外務大臣・福田赳夫とともにアルバニア決議に反対したことから、野党や台湾との断交も厭わない自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には福田赳夫の不信任決議案に、河野洋平田川誠一ら親中派若手議員の一部が欠席している[注 5]。しかし、アルバニア決議が可決されたことで、1972年1月の施政方針演説では「中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として[36]、中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。密使を香港に派遣して周恩来に親書を送り、北京訪問の希望も伝えていた[37][38]。なお、アルバニア決議が採択された際に「佐藤派の大番頭」と称された保利茂自由民主党幹事長は、訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも、周恩来は決議に反対していた佐藤政権への不信感から退けていた[39]

また、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」をめぐっての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、日米繊維交渉のこじれ、統一地方選挙における革新陣営の台頭などで佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、また通産相として、長年の懸案であった日米繊維交渉を強引にまとめ上げる(1971年10月)などして急速に台頭、総裁公選も田中が宿敵の福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤は退陣表明の前日、国鉄運賃値上げ法案と健康保険法改正案が参議院で廃案となったとき、初めて辞職を決意する。周囲には「大事な案件が自分の力で処理できなかったときこそ、やめるべきものさ。政治家とはそういうもんだ」と語ったという。佐藤の自民党総裁の任期は、この年の10月まであり、仮に10月3日まで在職となれば、桂太郎の通算在職日数(2886日)を超え、当時として、連続・通算の両方で在職1位を記録できた。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として、7年8か月にわたる長期政権を終えた。

退陣表明記者会見

1972年の第68回通常国会が閉幕した翌日の6月17日の退陣表明記者会見を行った[40]。冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ……。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった[41]

その後、内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で、佐藤は再び会見室に戻った。何事もなかったように佐藤が「そこで国民の皆さんにきょう……」と話し始めたのを反発した新聞記者が遮り、「総理、それより前に……。先ほどの新聞批判を内閣記者会として絶対に許せない」と抗議した。佐藤はテーブルを叩いて「出てください。構わないですよ」と言い放ち、これに対して抗議した記者は「それでは出ましょう」と応じた。毎日新聞の岸井成格が「出よう出よう!」と他の新聞記者達に呼びかけ、記者全員が退席した[41]

その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械(テレビカメラ)に向かって一人でしゃべっていた[42]」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと書くのは前代未聞の出来事だった[43]

なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという[44]劇団四季創設者として知られる浅利慶太[注 6]は佐藤に「退陣会見では、一度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか」と進言していたことを著書『時の光の中で』の中で明かし、この顛末の責任は佐藤にはなく「50パーセントは私、残りの50パーセントは当時の竹下登官房長官」としている[45]

また、佐藤はこの会見の中で「中共、中共と草木もなびくが、自分はそうは思わない」と述べて中華民国との関係継続を訴えた[注 7][47]

総理退任後

佐藤に贈られたノーベル平和賞の金メダル(国立公文書館所蔵)

1974年晩秋、田中金脈問題が騒がれ始めるなか、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力するなど、世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。

1975年5月19日築地の料亭「新喜楽」で、政財界人らとの宴席での最中にトイレに行こうとして立ち上がったところで崩れるように横倒しとなり、すぐいびきをかき始めたという。すぐ駆けつけた慶應義塾大学東京大学の医師団や家族も誰も病院に運ぼうとしなかった。倒れた原因は脳溢血。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見たあと、港区東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けたのち、6月3日に死去、74歳[1]

6月16日、日本武道館大隈重信以来の「国民葬」が行われた。葬儀委員長は田中角栄。遺族代表は兄・岸信介だった。

浄土真宗本願寺派第23世門主・勝如より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県田布施町にある佐藤家菩提寺浄土真宗本願寺派帯江山真光寺[48] より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福築地本願寺和田堀廟所と、郷里の山口県田布施町にある。

1996年から1997年に、倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社)が刊行された[注 8](佐藤自身は、朝日新聞を同紙の編集方針から毛嫌いしていた)。

人物・逸話

政界の團十郎

彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。口数の少ない佐藤が見開いた目で睨みつけると、誰もが戦慄を禁じ得なかったという[49]。「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。佐藤もその恩恵を受けて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。当時警察官僚として面識があった佐々淳行も著書で「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している[要出典]

性格

癇癪持ちで、じっと我慢するのは苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若いころ主人に殴られたことがある」と漏らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。

自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言したときは、「無礼じゃないか!おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた[50]

短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている[51]

首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年(昭和47年)に久野忠治北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出ていったという。

兄・岸信介との比較

三木武吉岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという[52]

