コンテンツにスキップ

ポール・クルックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポール・クルックス

Paul Crooks
生誕 1960年(63 - 64歳)
国籍 イギリスの旗 イギリス
業績
専門分野 エンジニア
勤務先 ワース・リサーチ
雇用者 RAE(1977 - 1982)
ベネトン(1986 - 1990,1992 - 1994)
レイナード(1991)
リジェ(1992 - 1996)
シムテック(1994 - 1995)
ジョーダン(1997 - 1998)
B・A・R
ミナルディ
テンプレートを表示

ポール・クルックス(Paul Crooks、1960年 - )は、イギリス出身のレーシングカー・エンジニア。

キャリア

[編集]

1977年から、ファーンボローの王立航空研究所RAE (Royal Aircraft Establishment)で航空エンジニアの見習いを始める。マーチのロビン・ハードも所属した著名な英国国立の航空研究所である[1]

パイストックのRAEの支局の英国立ガスタービン施設:NGTE英語版[2]で、ロールス・ロイスのジェットエンジンに超音速能力の付与をして、コンコルドに搭載した。

1982年、22歳でRAEに正式採用になり、5年間の勤務で(これは彼の受けた教育に対する会社への返済) 航空宇宙プロジェクトのディテールデザイナーとして働いた。ゴードン・コパックの甥のフランク・コパックとは学職を通して一緒だった[1]

1986年トールマン (後のベネトンルノー)にディテールデザイナーとして就職し、1993年にチーフコンポジットデザインエンジニアに昇格するまでの6年間、ロリー・バーンの下で働いた。1990年末から一時的にバーンがベネトンを離れてレイナードのF1参戦プロジェクトに参加した際は、クルックスもベネトンを離れ行動を共にしている。

ベネトンは1985年シーズン終了後にトールマンを買収し、チームは1986シーズンからベネトン・フォーミュラと改名されているが、ここでは、"設計ファーム"の呼称として“トールマン・グループ・モータースポーツ”が使用されているものの、実態としてはロリー・バーンのデザイン事務所に所属した。

1988年末、フランスのリジェ創設者のギ・リジェは極度の不振に終わった同年のチームを再興すべく技術チームの一新を図り、最高の人材を求めた。ブラジル人エンジニアのリチャード・ディビラ、アメリカ人のケン・アンダーソン、CAD-CAMエースのアンディ・ウィラードに並んで、クルックスをコンポジットデザイン部門の責任者に選んだ。

1991年、コンポジット専門家のクルックスは、1992年シーズンに向けてリジェ・JS37を製造している[3]

1993年、クルックスはフランク・ダーニーの下でリジェのチーフデザイナーになったが、チーム代表のシリル・ド・ルーヴルの逮捕によりチームは急激な衰退に陥る。

同年、ニック・ワースからのシムテック・リサーチのチーフデザイナー就任要請を受け入れることにして、シムテックに加わり、有望なシムテックS941S951の両方を設計したが、チームの資金不足とローランド・ラッツェンバーガーの死により、この車は真のメリットを発揮できなかった。チームは1995年半ばまで存続し、クルックスはダーニーからリジェに復帰要請という申し出を受け入れた。

1997年にトム・ウォーキンショーがリジェから撤退したことで、クルックスは再び移籍市場に出された。

イギリスのTWRに参加するのではなく、ジョーダンからのオファーを受け入れて、シルバーストンにある同チーム設計事務所の責任者になった。

クルックスは後にB・A・Rに移籍し、イタリアのミナルディに短期間所属した後、Acura ARX-01a、ARX-01bARX-02aを設計したワース・リサーチで働いている。

クルックスの作品

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b "Paul Crooks" - people”. grandprix.com. 2022年8月20日閲覧。
  2. ^ Cornwell, Simon. “Pyestock”. www.ngte.co.uk. 2022年8月20日閲覧。
  3. ^ "Didier Perrin" - people”. grandprix.com. 2022年8月19日閲覧。

外部リンク

[編集]