ダニー・サリバン
ダニー・サリバン Danny Sullivan | |
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ダニー・サリバン (2015年) | |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1950年3月9日(74歳) |
出身地 |
ダニエル・ジョン・サリバン三世 Daniel John Sullivan III アメリカ合衆国 ケンタッキー州ルイビル |
基本情報 | |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1983 |
所属チーム | '83 ティレル |
出走回数 | 15 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 2 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1983年ブラジルGP |
最終戦 | 1983年南アフリカGP |
基本情報 | |
CART PPG インディーカー・ワールド・シリーズでの経歴 | |
活動時期 | 1982-1993,1995 |
過去所属 |
フォーサイス・レーシング シアソン・レーシング ペンスキー・レーシング パトリック・レーシング ガレス・レーシング パック・ウエスト・レーシング |
出走回数 | 170 |
優勝回数 | 17 |
ポールポジション | 19 |
シリーズ最高順位 | 1位 (1988) |
選手権タイトル | |
1988 | CART PPG インディーカー・ワールド・シリーズ |
受賞 | |
1985 | インディアナポリス500(優勝) |
ダニエル・ジョン・"ダニー"・サリバン三世(Daniel John "Danny" Sullivan III, 1950年3月9日 - )は、アメリカ合衆国出身の元レーシングドライバー。1985年のインディ500で優勝したことで最もよく知られる。
生い立ちと経歴
[編集]サリバンはケンタッキー州ルイビルで生まれる。父親は建築業を営んでいた。ケンタッキー・ミリタリーインスティチュート(すべての学生が士官候補生となる軍事予備校)で学んだ後に渡英し、ジム・ラッセル・レーシングスクールに入る。サリバンはレース経歴を始める以前に様々な職を経験しており、その中には木こりやニューヨーク市のタクシー運転手などがあった[1]。
サリバンは21歳の誕生日プレゼントとしてイギリス、スネッタートンのジム・ラッセル・レーシングスクールで学ぶこととなる。フォーミュラ・フォード、F3に参戦したが、資金が尽きて帰国する。1977年11月には来日し、JAF鈴鹿グランプリに参戦している[2]。
1982年、北米フォーミュラレース最高峰のインディカーでのデビューを果たした。
F1
[編集]1983年にフォーミュラ1のティレルチームとの契約を結ぶ。これはこの年ティレルのメインスポンサーとなったイタリアのファッション企業ベネトンが、アメリカでの事業拡大のためにアメリカ人ドライバーの採用を希望したことが反映された。サリバンはこのシーズン、ノンターボエンジン勢の中では戦闘力を持つシャシーティレル・011を駆り第5戦モナコグランプリでは5位に入賞、2ポイントを獲得し、終盤戦からはニューシャシー012が投入されたが、シーズンランキング17位という結果であった。その中で4月にブランズ・ハッチで行われたノンタイトル戦、レース・オブ・チャンピオンズではケケ・ロズベルグに次いで2位に入賞している。しかしながらチームメイトのミケーレ・アルボレートが第7戦デトロイトグランプリで優勝するなどの活躍を見せたためサリバンはその陰に隠れる結果となり、翌年に向けてF1のシートを得ることができなかった。
インディカー
[編集]1984年、サリバンはアメリカに戻った。インディカー・シリーズにフル参戦し、1985年にはインディ500で優勝を遂げる。このレースでサリバンはスピンを喫し、マリオ・アンドレッティにリードされるものの、フラットスポットが生じたタイヤをピットで交換し、20ラップ後にアンドレッティを追い抜きそのまま優勝した。「スピン & ウィン」というフレーズで一躍全米の時の人となり、スポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド』の表紙を飾った。同誌の表紙を飾ったオープンホイールレーサーは、それから20年後に4位に入った女性レーサーダニカ・パトリックまでいなかった[3]。
1988年のインディ500でも、スタートから101ラップ中91ラップでレースをリードしたが、ターン1で壁に接触、リタイアした。しかしながら同年のインディカー・シリーズの年間タイトルを獲得している。
1986年、サリバンはテレビ番組「マイアミ・バイス」にゲストスターとして出演する。売春婦を殺害し起訴されるカーレーサー役であった。ドラマはマイアミ・グランプリにおけるピットレーンでの様子などいくつか短い場面が組み入れられた。サリバンの台詞は限られたものであり、最も長いのは警察署での取り調べ場面でのものであった。
1992年、レアはNintendo Entertainment System用ソフト「Danny Sullivan's Indy Heat」を発売した。
その後
[編集]1994年、サリバンは休暇を取って解説者としてABC/ESPNに加わった。また同年、NASCARウィンストンカップ・シリーズの何戦かに出場しようとした。しかしながら、ブリックヤード400に出場したのみで、予算の限られたチームでは33位で完走するのがやっとであった。また、ゲストとしてドイツツーリングカー選手権のアルファロメオをドライブし、ル・マン24時間レースにヨースト・レーシングからダウアーポルシェ・962Cを駆ってティエリー・ブーツェン、ハンス=ヨアヒム・スタックとともに出場した。
1995年はインディカーに復帰したが、この年が最後の参戦となった。第13戦のミシガンでクラッシュ、負傷し、骨盤を始めとする重傷を負った。回復の途中に彼はオープンホイールからの引退を発表した。翌年から再びABCの解説者に就任した。
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レース戦績