石原慎太郎は、達筆で話がうまく、人を集める魅力を持つ兄の岸を、佐藤が「羨んでいる節があるように思えた」と述べている。

また、田中龍夫田中義一の長男)は、「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている[53]

中曽根康弘は、岸・佐藤兄弟は2人とも武士の風格を持ち[54]、宰相学を身につけていた[55]と高く評価していた。また、岸を「直入正直型の長州人」、佐藤を「狡いズルシャモ型長州人」と評した[54]

岸信介は総理大臣在任中にノーベル平和賞候補者になり[56]、歴代総理大臣で初のノーベル平和賞候補者であった[57]

対人関係

無愛想な反面、面倒見のいいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという[58]。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが、公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。そうした感情を表に出さずに仮面を被り続けた佐藤は、『栄ちゃんのバラード』という反戦フォークソングから柳家つばめの『佐藤栄作の正体』に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。

聞き上手な面があり、人の話によく耳を傾けた。学者や財界人、女性評論家[59]といったグループとは首相就任後も定期的に会合を持ち、そこに信頼する閣僚や党幹部が加わることも多かった。自らはほとんど酒を飲まないにもかかわらず、夜の宴席には頻繁に顔を出し、情報や知識の吸収に務めていた[60]

『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが窺い知れる。宏池会のホープでは宮沢喜一を好み、大平正芳のことは好かなかった。一方、政敵・河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた[61][62](河野の死去当日の日記では、「気の毒、遺憾なり」としながらも「梟雄去るの感なり」と記述されている[63])。

なお、首相退任後、昭和天皇香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにもかかわらず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡および取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局、宮内庁長官・宇佐美毅との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。このほかにも、佐藤は香淳皇后に反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。昭和天皇は、当時の田中内閣に対し、高価な贈り物は持ってこないよう異例の申し入れを行っている[64]

マスコミとの関係

退任の記者会見における騒動にも代表されるように、佐藤は新聞や雑誌などの活字報道を一貫して嫌っていたことで知られるが、その始まりは第2次吉田内閣で内閣官房長官に抜擢された際に、当時はまだ非議員で政界に不慣れな佐藤を新聞各社の社説が酷評したことにさかのぼる。佐藤が特に嫌悪していたのが朝日新聞で、首相の見解や政府の方針などあげた記事や社説が、実際に自身や政府が意図するものとは異なったものになっているときには激しく怒り散らした。

佐藤の朝日嫌いは自身の日記に成田デモ事件への報道に関連して「何としても朝日征伐にかからねばなるまい」と書きなぐるほど徹底したものだったが、佐藤の死後にその日記をまとめて『佐藤栄作日記』全六巻を刊行したのは、皮肉なことにその朝日新聞社にほかならなかった。

また、佐藤は毎日新聞にも好意を持っておらず、毎日新聞社傘下で大阪のテレビ局の毎日放送(現:MBSメディアホールディングス)が東京のテレビ局で当時経営危機に陥っていた東京12チャンネル(現:テレビ東京)を買収して、「東京毎日放送」に商号変更し、新テレビネットワークを構築しようと計画していたのに反対し、東京12チャンネルは日本経済新聞または東京新聞(の発行元である中日新聞)が引き受けるべきと郵政事務次官浅野賢澄(後のフジテレビ会長)を通して、毎日放送社長の高橋信三に伝達。結局、毎日放送は東京12チャンネルの買収を諦め、佐藤が候補として挙げていた日本経済新聞社が東京12チャンネルを引き受けることで決着した[65]

栄ちゃんと呼ばれたい

1964年大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた[66]

1968年12月16日参議院予算委員会において、山田勇(横山ノック)との間に以下のやり取りが記録されている(議事録より一部表記を改編)。

山田勇「榮ちゃんと呼んでほしいと総理はかつて申されたことがありますが、現在もそのお気持ちにはお変わりありませんか」
佐藤榮作「どうも場所によりますね。私はやはり大衆性を持ちたい、こういう意味でかようなことは申しましたが、しかし場所だけは選んでください、お願いします」
山田勇「私は、総理が自分のことを榮ちゃんと呼んでほしいと申しておられるのを聞いて、あ、この人はわれわれ国民の中に飛び込んできてくれるほんとうの政治家だと私は思いました。ところがどうやらそれは完全に私は裏切られているようでございます。いま総理は、一般大衆、庶民から縁遠い存在となっているように私は見受けます。政治というものは、弱い者を助け、貧しい者を救うのがひとつの大きな目的だと私は思っております。そういう点について、総理はどういうふうにお考えでしょうか、お答えをお願いします」
佐藤榮作「私の政治モットーは人間尊重にございます。このことはよくたびたび申しておりますから、ただいまご指摘になりましたような点、十分に考えてまいりたいと、かように思います」

語録

  • 内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」
  • 「参議院を制する者は政界を制する」
  • 「テレビはどうした? テレビはどこにいる!」(退陣表明をした記者会見の最初の発言。早い時期からテレビ報道が国民に与えるインパクトの強さを認識しており、テレビ映りに配慮していた[67]

その他の逸話

ノーベル平和賞をめぐって

1974年ノーベル平和賞受賞は、上記の通り非核三原則の制定などが評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一によるロビー活動が寄与したといわれており[78]、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。元外交官で自民党の元参議院議員鹿島守之助鹿島建設会長)もこの受賞工作に関与した[79]。しかし、平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。のちに公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその1人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという[注 9]

この報道に対して次男の佐藤信二は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞したとき『佐藤個人ではなく、国がもらったものだ』と語っている」とコメントした[80]。ただし上記の通り、2009年(平成21年)に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年(平成22年)10月に『NHKスペシャル 核を求めた日本』において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみに出た[81]西尾幹二は、佐藤が核武装論から変節し、「アメリカに日本国を売って」ノーベル平和賞を得たことが日本の保守政権を堕落させた、と批判している[82]

佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者(高坂正堯[注 10]梅棹忠夫ら)の意見を入れて「非核三原則を世界各国も導入することを望む」という内容の一節を入れたが、最終的に削除した。これについて上記『NHKスペシャル』では、佐藤が最終稿を作る前に、来日したアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーと面談した影響を指摘している(キッシンジャーは、「何をとぼけたことを言い出すのか」と反発したという)。ちなみに西尾幹二はこの件について、「キッシンジャーは彼(注:佐藤)の前に立ち塞がるアメリカの『意志』そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具である」と論じ、佐藤が削除した上記の一節を「日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない」と評し、核武装論者としての佐藤のせめてもの抵抗だったのではないか、と論じている[82]

この1974年(昭和49年)11月19日に元赤坂迎賓館で行われた佐藤・キッシンジャー会談の具体的内容は、佐藤がキッシンジャーに、「もし可能なら、核兵器の先行使用の放棄を話し合うため、核保有5か国が集まるよう受賞講演で提案しようと考えている」と述べ、すべての国が核兵器の先行使用を放棄する方向への提起を授賞式講演「核時代の平和の追求と日本」に盛り込みたい意向を伝えたが、キッシンジャーは、「米国はそうした話し合いへの参加を拒んでいる唯一の国だ」と答え、「米国が核兵器の先行使用を放棄したら、それは日本にとって危険だ」として、ソ連と中国の軍事的脅威を理由に拒んだ[83]

キッシンジャーは、「ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です」という見解を示し[83]、翌日の中曽根康弘との会談でも、もしも米国が非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根がNPTに関連して発した「米ソは非核国に核兵器を使ったり、核兵器で脅迫したりしないと確約できますか」という要求を拒んだ[83][注 11]

なお、ベトナム戦争支援政策、中国敵視外交などを進めた佐藤の受賞を疑問視する意見もあり、フランスの『ル・モンド』紙は「驚くべき、異議のある決定」と批判している[84]