[編集]ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
[編集]年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | Pos. | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975年 | Team Modus | Modus M1 | フォード | MON Ret |
NÜR |
AND Ret |
MNZ DNQ |
CET |
DJU |
NC | 0 |
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
[編集]年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | Pos. | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976年 | Team Modus | Modus M3 | ハート | HOC | THR | VLL | SLZ | PAU | HOC | ROU | MUG DNQ |
PER DNS |
EST | NOG | HOC | NC | 0 | |
1977年 | Warsteiner Eurorace | TOJ F202 | BMW M12/7 | SIL |
THR DNQ |
HOC |
NÜR |
VLL |
PAU |
18位 | 2 | |||||||
Netherton-Worth Boxer Cars | ボクサー・PR276 | ハート | MUG 12 |
ROU DNQ |
NOG 11 |
PER |
MIS 9 |
EST 11 |
DON 5 |
全日本F2000選手権
[編集]年 | 所属チーム | マシン | 車番 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | カプリコン・1 ビクトリーサークルクラブ | ラルト・RT1 | 36 | SUZ | SUZ | NIS | SUZ | FSW | FSW | SUZ | SUZ 12 |
-[4] | - [4] |
CART
[編集]フォーミュラ1
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | ティレル | 011 | コスワース V8 | BRA 11 |
USW 8 |
FRA Ret |
SMR Ret |
MON 5 |
BEL 12 |
DET Ret |
CAN DSQ |
GBR 14 |
GER 12 |
AUT Ret |
NED Ret |
ITA Ret |
17位 | 2 | ||
012 | EUR Ret |
RSA 7 |
フォーミュラ1 (ノン・チャンピオンシップ)
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 |
---|---|---|---|---|
1983年 | ティレル | 011 | コスワース V8 | ROC 2 |
NASCAR
[編集]ウィンストン・カップ・シリーズ
[編集]年 | チーム | No. | 製造 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | NWCC | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | マッテイ・モータースポーツ | 99 | ポンティアック | DAY | CAR DNQ |
RCH | 74位 | 64 | ||||||||||||||||||||||||||||
ヴァーチュ・レーシング | シェヴィー | ATL DNQ |
DAR | BRI | NWS | MAR | TAL | SON | CLT | DOV | POC | MCH | DAY | NHA | POC | TAL | IND 33 |
GLN | MCH | BRI | DAR | RCH | DOV | MAR | NWS | CLT | CAR | PHO | ATL |
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1988年 | シルクカット・ジャガー トム・ウォーキンショー・レーシング |
プライス・コブ デイビー・ジョーンズ |
ジャガー・XJR-9 | C1 | 331 | 16位 | 14位 |
1994年 | ル・マン・ポルシェチーム | ティエリー・ブーツェン ハンス=ヨアヒム・スタック |
ダウアー・962LM | LMGT1 | 343 | 3位 | 2位 |
1996年 | チーム・ビガッツィ SRL | ジョニー・チェコット ネルソン・ピケ |
マクラーレン・F1 GTR | LMGT1 | 324 | 8位 | 6位 |
2004年 | バロン・コナー・レーシング | トーマス・ビアッジ ジョン・ボッシュ |
フェラーリ・575-GTCマラネロ | GTS | 163 | DNF | DNF |
参照
[編集]- ^ http://8w.forix.com/sullivan.html
- ^ 1977JAF鈴鹿グランプリ自動車レース JAFモータースポーツ
- ^ 『AUTO SPORT No.1028 2005年8月18日&25日号』P95 三栄書房刊
- ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
外部リンク
[編集]- Grand Prix encyclopedia entry on Danny Sullivan
- Sullivan's 1985 win on Indy500.com
- The Greatest 33
- Danny Sullivan - IMDb
タイトル | ||
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先代 リック・メアーズ |
インディ500勝者 1985年 |
次代 ボビー・レイホール |
先代 ボビー・レイホール |
インディカー・ワールド・シリーズチャンピオン 1988年 |
次代 エマーソン・フィッティパルディ |