略年譜

「佐藤栄作先生之景徳碑」
佐藤がかつて駅長を務めた福岡県筑紫野市JR二日市駅のそばにある石碑
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年)5月 - 門司鉄道局庶務課文書掛長。
鳥栖運輸事務所長当時
1931-33年ごろ
  • 1931年(昭和6年)4月 - 門司鉄道局鳥栖運輸事務所長。
  • 1932年(昭和7年)2月 - 次男・信二が生まれる。
  • 1933年(昭和8年)8月 - 門司鉄道局運輸庶務掛長。
  • 1934年(昭和9年)6月 - 欧米の鉄道研究を目的とした在外研究員で、8月に出発。2年にわたり北中米・欧州各地を視察する。
  • 1936年(昭和11年)
    • 4月 - 帰国。
    • 7月 - 鉄道省事務官・監督局業務課勤務。
  • 1937年(昭和12年)6月 - 鉄道省陸運監理官。
  • 1938年(昭和13年)
    • 5月 - 中華民国へ出張。
    • 6月 - 帰国。
    • 8月 - 鉄道書記官・監督局鉄道課長。
    • 9月 - 中華民国へ出張。
  • 1939年(昭和14年)6月 - 中華民国より帰国。
  • 1940年(昭和15年)6月 - 鉄道省監督局総務課長。
  • 1941年(昭和16年)12月 - 鉄道省監督局長。
  • 1942年(昭和17年)11月 - 監理局長。
  • 1943年(昭和18年)11月 - 運輸通信省自動車局長。
  • 1944年(昭和19年)4月 - 大阪鉄道局長。
  • 1946年(昭和21年)2月 - 運輸省鉄道総局長官。
  • 1947年(昭和22年)2月 - 運輸次官。
  • 1948年(昭和23年)
官房長官時代、兄の岸信介と
戦犯容疑が晴れて巣鴨プリズンから釈放された岸は、その足で官房長官公邸に弟を訪ねてきた。1948年12月24日。
師・吉田茂とともに
自由党代議士会で挨拶する総理総裁の吉田茂、その左に建設大臣の佐藤、右は代議士会会長の小澤佐重喜。1953年。
  • 1953年(昭和28年)1月 - 自由党幹事長
  • 1954年(昭和29年)
    • 4月 - 造船疑獄で逮捕請求に犬養健法務大臣指揮権発動。
    • 7月 - 幹事長辞任、党総務。
    • 9月13日 - 山口県で行われた外遊壮行会会場で、男に包丁で切りつけられるが無事[85]
  • 1955年(昭和30年)11月 - 自由民主党結成に不参加、吉田茂とともに無所属となる。
  • 1956年(昭和31年)12月 - 政治資金規正法違反で訴追されたが、国際連合加盟の恩赦で免訴。
  • 1957年(昭和32年)2月 - 鳩山一郎の引退後、自由民主党入党。
  • 1958年(昭和33年)6月 - 第2次岸内閣大蔵大臣に就任( - 1960年7月)。
  • 1961年(昭和36年)7月 - 第2次池田内閣第1次改造内閣通商産業大臣に就任( - 1962年7月)。
  • 1963年(昭和38年)7月 - 第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官、科学技術庁長官に就任。
  • 1964年(昭和39年)
    • 11月 - 内閣総理大臣に就任( - 1972年7月)、第1次佐藤内閣発足。
    • 12月 - 自由民主党総裁。
  • 1965年(昭和40年)7月 - 心臓血管研究所付属病院に入院[86]
  • 1967年(昭和42年)
  • 1970年(昭和45年)1月 - 第3次佐藤内閣発足。
  • 1971年(昭和46年)8月 - 日本の首相として初めて広島平和記念式典に出席。
  • 1972年(昭和47年)
    • 6月 - 自由民主党両院議員総会で退陣を表明。このときの記者会見で内閣記者団と衝突。
    • 7月 - 第3次佐藤内閣総辞職。
  • 1974年(昭和49年)12月 - ノーベル平和賞受賞。
  • 1975年(昭和50年)
    • 5月19日 - 東京都中央区築地料亭新喜楽)で脳卒中を起こして倒れ昏睡状態となる。
    • 6月3日 - 午前0時55分に意識が戻らないまま港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、満74歳。従一位菊花章頸飾を追叙。
    • 6月16日 - 日本武道館で国民葬
  • 1977年(昭和52年)5月 - 遺骨を山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬。

栄典

外国勲章

著書

  • 『繁栄への道』周山会出版局、1963年2月。 
  • 『今日は明日の前日』フェイス、1964年6月。 
  • 『有言実行 参議院選挙第一声』自由民主党広報委員会、1965年6月。 
  • 佐藤栄作、福田赳夫椎名悦三郎『第49回臨時国会所信表明演説集』自由民主党広報委員会、1965年7月。 
  • 佐藤栄作、椎名悦三郎、藤山愛一郎『第50回臨時国会所信表明演説集』自由民主党広報委員会、1965年10月。 
  • 内閣総理大臣官房 編『佐藤内閣総理大臣演説集』内閣総理大臣官房、1970年5月。 
  • In quest of peace and freedom. Japan Times. (1973) 
  • 『佐藤栄作ノーベル平和賞1974受賞記念講演集』佐藤栄作後援会、1975年1月。 
  • 『佐藤栄作日記』 第1巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年11月。ISBN 9784022571410 
  • 『佐藤栄作日記』 第2巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年2月。ISBN 9784022571427 
  • 『佐藤栄作日記』 第3巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年7月。ISBN 9784022571434 
  • 『佐藤栄作日記』 第4巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年6月。ISBN 9784022571441 
  • 『佐藤栄作日記』 第5巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年10月。ISBN 9784022571458 
  • 『佐藤栄作日記』 第6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1999年4月。ISBN 9784022571465 

家族・親族

家系

信夫佐藤氏の家紋「源氏車」

佐藤家武家家伝 信夫佐藤

佐藤家の祖先については、遠祖は源義経の家臣・佐藤忠信だという口伝がある。佐藤家の祖は、およそ300年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣・佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生まれ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子どものころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である[87]とある。

山口県史学会の調査によると、確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)ごろから萩藩の藩士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士で、この待遇はそのあともあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。

2代・市郎右衛門信友は妻をめとらず、3代目を継いだ源右衛門信貞は、同藩の福井清兵衛信政の次男である。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。

7代目の佐藤嘉津馬は安永8年(1779年)に12歳で病死する。佐藤家はこの7代目まで大内町御堀(現・山口市南部)の周辺に住んだ。嘉津馬夭折のあと、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。

10代目の曽祖父・寛作信寛長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家・吉田松陰に『兵要録』を授けた。明治になり、島根県令浜田県権知事などの要職に就いた。吉本重義著『岸信介傳』p.21に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた」とある。

11代目の祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。信彦の妻・みねは徳山藩国広治左衛門の娘である。信彦の弟・鼓包武は、大村益次郎に兵学を学び、西南戦争でも活躍した。日清戦争では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。

岸家

人物

農商務省時代(1923年)の岸信介と。左から岸良子岸信和、佐藤栄作、岸信介、吉田寛。
鳥栖運輸事務所長時代の佐藤一家。左から妻・寛子、次男・信二、栄作、長男・龍太郎、義母・藤枝。

実家(佐藤家分家)

  • 父・秀助
    田布施・岸信祐三男。佐藤家に婿入りして分家を立てた。山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を営んだ。栄作は父について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている[88]
  • 母・茂世(田布施・佐藤信彦の長女)
    子どもたちの教育はすべて母・茂世の手で行われた。スパルタ式の教育で、信介ら兄弟が泣いて家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になったときも「うちは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[89]
  • 長兄・市郎(軍人・海軍中将)
  • 次兄・信介(官僚、政治家・首相)
    士族岸信政へ養子。
    • タケ子
    • こま(泉伍郎の妻)
    • 音世玖珂郡川越村、吉永貫一の妻)
    • 千代子
    • 敏子(恒光四郎の妻)
    • 保子

養家・自家(佐藤家本家)

  • 叔父・義父・佐藤松介(茂世の弟、医師・岡山医学専門学校教授)
    佐藤家第12代当主。甥・姪にあたる栄作の兄・信介や姉たちの学費や生活費の面倒を見ていたが、1911年に34歳で急逝した。
    男子がなかったので、のちに分家の栄作が婿養子に入った。
  • 義叔母・養母・藤枝(外相・松岡洋右の妹)
  • 従妹・妻・寛子(松介と藤枝の長女)
  • 従妹・義妹・正子(松介と藤枝の次女)
  • 長男・龍太郎JR西日本取締役などを務めた)
  • 次男・信二(政治家)

親族

姻族関係系図

 
 
 
 
 
箕作秋坪
 
 
菊池大麓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作佳吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作元八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作秋吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作みつ
 
 
 
 
 
 
 
佐藤市郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安倍寛
 
安倍晋太郎
 
 
安倍寛信
 
 
 
 
 
 
 
 
岸要蔵
 
 
 
岸信祐
 
 
岸信政
 
 
岸良子
 
 
 
 
 
 
 
安倍晋三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐藤秀助
 
 
 
 
 
 
 
安倍洋子
 
 
岸信夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岸信介
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐藤信立
 
佐藤信寛
 
 
 
佐藤信彦
 
 
佐藤茂世
 
 
佐藤栄作
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坪井九右衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
鼓包武
 
 
 
佐藤松介
 
 
 
 
 
 
佐藤信二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
得能通昌
 
 
 
 
 
 
 
 
佐藤寛子
 
 
 
 
 
 
阿達実花
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐藤藤枝
 
安西浩
 
佐藤和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
得能よし
 
 
 
 
松岡賢亮
 
松岡三雄
 
松岡満寿男
 
阿達雅志
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斯波忠三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
坂本実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松岡洋右
 
 
松岡謙一郎
 
 
松岡静子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斯波くま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田島周子
 
 
坂本忠雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
進十六
 
 
 
進経太
 
 
 
松岡龍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田島道治
 
 
田島譲治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
閑院宮載仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
戸田華子
 
 
松岡震三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見宮邦家親王
 
 
伏見宮貞愛親王
 
 
伏見宮博恭王
 
 
 
華頂博信
 
 
松岡治子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田さわ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田祥朔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田桜子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹内吉菅
 
 
竹内綱
 
 
吉田茂
 
 
麻生太賀吉
 
 
麻生太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大久保利通
 
 
牧野伸顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信子妃
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田雪子
 
 
麻生和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三島通庸
 
 
牧野峰子
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王
 
寬仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
 
 
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇陛下
 
天皇陛下
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久邇宮朝彦親王
 
 
久邇宮邦彦王
 
 
 
 
 
 
香淳皇后
 
 
常陸宮正仁親王
 
 
文仁親王
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成

展示施設

岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室
岸信介・佐藤栄作兄弟の出身地・山口県田布施町にある田布施町郷土館内に設置されている。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。[90]

演じた人物

脚注

注釈

  1. ^ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている[7]。なお五高同期には、後に佐藤総理の私的なシンクタンクを果たしていたとされる思想家の仲小路彰や、他に濱口巌根らがいた。
  2. ^ 2候補から金をもらうことを「ニッカ」、3候補から金をもらうことを「サントリー」、すべての候補(オール)から金をもらいながらそのいずれにも投票しなかった(パー)ことを「オールドパー」といった。いずれもウィスキーの銘柄(ニッカウヰスキーサントリー角瓶オールド・パー)にかけたもの。
  3. ^ 池田勇人242票、佐藤栄作160票、藤山愛一郎72票、灘尾弘吉1票。
  4. ^ 公務員や公共企業体職員へのストライキ権付与の議論については先送りとなり、佐藤の二代後の三木内閣でのスト権ストまで持ち越されることとなる。
  5. ^ 佐藤の親台姿勢を物語るものとして、台湾國立故宮博物院には、佐藤夫妻が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。
  6. ^ 浅利は佐藤のブレーンとしてマスコミ対策や外交についての相談役をしていた[45]
  7. ^ 一方で、江鬮眞比古を密使として北京政府と国交正常化に向けた交渉を水面下で相当程度まで進めていたとされる[46]
  8. ^ 佐藤自身は日記刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」とはぐらかしていたが、佐藤家と交渉し没後約20年を経て実現した。原本紛失(首相就任前の数年分)により未収録がある。なお堀越作治『戦後政治裏面史 「佐藤栄作日記」が語るもの』(岩波書店、1998年)がある。著者は朝日新聞社政治部記者・編集局次長などを務めた。
  9. ^ ステネルセンのコメントはノルウェーのアフテンポステン紙からの引用[80]
  10. ^ 高坂は、佐藤ブレーン(前述の通り受賞記念の演説に際しても、原稿草案の助言をする等、政策の相談者だった)の一人として、後年ある月刊誌の座談会で「この受賞は、吉田茂・池田勇人・佐藤栄作3人が、行ってきた戦後政策全体に対する評価としての面が大きい(大意)」と、弁護する見解を述べている。
  11. ^ 佐藤とキッシンジャーのこの会談の内容は、2008年(平成20年)に早稲田大学客員教授・春名幹男フォード大統領図書館で確認した記録に残されている[83]

出典

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月26日閲覧。
  2. ^ 日本人で唯一の平和賞 佐藤栄作元総理大臣|チコちゃん×NHKニュース ノーベル賞ってなんでえらいの?”. NHK NEWS WEB (2019年10月1日). 2019年12月3日閲覧。
  3. ^ 山田, p. 23.
  4. ^ 岩川隆 1984, p. 19.
  5. ^ 山田, p. 27.
  6. ^ 岩川隆, pp. 18–19.
  7. ^ 山田, p. 42.
  8. ^ 山田, pp. 44–45.
  9. ^ 山田, pp. 45–46.
  10. ^ 山田, pp. 65–66.
  11. ^ 山田, pp. 67–69.
  12. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、240頁
  13. ^ 山田, p. 85.
  14. ^ 山田, pp. 96–102.
  15. ^ 岩川, p. 65.
  16. ^ 『大阪大空襲と市営交通事業』公営交通研究所、31-32頁(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)。
  17. ^ a b 福永, p. 123.
  18. ^ 福永, p. 67.
  19. ^ 「即位の礼」の恩赦10月にも、軽微犯罪限定・規模縮小か”. 産経ニュース (2019年5月2日). 2021年1月11日閲覧。
  20. ^ 福永, pp. 68–69.
  21. ^ 福永, pp. 125–126.
  22. ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
  23. ^ 『佐藤栄作日記』によれば、直前には「勝算漸く歴然たり」、敗北後は「長蛇を逸した感」と感想を記している。
  24. ^ 池田勇人VS佐藤栄作 昭和政権暗闘史 三巻 (静山社文庫) 大下 英治(著) [要ページ番号]
  25. ^ 福永, pp. 123–124.
  26. ^ 自民党の歴史”. 自由民主党. 2020年8月28日閲覧。
  27. ^ 小林吉弥 (11 January 2017). "【田中角栄 不敗の世渡り力】「運」たぐり寄せる努力をしているか 角栄氏「勉強せい」の言葉に隠された思い". 夕刊フジ. 産経デジタル. 2020年8月28日閲覧
  28. ^ “核密約文書、佐藤元首相邸に…初の存在確認”. 読売新聞. (2009年12月22日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091222-OYT1T00775.htm [リンク切れ]
  29. ^ https://www.nishinippon.co.jp/item/o/560181/
  30. ^ “「日中戦争なら核報復を」佐藤首相、65年訪米時に”. 朝日新聞. (2008年12月22日). オリジナルの2008年12月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081224011848/http://www.asahi.com/politics/update/1221/TKY200812210172.html 
  31. ^ 佐藤栄作とは”. コトバンク. 2021年1月11日閲覧。
  32. ^ 福永, p. 124.
  33. ^ 福永, p. 126.
  34. ^ 文藝春秋2011年十月特別号、150-152頁、政界三強鼎談、今学ぶべきは誰の内閣は、政権交代二年でこの体たらく憂国三銃士が吠える、石原慎太郎・野中広務亀井静香・司会後藤謙次
  35. ^ 第4章 国際連合における活動とその他の国際協力
  36. ^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説
  37. ^ 日本前首相披露中日交往過程中的另一面”. 人民網 (2004年7月6日). 2017年10月10日閲覧。
  38. ^ NHK BS1スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」2017年9月24日
  39. ^ “日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7)”. 日本経済新聞. (2011年10月30日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/ 2017年10月10日閲覧。 
  40. ^ “(新聞と9条:320)中曽根政権まで:13”. 朝日新聞. (2016年8月18日). https://www.asahi.com/articles/photo/AS20160818002397.html 2020年8月2日閲覧。 
  41. ^ a b 青島顕 (2017年4月13日). “Listening:<メディアの戦後史>佐藤栄作首相の退陣会見 新聞嫌い、記者に「出ろ」”. 毎日新聞. 2020年4月16日閲覧。
  42. ^ 朝日新聞昭和四十七年六月十七日夕刊
  43. ^ 「『政界の団十郎』佐藤栄作」、文春写真館「本の話 web」2009年2月2日号、2014年3月19日閲覧
  44. ^ 竹下登 『政治とは何か 竹下登回顧録』(講談社、2001年1月)、第9章2節 "「話がちがう、出て行け」" pp.249-450 ISBN 4-06-210502-0
  45. ^ a b 佐藤栄作首相「新聞記者は出ていけ」発言の真相 浅利氏、「責任の半分は私に・・・」と明かしていた”. J-CASTニュース (2018年7月18日). 2020年1月22日閲覧。
  46. ^ 佐藤栄作 最後の密使 宮川徹志著”. 日本経済新聞 (2020年5月30日). 2021年1月12日閲覧。
  47. ^ 本田善彦『台湾総統列伝 - 米中関係の裏面史 』中央公論新社、2004年、51頁。ISBN 4-12-150132-2 
  48. ^ 真光寺 田布施町観光協会Facebook
  49. ^ 【産経抄】10月30日”. 産経ニュース (2020年10月30日). 2021年1月11日閲覧。
  50. ^ 山田, p. 123.
  51. ^ 岩川, p. 58.
  52. ^ 岩川, pp. 94–95.
  53. ^ 岩川, p. 187.
  54. ^ a b 中曽根, p. 66.
  55. ^ 中曽根, p. 93.
  56. ^ Nomination Database Nobusuka Kishi (2015年現在、1964年分まで公開). ノーベル賞公式サイト. 2015年4月30日閲覧。
  57. ^ Nomination Database Country of nominee is: JAPAN (2015年現在、1964年分まで公開). ノーベル賞公式サイト. 2015年5月4日閲覧。
  58. ^ 『政治とは何か 竹下登回顧録』 87-89頁
  59. ^ 楠田や佐藤の日記には犬養道子中根千枝、江上フジ、相馬雪香秋山ちえ子田辺繁子、斉藤美紗緒らの名前が見られる。
  60. ^ 堀越作治『戦後政治裏面史』(岩波書店、1998年)
  61. ^ 上坂冬子『宰相夫人の昭和史』。
  62. ^ 魚住昭渡辺恒雄メディアと権力』
  63. ^ 佐藤栄作 (1998). 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. p. 293 
  64. ^ 岩見隆夫『陛下の御質問』より、(新版・文春文庫、2005年)
  65. ^ 村上聖一. “民放ネットワークをめぐる議論の変遷―発足の経緯、地域放送との関係、多メディア化の中での将来―”. NHK放送文化研究所 年報2010 第54集. pp. 25,30. 2019年12月25日閲覧。
  66. ^ 阿部 2003, pp. 197–198.
  67. ^ 「今日の問題 宰相失格宣言」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日夕刊、3版、1面
  68. ^ 吉田さんの墓に参拝 「心境? 明鏡止水さ」『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月17日朝刊 12版 15面
  69. ^ 佐藤寛子 1985.
  70. ^ 潮田潮『1000日の譲步: 円はドルに勝ったのか』(新潮社、1988年)p.58
  71. ^ 新井俊三『文人宰相大平正芳』(春秋社, 1982年)8頁
  72. ^ 『財界 第33巻 第21~30号』(財界硏究所, 1985)92頁
  73. ^ 浅川博忠『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』(東洋経済新報社, 1995年)30頁
  74. ^ 鎌倉文学館 鎌倉市
  75. ^ 佐藤B作 プロフィール 松竹映画男はつらいよ公式サイト
  76. ^ 内藤陽介『外国切手に描かれた日本』光文社新書、2003年。
  77. ^ 尾瀬あきらぼくの村の話 1巻』講談社東京都、1992年、33頁。ISBN 978-4-06-328305-1。「第1話 白い馬」 
  78. ^ 共同通信ロンドン支局取材班編『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書 2016年)
  79. ^ 吉武 2010, pp. 37, 38, 43.
  80. ^ a b 朝日新聞2001年9月5日付(共同通信配信)
  81. ^ 『核を求めた日本』は、2010年10月3日夜に放送
  82. ^ a b 『三島由紀夫の死と日本の核武装』、WILL2011年2月号
  83. ^ a b c d 「『核の先行使用』放棄探る――佐藤元首相が提案、米は拒絶」(朝日新聞、2016年3月14日号 1面・3面)
  84. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p1089。
  85. ^ 「佐藤栄作切りつけた犯人送検」朝日新聞 昭和29年9月13日夕刊 3面
  86. ^ 「日本の信用問題 佐藤さん病院からかけつけ」『日本経済新聞』昭和40年7月20日 15面
  87. ^ 山田, p. 15.
  88. ^ 岩川, p. 19.
  89. ^ 『岸信介傳』25、26頁
  90. ^ ようこそ、田布施町郷土館へ”. 田布施町. 2015年2月6日閲覧。

参考文献

関連文献

  • 衛藤瀋吉『佐藤栄作 衞藤瀋吉著作集 第十巻』東方書店、2003年。 
    • 元版(第1部)『日本宰相列伝22 佐藤栄作』時事通信社、1987年。
  • 楠田實『首席秘書官 佐藤総理との10年間』文藝春秋、1975年。 
  • 『佐藤政権・2797日』(上・下)、楠田實・千田恒 ほか編著、行政問題研究所出版局、1983年。
  • 『楠田實日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』和田純編・校訂、五百旗頭真編・解題、中央公論新社、2001年。 
  • 岡本文夫『佐藤政権』白馬出版、1972年。
  • 『鉄道人 佐藤栄作』 同 刊行会編、1977年。関係者の回想記
  • 宮崎吉政『宰相 佐藤栄作』原書房、1980年。 回想座談も収録
  • 千田恒『佐藤内閣回想』中公新書、1987年。 
  • 服部龍二『佐藤栄作-最長不倒政権への道』朝日新聞出版朝日選書〉、2017年。 
  • 村井良太『佐藤栄作-戦後日本の政治指導者』中公新書、2019年。
  • 神一行『閨閥-特権階級の盛衰の系譜 改訂新版』角川書店角川文庫〉、2002年、61-75頁。 
  • 秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、247頁。 
  • 御厨貴 編『歴代首相物語』新書館、2003年。 新版2013年
  • 渡邉昭夫 編『戦後日本の宰相たち』中公文庫、2001年。 
  • Eddy Dufourmont (2008). “Sato Eisaku, Yasuoka Masahiro and the Re-Establishment of February 11th as National Day: the Political Use of National Memory in Postwar Japan”. In Wolfgang Schwentker and Sven Saaler ed.,. The Power of Memory in Modern Japan. Global Oriental. pp. 204-222 

関連項目

人物

団体

  • 極真会館 - 初代会長を務め、会長就任の3ヵ月後に総理大臣に就任した。

外部リンク

映像外部リンク
池田総理大臣の退陣 佐藤内閣誕生 - NHK放送史
長期政権の終えん 佐藤首相退陣 - NHK放送史
佐藤栄作元首相 ノーベル平和賞受賞 - NHK放送史
公職
先代
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先代
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第4代:1952年 - 1953年
第21・22代:1963年 - 1964年
次代
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先代
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第12・13代:1963年 - 1964年
次代
池田勇人(事務取扱)
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先代
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次代
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先代
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第3代:1951年 - 1952年
次代
廃止
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第5代:1953年 - 1954年
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初代:1950年
次代
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